第二話 道を致す
「吉田殿。拙者を、稽古所の指南役にお加えくだされ」
岡豊城下の屋敷を訪れた男は、挨拶もそこそこにそう切り出した。
天正十四年正月。政重が喜助とともに稽古所の支度を進めていたところへ、幡多の立石助兵衛が現れたのである。
「そなた、各地の蔵を改めておったはずではないか」
「はい。そのことでございます」
助兵衛は懐から書付を取り出した。墨で書き足したところが幾つもあり、紙の端は手垢で黒ずんでいる。蔵を巡るたびに持ち歩いたものらしかった。
「村と蔵の数が合わぬ所、受け渡しを記さぬ所。直させても、役が替われば元へ戻ります。別の城へ行けば、また同じことを申し聞かせねばなりませぬ」
「そこで、教える役か」
「拙者が三つの蔵を改めるより、三人に改め方を教える方が、先々は役に立ちましょう」
政重は助兵衛を見直した。
昨年、仕置役の候補としてこの屋敷に集まった折、二冊の帳の数字が一致しても、双方が示し合わせれば偽りは隠せると指摘した男だった。
そして前世の東洋にとっては、別の意味でも忘れがたい人物である。
立石助兵衛。後に正賀と名乗り、長宗我部家の興亡を『長元記』に書き残す男。東洋はその軍記を幾度も読んだ。そこに記された勝敗の先を知る者が、今は目の前で人を教えたいと願っている。
「面白い。だが、帳を改めるのと人に教えるのは違うぞ」
「心得ておりまする」
即答した助兵衛に、喜助が薄く笑った。
「では立石殿に、安芸の岩崎新兵衛をお任せしてはいかがでしょう」
「先日そなたが連れてきた少年か」
「はい。知らぬことを知らぬと申せる者にございます。教えられる側としても、手強いかと」
政重は頷いた。
「よかろう。信親様の許しを得て、まず三月、指南を試せ。帳と蔵米はそなたに任せよう」
助兵衛は深く頭を下げた。自分が試される側になるとは、まだ思っていない顔だった。
数日後、岡豊に稽古所が開かれた。
新しい建物ではない。仕置役の養成に使った屋敷の畳を整え、文机と硯を並べただけである。紙墨は節約し、写し損じた紙も裏を使った。
集まった者も十人ほど。読み書きの心得はまちまちで、寺の助力を得ながら、手習いと算用、実務を分けて教えることになった。遠方の者は家の仕事が忙しくなる前に帰す約束であり、教える側も、覚えさせたいことをすべて詰め込めるわけではない。
助兵衛の前へ、新兵衛が座った。
「立石様は戦にも出られたと聞きました」
「出た。だが、ここで槍は教えぬぞ」
少年がわずかに肩を落とす。
「槍で功を立てたいなら、兵糧のことも知れ。飯の尽きた兵に、槍を振るう力は残らぬ」
その言葉に、新兵衛の背筋が伸びた。
助兵衛は蔵米の受払を記した見本を広げた。以前、城の書役に教えた時は、書式を示せばすぐ理解された。今度も同じつもりだった。
「このとおり写せ。数と日付、相手の名を違えるな」
新兵衛は時間をかけて筆を動かした。字形は不揃いながら、最後の一行を残して書き終える。
「なぜ、受け取った米の数を空けておる」
「まだ受け取っておりませぬ」
「十俵を渡し終えた時の見本じゃ。十と書けばよい」
「では、この紙は渡す前には使えませぬか」
「無論じゃ。これは受け渡しの済んだ帳じゃ」
「それを先に申していただかねば、分かりませぬ」
新兵衛は生意気を言うつもりではないらしい。言葉は丁寧だが、分からぬまま筆を進める気もなかった。
助兵衛は眉を寄せた。
「見れば分かるであろう。受け取ったと書いてあるのじゃぞ」
「その字を覚えるために写しておりました。いつ使うかは、教わっておりませぬ」
言い返され、助兵衛は説明を重ねた。指図は指図、受取は受取、蔵の帳はまた別。ところが新兵衛は、その違いを紙の上だけでは飲み込めない。
「何度申せば……」
声が強くなり、新兵衛の筆が止まった。
少し間を置いて、少年が言った。
「田の水を引く時も、溝の掘り方を口で申されるだけでは分かりませぬ。まず鍬を持ち、水の流れるところを見せてもらいます」
助兵衛は言葉を失った。
新兵衛は、帳に記されたことと実際のことが違ってはならぬと考えている。それはかつて、自分が政重の前で説いた理屈と同じだった。
ならば、この少年が愚かなのではない。教える側が、何を知らぬのかを見ていなかった。
「……よし。紙は置け」
助兵衛は木片を十個、畳に並べた。
「これを米十俵とする。そなたは蔵番じゃ。五俵出せと命じられた。何を書く」
「五俵を出す、と」
「それは命じられた数じゃ」
助兵衛は木片を三つだけ手渡した。
「実際に渡したのは」
「三俵」
「残る二俵は」
「蔵に残っております」
「よい。命じたことと、実際にしたことを別に記せ」
新兵衛は幾度も間違えた。助兵衛もそのたびに口を出しかけ、まず何が分からぬのか尋ね直した。
授業の終わり、助兵衛は自分の手控えに一行加えた。
見本は、使う時を先に教えること。
助兵衛は筆を止め、さらに小さく書き足した。
問われたら、答える前に何を知らぬかを確かめること。
人に教えるための覚書を作るとは、ひと月前には思ってもみなかった。
◆
二月も半ばを過ぎた。
稽古所で学ぶ者が皆、帳を読めるようになったわけではない。名を書くにも難儀する者がおり、算用が得意でも文章になると詰まる者もいる。それでも、隣の者に数字の書き方を教える姿が見られるようになった。
