第二話 虎穴への退路
天正十一年六月。長宗我部の阿波攻めは続いていた。
引田で羽柴方の仙石秀久の軍を退けてから、ふた月が過ぎている。
農繁期に入っても、十河城の囲みは解かれていない。
これまでなら、兵の多くを村へ帰す頃である。戦に出る者の多くは田を耕す者でもあった。槍を持たせたまま夏を越せば、たとえ城を落としても、秋に刈るものがなくなる。
だが今年は、村ごとに兵を出す日をずらした。
帰す者と入れ替える者をあらかじめ定め、村々から集められる兵糧も、そろえた枡で量を見積もった。荷を運ぶ者と受け取る者を帳面に記し、どこで滞り、どこで目減りしたかを追えるようにした。
城を落とす妙策ではない。
落ちるまで、こちらが先に退かぬための仕組みだった。
そのため、十河城を囲む陣には、六月になっても兵と兵糧が入り続けていた。
政重も、その巡りを確かめるため、数日前から讃岐の本陣に入っている。
陣中で、政重は長宗我部の行く末を考えた。
東洋として歴史の先を知る身ならば、四国を早く平らげ、九州の島津と結ぶ道も考えられた。だが島津は遠く、いまだ九州すら一つにしていない。同じ敵を持っていても、秀吉に近い方から各個に潰されれば、それまでだった。
ならば、秀吉とは戦わない。
この春、秀吉は柴田勝家を滅ぼした。歴史が標どおりに進むなら、やがて徳川家康と小牧・長久手で衝突する。四国へ目を向けるまで、もう長くはない。
その前に平定を終え、四国の兵と船を動かせる大名として臣従する。土佐一国まで削られてから降るのと、四国を押さえてから従うのとでは、残せるものが違う。
それが、東洋の出した現実的な答えだった。
まずは讃岐を終わらせねばならない。
西讃と中讃の多くは長宗我部方へ傾いたが、東讃では十河城がなお囲みに耐え、その東には十河方の虎丸城が残っている。
その日の昼過ぎ、包囲陣から本陣へ使者が駆け込んだ。
城内には十日を越す蓄えがない。夜ごと城を抜ける兵も増えているという。
報告の末尾には、墨を濃くして一行が記されていた。
存保、なお城中にあり。
十河存保は、東讃に残る十河方の大将である。中富川で敗れ、勝瑞城を退いても兵をまとめ、なお長宗我部に抗い続けていた。
「今夜にも攻めるべきにございます」
諸将の一人が言った。
「城方の気が折れているうちに門を破れば、明朝には片がつきましょう」
「逃げる者が増えております。攻め口を増やせば、内より崩れまする」
力攻めを唱える声が続いた。
元親は黙って聞いていたが、やがて板間に広げられた絵図から顔を上げた。
「勝五郎。そなたならばどうする」
声が止んだ。
政重が讃岐へ来たのは、城攻めのためではない。兵糧の帳面と、交代する兵の数を確かめるためである。
政重は絵図へ目を落とした。
「落とすだけならば、今のままで落ちましょう」
「攻めぬと申すか」
「十日を待てば落ちる城に、なぜ兵を捨てまする」
香宗我部親泰が問うた。
「では、囲んで待つか」
「はい」
「それでは話が終わる」
元親は面白くなさそうに言った。
政重は首を振った。
「終わりませぬ」
指先を、十河城から東へ延びる道へ移した。
「存保を捕らえねばなりませぬ」
元親の目が細くなった。
「城ではなく、存保をか」
「城が落ちても、存保が虎丸へ入れば、東讃は終わりませぬ」
「ならば虎丸も囲むか」
「兵を割れば、こちらの囲みが薄くなりまする」
「では、どうする」
「城が落ちる折を狙います」
政重は十河城から虎丸へ向かう道筋を指でたどった。
「存保は、城方が崩れる前後に抜け、虎丸へ走るはずにございます」
「なぜそう思う」
「城とともに死ねば、東讃を束ねる者がおらぬからにございます」
「逃げる方が恥ではないか」
「恥を惜しむ者なら、中富川の後に勝瑞で死んでおりまする」
板間が静まった。
元親の口元が、わずかに動いた。
「生け捕りにするか」
「存保の首より、生きた存保の方が使えまする」
残る城へ降伏を促すにも、羽柴方との駆け引きにも、死体より人質の方が値がある。
「何人要る」
「百人」
「多い」
「では、八十」
「五十だ」
政重は口を閉じた。
道を塞ぐ者も弓を置く者も要る。供の数も分からない。
「五十で捕らえてみよ」
元親は言った。
「できぬと申すなら、城攻めの邪魔をせず帳面を見ておれ」
「承知いたしました」
「勝五郎」
「は」
「存保の首を、自ら取りに行こうなどと思うな」
「そのつもりはございませぬ」
答えだけは早かった。
十河存保と刃を交える気など、初めからない。
吉田政重は、のちに数多くの首を取り、百十五首の勇将と呼ばれたという。
東洋は、その話を信用していなかった。
軍記では、人の数がよく増える。三人を倒した者は十人を倒したことになり、退かなかった者は敵陣を縦横に駆けたことになる。
