第三話 帰りの算用
「九州へ兵を出せ、との仰せじゃ」
信親が朱印状を置いた。
天正十四年八月。秀吉は島津氏への備えとして豊後へ先遣の軍勢を送り、四国にも兵と兵糧、渡海の船を求めた。島津勢は筑前まで進み、大友領を脅かしている。
ついに来たか。
政重の胸に、前世で読んだ史書の一節が浮かんだ。
戸次川の戦い。天正十四年十二月。島津勢に敗れ、信親と十河存保が討死する。
だが、道筋は変わっている。長宗我部は土佐のほか阿波の大半と西讃を保った。伊予も小早川領とはならず、河野、金子、来島らが家を守っている。
あの戦が起こるとも、信親が九州へ渡るとも、まだ決まったわけではない。
それが厄介だった。
史書どおりなら、味方がどこで誤るか見当もつく。だが、昨年の白地で秀長を生け捕りにし、国分けを変えた。出陣する兵も船も、史実と同じはずがない。
救いたい命の行く先さえ、まだ見えぬ。
「政重。聞いておるか」
信親に呼ばれ、顔を上げた。
「はっ。まず、差し出せる兵と米を改めまする」
「殿下は四国の軍役を一つの目録にせよと仰せじゃ。父上が諸家を取りまとめるとの約定も、ここで試される」
親泰が書付へ目を落とした。
「諸家の申す数を足しただけでは、日限までに動かせるか分かりませぬな」
「左様にございます。船と水主も確かめまする」
「目録は石田治部少輔らが照らすそうじゃ。大坂で数が違うと言われぬようにな」
石田三成。後に豊臣の奉行として名を知られる男だが、今は軍役の目録を改める相手だった。
昨夏、秀吉へ岡豊の枡を預けた。天下で用いられるなら名は要らぬと説いたが、その仕組みが通用するかは、これから試される。
◆
「兄上。この三艘は、まだ数へ入れられませぬ」
夜須の吉田家屋敷で、正義は船の書付を差し出した。
久しぶりに見る弟は肩が広くなっていた。高尾城では久武親直とともに兵を率い、毛利勢を前に退路を守った。手の甲には傷跡も残る。
「塩飽の船か。西讃で米を積み、伊予へ回すはずじゃが」
塩飽衆は、讃岐と備前の間の島々を拠点とする、操船に長けた海の民である。
「羽柴方からも、同じ船方へ九州渡海の御用が届いております」
正義が三つの印を指した。
香川方を通じて借りるはずの船だが、仙石秀久の渡海にも使うと伝えられ、船方は決めかねているという。
「塩飽の船は、誰か一人の家のものではございませぬ。船持も水主も、それぞれ暮らしがございます」 「ゆえに、米を出す者だけで決めるわけにはいかぬな」
「船方は商いも断って支度しております。出す先が変われば、積む米も寄る港も変わります」
「双方へ引き受けると返事をしたのか」
「どちらへも、支度はできると。断れば咎められることを恐れております」
政重は眉を寄せた。同じ船を二つの目録に書けば、帳の上で船が増える。浜に兵を集めてから、迎えが来ぬと知るのだ。
「三艘をこちらから外せば済むか」
「それでは、ほかの湊で同じことが起こります。それに一艘は水主も足りませぬ」
「そこまで調べたか」
「船頭から聞きました。船があっても、漕ぐ者がおらねば動けませぬ」
正義は代わりの小船も調べていた。
しかし積める米は少なく、海が荒れれば渡れない。大船を待てば次の兵糧が遅れる。
「兄上は戻る船の算用もなさっております。されど、誰の命でいつ戻すか、船方には知らされておりませぬ」
「仙石の兵を渡した船が、そのまま我らの米を運ぶとも限らぬな」
「はい。傷兵を迎えようにも、船がほかへ回されておれば」
正義は高尾城での退き戦を話した。
「久武殿に『首は要らん、道を開けろ』と叱られました。敵を追うて、後ろの傷兵を忘れるところにございました」
「聞いておる」
「今度は、最初から帰る道を用意しておきとうございます」
政重は弟の書付を見直した。確かな船、返答待ちの船、軍役の重なる船。別々の欄に記してある。
教えたのは政重だが、帳にない事情を拾ってきたのは正義だった。
「兄上は兵を出す家も、米を積む蔵も揃えておいでです。拙者は、その先を船方に聞いただけにございます」
「それができる者は多くない。紙に書いてあることを、人に尋ねて確かめるのは骨の折れる仕事じゃ」
正義は首を振った。自分が預かった兵が船に乗れねば困る。ただそれだけなのだろう。
「九州へ渡るのは、恐ろしゅうございますか」
弟の問いに、政重は一瞬言葉を失った。
「……恐ろしいとも」
「兄上にも、そのようなことが」
「戦が恐ろしいのではない。帰るはずの者が帰れぬことじゃ」
信親の顔が浮かんだ。何を防げばよいのか、史書にはない。同じ戦になるとも限らぬ。
「ならば、まず船から改めましょう」
正義はそう言って書付を揃えた。
政重は頷いた。
「重なった船は別に記せ。返事を急がせるな。大坂と話がつくまで、どちらの役とも決めぬ方がよい」
「承知しました」
三艘を譲っても、別の湊で争いが起こる。問題は船方ではなく、重なった命令にあった。
◆
数日後、岡豊へ持参した目録には、軍勢と兵糧、船の数を分けて記した。
軍勢は定めの軍役と実際に動ける人数を、兵糧は蔵の米と積み出せる米を分けた。船も確約されたものだけを数え、返答待ちと重複分は別にした。
上座には元親がいた。信親は船の書付に指を置いた。
四国の仕置に用いた書式を、豊臣の軍役に合わせてある。
だが、大坂には大坂の決まりがある。帳の改め方で、責めを負う者も変わる。