ある日、新兵衛は安芸から届いた書付を助兵衛に差し出した。
先に政重が調べさせた、用水の堰を直す件である。村からは、人夫二十人を五日出すとの返答があった。支給米の見積りも添えられている。
「何かおかしいか」
「人数も米も合っております。されど、材木のことが書かれておりませぬ」
「堰を直すのに木は要ろう」
「はい。山から運ぶのであれば、その者も要ります。二十人の内に含むのか、別に出すのか。木がすでに揃っておるのかも分かりませぬ」
「では、米が足らぬと申すか」
「まだ分かりませぬ。確かめるべきかと」
助兵衛は書付を戻した。
「ならば、その問いを書け」
新兵衛は筆を取った。難しい字は助兵衛に尋ねながらも、自分で確かめるべきことを短い文にした。
立派な仕置役には程遠い。だが、以前なら口でしか説明できなかった疑問を、今は書状にして村へ届けられる。
それを見に来た政重は、書付を読んで頷いた。
「一月で、ここまでできるようになったか」
「いえ、字はまだ危なっかしゅうございます」
助兵衛が答える。
「されど、確かめるべきことを自ら見つけました。それは教えた通りの問いではございませぬ」
「そなたの教え方も変わったようじゃな」
「蔵を改める方が、よほど容易うございました」
「では、戻るか」
「いいえ。まだ学ぶことがございます」
新兵衛が驚いて助兵衛を見た。
「師も学ぶのでございますか」
「わしとて、教え方は知らなんだ。今も知らぬことばかりよ」
傍らの喜助が口を開いた。
「『論語』に、君子は学びて以て其の道を致す、とございます」
「道を致す、か」
政重はゆっくり繰り返した。
「学ぶのは字を覚えるためだけではない。学んだことを世に役立て、己の務めを果たす。教える者もまた学び続ける。それが『致道』ということであろう」
「わたくしは、槍を学んでもよいのでございましょうか」
新兵衛が尋ねた。手を動かしているうちに、かえって最初の望みが気になり始めたらしい。
「無論じゃ。槍も帳も、何のために用いるかが肝心よ」
助兵衛が続けた。
「堰が直らねば田が干上がる。田が干上がれば、出せる兵も減る。そなたが今日書いた問いは、まだ手柄ではない。されど、戦場へ出る者にも無縁ではあるまい」
新兵衛は少し照れたように、書付を膝の上で揃えた。
政重は白紙を広げ、喜助へ差し出した。
「武市殿。その二字を、そなたの筆で書いてもらえぬか」
「私が、でございますか」
「そなたが引いた言葉じゃ。それに、筆の腕ではそなたに及ばぬ」
かつて東洋は、半平太が書画に秀でた男であることを知っていた。政の道では相容れずとも、その筆の見事さまで否定するつもりはなかった。
喜助は政重を見つめ、やがてわずかに笑みを浮かべた。硯に向き直り、墨を含ませた筆を一度止め、白紙へ静かに下ろす。
致道。
端正で、伸びやかな二文字だった。
「これを稽古所の教えとしよう」
政重の言葉に、助兵衛は頭を下げ、新兵衛は墨の乾くのをじっと待った。
ほどなく、その紙は稽古所の壁に掲げられた。その下では助兵衛が新兵衛に、次の書付を差し出している。
教える者も、学ぶ者も、まだ道半ばであった。
この岡豊の小さな学び舎が、後に「致道館」と呼ばれるようになるのは、もう少し先のことである。
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【史実解説】
■致道館と吉田東洋
「致道館」は、実際に幕末の土佐藩に存在した教育機関の名称です。
文久二年(1862)、土佐藩参政・吉田東洋は、藩士の人材育成と藩政改革を目的として藩校「文武館」を開設しました。
それまでの儒学中心の教育を改め、文武両道を重視するとともに、洋学や砲術など新たな時代に必要な学問も取り入れた施設でした。
しかし、東洋は開校直後の四月八日に暗殺されてしまいます。
文武館が「致道館」と改称されたのは、その死後、慶応元年(1865)のことでした。
なお、本話で引用した『論語』子張篇の「君子は学びて以て其の道を致す」は、学問を通じて自らの道を究めるという意味を持ちます。
また、武市半平太は剣術のみならず書画にも優れ、多くの作品を残しています。
本作では、前世で対立した東洋と半平太が、戦国時代で協力して教育の理念を定め、喜助となった半平太が「致道」の二文字を揮毫する展開としました。
■立石助兵衛と「教学相長」
本話では、立石助兵衛が岩崎新兵衛の指導を通じて、自らも教えることの難しさを学んでいきます。
こうした考え方は、中国古典『礼記』学記篇にも見られます。
「学びて然る後に足らざるを知り、教えて然る後に困しむを知る」
学ぶことで自分に足りないものを知り、人に教えることで自分の理解が及ばないところを知る、という意味です。
この文章は「教学相長」という言葉へと続きます。教えることと学ぶことが、互いの成長につながるという教育思想です。
実際に物事を理解していることと、それを他人に教えられることは、必ずしも同じではありません。
仕置役として有能な助兵衛が、初学者である新兵衛の疑問によって自らの指導方法を見直し、「記録を残す者」から「記録の意味を教える者」へと発展させています。