中富川で自分が何をしたかも、ほとんど覚えていない。気づけば槍を握り、気づけば血を浴び、生き残っていただけだった。
そんなものを頼りに、一国の将と戦うつもりはない。
「存保には近づきませぬ」
政重はそう言い切った。
◆
「近づくな、という御命令でございますか」
安岡玄蕃が聞き返した。
「そうだ」
政重は集められた兵を見渡した。
土佐衆が三十四人。玄蕃と畑山兵部。そこに讃岐の道を知る者が十四人。
「存保を見つけても追うな。馬を射よ。前後の道を塞ぎ、長柄で囲め」
「若殿は」
「後ろにいる」
兵たちの間に、わずかなざわめきが起こった。
兵部が口を開く。
「大将を捕らえる策にしては、大将がずいぶん遠うございますな」
「大将だから遠くにいる」
「……なるほど」
納得した声ではなかった。
政重は地面に置いた略図を指した。
「十河城から虎丸へ向かうなら、この道へ出る」
山際を通る細道だった。北へ折れれば海へ向かい、東へ進めば虎丸の方角へ抜ける。
道の両側には低い丘があり、松と雑木が茂っていた。
前後に倒木を置き、一行が入ったところで閉じる。丘から馬を射て、長柄で囲む。
政重自身は、全体を見渡せる後方の高みに置く。
自分が出る必要はない。
出てはならない。
「若殿」
讃岐の案内人が、藪の脇を指した。
「こちらにも細い道がございます」
下草が細く倒れている。
兵部がしゃがみ込み、土の窪みと折れた枝を確かめた。
「獣道ではございませぬ。具足を着た者も通っておりまする」
人一人なら通れる。だが狭く、馬で進むのは難しい。
「大勢は通れぬ」
「大勢は」
「十人置け」
兵部は眉を寄せた。
「二十は欲しゅうございます」
「本街道が薄くなる」
「こちらを抜かれれば、背へ回られまする」
「存保は逃げるのだ。狭い道へ兵を回し、こちらの背を取る余裕はない」
兵部は細道の奥を見た。
「逃げる者ほど、真っすぐ逃げるとは限りませぬ」
「十人だ」
政重は言った。
「五十人しかおらぬ。すべての道を厚くすることはできぬ」
兵部は政重を見たが、やがて頭を下げた。
「承知いたしました」
反論しない顔の方が、かえって気に障った。
道の広さ。
馬の速さ。
供の人数。
虎丸までの距離。
損得を量れば、存保の選ぶ道は決まる。
決まるはずだった。
◆
夜半を過ぎた頃、十河城の方角が赤く染まった。
雲の下に、松明の明かりが映っている。
やがて遠くで鬨の声が上がった。
一度。
二度。
重なる声が、夜の底を震わせた。
「落ちましたかな」
玄蕃が言った。
「まだ分からぬ」
政重は答えた。
ほどなく、包囲陣から使者が駆け込んだ。
「十河城、陥ちましてございます!」
「存保は」
「見当たりませぬ。城を出たものと」
「いつ出た」
「分かりませぬ。城中、なお乱れておりまする」
落城してから逃げたとは限らない。
城門が破られる前に抜けたかもしれず、前夜のうちに兵を分けていた可能性もある。
それでも、虎丸へ向かうならこの道へ出る。
政重は丘の上へ移り、伏せた兵の位置を確かめた。
空が白む頃、前方の藪から鳥が飛び立った。
一羽。
続いて二羽。
兵部が片手を上げた。
やがて、遠くから蹄の音が聞こえた。
政重は伏せたまま、右手を上げた。
【史実解説】
■引田合戦と十河城陥落
天正十一年(1583)四月、長宗我部元親は阿波から東讃へ進軍。これに対し、羽柴秀吉の命を受けた仙石秀久が二千余の兵を率いて讃岐へ渡り、引田周辺で長宗我部勢と衝突します。これが引田合戦です。
戦いは長宗我部方の勝利に終わり、仙石勢は小豆島へ退きました。しかし、十河存保の本拠である十河城はなお抵抗を続けていました。
史実では、天正十二年六月十一日付の文書で、香宗我部親泰が十河城の落城と存保の逃亡を織田信雄方へ伝えています。ただし、その五日後には秀吉が十河城への兵糧輸送を命じた書状も残っており、落城の正確な時期や経緯には、なお検討の余地があります。
本作では、吉田政重が兵糧輸送と兵役の交代制を整えた結果、長宗我部軍が農繁期にも包囲を継続できたものとし、十河城の陥落を一年ほど前倒ししています。
■鬼の子・十河存保
十河存保は、阿波三好家の武将・三好実休の次男として生まれ、十河一存の跡を継いで十河家の当主となりました。
養父にあたる十河一存は、三好長慶の弟で、畿内や讃岐の戦場で名を上げた猛将です。その武勇から「鬼十河」と恐れられ、傷を負っても塩を塗り込んで戦い続けたという豪壮な逸話も伝わっています。
存保自身も若くして戦功を挙げ、三好家の勢力が衰えた後も、中富川で敗れ、勝瑞城を失いながら、なお東讃の兵をまとめて長宗我部氏に抵抗しました。




