第一話 土佐の一升
十五の若武者が、長宗我部元親の御前で、天下を取るつもりかと問うた。
その噂は、当人が再び岡豊へ上がるより先に城内を駆け巡り、口から口へ渡るたびに大きくなった。
元親の政には隙があると言い放った。
四国の先を見よと迫った。
天下を取るなら、自分がその仕置をすると申し出た。
どれも、まるきり嘘ではない。
それゆえに始末が悪かった。
天正十年十二月。
月定めの出仕で岡豊へ上がった政重は、評定の間に続く小座敷で、自分の噂を聞いていた。
膝前には、馬ノ上の帳と、夜須の年貢を記した書付がある。
障子の向こうには、元親の出座を待つ一門や重臣たちが集まっていた。彼らが話しているのは、上方の戦でも、阿波の仕置でもない。
「吉田勝五郎とは、どのような若造じゃ」
「俊政殿の倅よ。中富川の初陣では、首級を挙げたとも聞く」
「槍も口も、よく働くらしい」
「御情けだけなら、月ごとに帳を持って参らせはすまい」
低い笑いが起こった。
噂とは、帳に載らぬ数字に似ている。
前世でも、東洋の名は人の口で増え、最後には刃となって返った。
政重は膝前の帳へ目を落とした。
「口の値打ちは、持ってきた帳を見れば分かる」
笑いを断った声は、低く静かだった。
香宗我部親泰である。元親の弟にして、一門の重臣であった。
紙を繰る音がした。
「それより、吉田の年貢じゃ。村方の納めを軽くしたにもかかわらず、蔵へ入る米は増えたとある」
「算用が逆ではないか」
「その訳は、勝五郎本人に聞けばよい」
親泰の声に、座が静まった。
やがて廊下の向こうから足音が近づいてきた。障子の内側に散っていた気配が、一息に整う。
長宗我部元親が出座した。
◆
「勝五郎、入るがよい」
呼ばれて、政重は帳と書付を抱え、評定の間へ入った。
左右には、親泰をはじめ、長宗我部家の一門と重臣が並んでいる。
五尺八寸余りの身体が進み出ると、十五と聞いていた何人かの視線が、わずかに上がった。
この身がただの十五歳であれば、その顔触れだけで膝を固くしたかもしれない。
だが今の政重には、土佐藩参政として藩主や家老と渡り合った、東洋の四十六年がある。
親泰の名と顔を結びつけ、残る者たちは座順と年恰好を頭へ入れた。名は、必要になった時に覚えればよい。
今度は、その落ち着きに何人かが眉を動かした。
十五の若者は値踏みされながら、こちらも値踏みしていた。
政重は元親の前へ進み、両手をついた。
「顔を上げよ」
元親の膝前には、夜須の納めを記した帳の写しが置かれていた。
「夜須では、村方の納めを軽くしたそうじゃな」
「はい」
「それでいて、吉田の蔵へ入る米は十二石余り増えたとある」
座がわずかにざわめいた。
「百姓から取る米を減らして、蔵の米が増えるか」
「増えまする。途中で取られていた米を、蔵まで届かせれば」
政重が手を上げると、近習が三つの枡を運び入れた。
一つは、村で百姓から米を集めていた枡。
一つは、集めた米を吉田の蔵へ納める枡。
中央に置かれたのは、岡豊の御蔵で用いる枡であった。
いずれも、一升枡と呼ばれている。
だが並べれば、違いは目にも明らかだった。
村の枡は大きい。
吉田の蔵へ納める枡は小さい。
岡豊の枡は、その中間に収まった。
「村方は、この大きな枡で米を出しておりました」
政重は最も大きな枡を指した。
「取り次ぐ者は、それを小さな枡へ移し、同じ百升として吉田の蔵へ納めます」
「同じ百升なら、米が余るか」
親泰が問うた。
「はい。その余りを、手間米と称して取っておりました」
百姓は、大きな枡で百升を出す。吉田の蔵には、小さな枡で百升が入る。
その間に残った米を、取り次ぐ者が取っていた。
帳には、どちらも百升としか書かれない。
米は道中で消えたのではない。
二つの一升の間で、抜かれていた。
「盗みではないか」
座の一人が低く言った。
「これまでは、手間米として黙認されておりました」
「ならば、盗みではないと申すか」
「いいえ」
政重は二つの枡を見た。
「誰も盗みと思わぬまま、毎年取っておるのでございます」
座から笑いが消えた。
親泰が三つの枡を見比べる。