「三艘のために、これだけ調べたか」
「この三艘なら目録から外せまする。されど、ほかの湊でも重なっておれば、渡海の日に船が足りなくなります」
親泰が言った。
「兵と米が揃うても、浜に船がなければ戦にはならぬ。羽柴方にも目録があろう。先方が改めると言えば、それまでではないか」
「ゆえに双方の帳を照らす仕組みを示しまする。どの船を誰の軍役に充てたか、後から分かるように」
「もし殿下の朱印状のある船を先に使うと申せば、どうする」
「先方へ回します。ただし、こちらの軍役から外したことを双方の目録に記し、積荷と運ぶ人数も明らかにしていただきます」
「向こうのやり方を改めさせるか」
「いえ。殿下の御奉行にも、帳を突き合わせて確かめていただけるようにいたしまする」
信親は正義を見た。
「この船の調べは、そなたがしたか」
「はっ。まだ返答待ちの船もございます」
「ならば、その目録に名を記せ。誤りがあれば、わしはそなたへ問う」
正義は背筋を伸ばした。
「船方との話を続けよ。ただし、無理に約束させるな」
弟が頭を下げるのを見届け、政重は向き直った。
「殿下の下知を果たすため、石田治部少輔らと目録を突き合わせとうございます」
「今回の船は、それで収まろう。だが、次も同じことが起こるな」
信親は元親へ向き直った。
「父上。政重を大坂へ遣わし、軍役の筋を定めさせとうございます」
元親はそれまで黙って聞いていたが、ようやく口を開いた。
「わざわざ大坂へ持ち込めば、殿下の下知に異を唱えると受け取られかねぬぞ」
「船が足りず軍勢を渡せなくなれば、殿下との約定を果たせませぬ。それを防ぐための使者にございます」
「大坂がこちらの申す通りにせねば、どうする」
「殿下の御下知には従います。ただ、兵も船も重なって数えぬよう、双方で確かめる筋だけは通しとうございます」
元親は信親を見つめた。
「よかろう。政重、大坂へ参れ。殿下との約定を損なうな。されど、こちらが預かる兵と船の数まで、相手任せにしてはならぬ」
信親は別の書付を開いた。
「もう一つ。仙石秀久が豊後へ向かう先手を預かるとのこと」
政重の手が止まった。
「羽柴の兵を動かすならよい。されど我らの兵まで同じ下知で動かすとなれば、話は別じゃ。寄騎には存保もおる」
十河存保。四国征伐で家督を譲り、長宗我部に組して羽柴方と戦った。羽柴へ降った十河家には戻れぬため、今は信親に仕えている。
その名を聞き、政重の胸に再び戸次川の川原がよぎった。
引田では秀久を討とうと追い、信親の退却の刻限を越えた。
あの時は、目の前の一人を倒せば未来を変えられると思っていた。
だが秀久を討っても、命令が食い違えば別の将が同じ過ちを犯す。
今度こそ、敵の首ではなく戦の仕組みを変えねばならぬ。そんな政重へ、信親が言った。
「誰が攻めよと命じ、誰が退けと命じるか。そこも大坂で確かめてまいれ」
親泰が閉じた扇で書付を押さえた。
「石田らにも、殿下の軍役を通すための算段があろう。そなたの帳を使えと申して済む相手ではないぞ」
「存じております」
「ならば、何を持って参る」
「三艘の船を争うためではございませぬ」
政重は正義の名が記された目録を畳んだ。
「天下の船を、二度数えぬための算用にございます」
元親は頷いた。信親もまた、何も言わずに政重を見ていた。
仙石秀久、十河存保、長宗我部信親。
史書で同じ川原に並んだ三つの名も、今はまだ別々の道にある。
ならば、道が重なる前に手を打つ。
政重は目録を抱え、大坂へ赴く支度を命じた。
お読みいただき、ありがとうございました。
創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いいたします。
【史実解説】
■塩飽衆と九州出兵
塩飽衆は、備讃瀬戸の塩飽諸島を拠点とし、操船や海上輸送に長けた人々です。
「塩飽勤番所文書」によると天正十四年(1586)八月二十二日、秀吉は塩飽衆に対し、仙石秀久の豊後出陣に用いる五十人乗りの船十艘と、一艘につき五人の水主を出すよう命じています。
遠征には兵だけでなく、船と水主の確保が欠かせませんでした。
■九州出兵前の四国情勢
天正十四年(1586)、島津氏の勢力拡大に追い詰められた大友宗麟は、秀吉に救援を求めました。
秀吉は九州への本格的な出兵に先立ち、前年の四国征伐で従えた諸将を豊後へ派遣します。先遣隊の指揮を任されたのは、讃岐を与えられていた仙石秀久でした。
同年九月十二日には、仙石秀久が十河存保・安富氏ら讃岐の軍勢三千余人を率いて豊後府内へ到着したと伝わります。さらに、長宗我部元親・信親父子も秀吉の命で渡海し、大友氏の救援に加わりました。
かつて四国で争った仙石・十河・長宗我部の諸将が、今度は豊臣方として同じ戦場に立つことになったのです。
一方、本作では白地城の戦いで長宗我部方が勝利したため、四国の国分けは大きく変わっています。
長宗我部は土佐・阿波の大部分・西讃を保持し、伊予では河野・金子・来島らが領地を維持。元親は秀吉の下で四国諸家の軍役を取りまとめる立場となりました。
九州における島津氏と大友氏の対立は続いていますが、秀吉が動員できる四国勢の構成や指揮関係は、史実と同じではありません。
果たして、この違いは九州での戦いに何をもたらすのでしょうか。