「それで、誰を罰した」
「旧例に従った分までは問いませぬ。使っていた枡は、すべて取り上げました」
「今後は」
「御印なき枡を使い、その差を取れば、盗みとして罰します」
前世でも、人を替えただけでは悪習は残った。次の者が同じことをできぬよう、先に道を塞がねばならない。
政重は中央の御蔵枡へ手を添えた。
「岡豊の御蔵枡を原に、同じ大きさの枡を作らせました。村で集める時も、取り次ぐ時も、蔵へ納める時も、これ一つを使わせております」
「取り次ぐ者の手間はどうした。取り分が減れば納得するまい」
「運んだ米に応じ、吉田家から手間米を別に与えました」
「その分を出しても、蔵の米が増えたと申すか」
「十二石余りにございます」
「百姓の納めは」
「これまでより軽くなりました」
室内が静まった。
百姓は出す米が減った。
取り次ぐ者は、定められた手間米を受け取る。
それでも、吉田家の蔵には以前より多くの米が入った。
枡の差をなくし、手間米を別に定めただけである。
「なぜ、岡豊の枡へ合わせた」
座の奥から声が飛んだ。
「吉田だけの枡を作れば、岡豊へ納める際に、また量が変わります」
「吉田で一升、岡豊で一升では意味がないか」
「枡とは、出す者と受け取る者の間で同じであって、初めて枡にございます」
親泰が小さく笑った。
「槍も口も働くと聞いたが、枡まで働かせるか」
座の端から、低い笑いが返った。
今度の笑いには、侮りがなかった。
元親は御蔵枡を手に取り、しばらく眺めた。
「夜須だけの話ではあるまい」
「異なる枡が、同じ一升と呼ばれている土地ならば、どこでも起こり得まする」
「土佐には、幾つの一升がある」
「分かりませぬ」
元親の眉がわずかに動いた。
「分からぬと申すか」
「ゆえに、調べる必要がございます」
元親は御蔵枡を畳へ戻した。
年嵩の重臣が、眉を寄せた。
「村々には昔からの枡がある。急に替えれば、納めが重くなったと騒ぐ者も出よう」
「数だけを同じにすれば、さようになります」
政重は答えた。
「古い枡で百升納めていた村には、その米が御蔵枡で何升になるかを量り直させます。枡を替えても、今年の負担は変えませぬ」
「枡改めを口実に、年貢を増やすのではないか」
「それでは、別の枡を使って百姓から抜いていた者と変わりませぬ」
政重は三つの枡を見た。
「口を塞ぐのではございませぬ。枡の隙を塞ぎます」
親泰の目が、わずかに細くなった。
「宮内少輔様」
親泰が元親へ向き直る。
「これは、吉田領だけで終わらせるには惜しい仕置にございます」
元親はすぐには答えなかった。
三つの枡を見比べ、それから政重を見た。
「親泰」
「はっ」
「まず我が直領で、使われている枡を集めよ。岡豊の御蔵枡との差を調べ、古き納めを正しき量へ直せ」
「承知いたしました」
「枡には印を入れよ。年貢の納めには、印なき枡を使わせるな」
「はっ」
元親が政重を見た。
「勝五郎」
「はい」
「そなたも親泰に付け」
政重は両手をついた。
「まず直領から始める。成れば、一門の領へ広げる」
元親の手が、三つの枡の中央を押した。
「土佐の納め枡を、一つにせよ」
「ははっ」
天下を量ると口にした十五の若武者が、最初に元親から任されたのは、天下ではなかった。
土佐の一升であった。
【史実解説】
■一升枡
枡は、米や酒などの体積を量る道具です。現在の一升は約1.8リットルですが、戦国期には全国共通の一升枡が普及していたわけではありません。土地や用途によって枡の大きさが異なり、同じ「一升」でも実際の量が違うことがありました。
豊臣政権下では、検地や年貢収納に京枡が用いられるようになりますが、地方独自の枡はその後も残りました。全国的な統一が進むのは江戸時代に入ってからです。
■元親の右腕・香宗我部親泰
香宗我部親泰は、長宗我部元親の実弟です。香宗我部氏の養子となって家を継ぎ、兄・元親を軍事と外交の両面で支えました。使者として中央の大名と交渉するなど、長宗我部家の外交を担った人物として知られています。
天正十年当時は四十歳前後で、十五歳の政重から見れば、一門を代表する年長の重臣にあたります。




