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岡豊宰相 ~幕末の改革者、戦国に還る~  作者: 曽我部穂岐
第十章 人礎たらしむ

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第一話 種まく冬

 天正十三年十二月。

 岡豊城下の屋敷で、政重は最後の書付を閉じた。


「十二人か」


 土佐、阿波、西讃の城々から集まった仕置役の候補者である。昨年、信親の命で二十余人を集め、公用枡と帳の扱いを教えた。彼らは各地で働き、仕置は確かに進んでいる。

 

 だが、仕事が増えれば人も要る。二度目の募集は、思いのほか振るわなかった。


「うち、帳を一人で扱える者は七人にございます」


 向かいに座る武市喜助が答えた。


 数日前、政重の推挙によって信親の仕置衆へ召し出されたばかりである。池頼和の承諾を得た一年の出仕で、池家との主従も仁井田の所領も変わらない。任されたのは人材の選抜と配置だった。


「前には二十余人も集まったぞ」

「その時に、各城の余力をあらかた集めてしまったのでございましょう」


「人を惜しんでおるのではないか」

「それもございましょう。されど、書役を一人出せば蔵の帳が止まる城もございます」


 喜助が差し出した返書には、書状を作れる家臣が老いた一人しかいない城、蔵役が年貢の算用まで兼ねている城の窮状が並んでいた。


 政重は黙った。

 最初の二十余人は、余剰の人材ではなかった。各城が抱えていた数少ない実務家だったのである。


 彼らを呼び寄せた時、元の城の者たちは渋い顔をした。それを惜しんでいるだけと見ていたが、理由はほかにもあったのだ。残された者の仕事まで量るべきだった。


「一人、会わせたい者がおります」

「候補の中か」


「いいえ。帳が不得手ゆえ、名も挙がらなかった者にございます」

「それでは仕置役にならぬ」


「されど、土地を見る目がございます」

「……会わせよ」


 入ってきたのは、まだ頬に幼さの残る少年だった。


 数え十五歳。父は岩崎弥兵衛(やへえ)。かつて、長宗我部に滅ぼされた安芸(あき)国虎(くにとら)に仕えた家の出といい、今は安芸で田地を守って暮らしている。日に焼けた手を膝につき、頭を下げた。


「岩崎新兵衛(しんべえ)信懐(のぶかね)にございます」


 岩崎。その姓に政重は覚えがあった。東洋であった頃の少林(しょうりん)塾へ通った、弥太郎(やたろう)という門弟。もっとも、同じ姓だけで縁があると決まったわけではない。


「仕置役を望むか」

「恐れながら、槍をもって御奉公いたしとうございます。父からは、まず才を見ていただけと」


「家を立て直したいのじゃな」


 新兵衛は力強く頷いた。安芸国虎が滅びたのは少年の生まれる前だが、父から旧主の話を聞かされてきたのだろう。


「父は、田だけ守っておれば家の名も忘れられると申します」

「それで槍か」


「槍なら、働きを人に見てもらえまする」


 政重はその目を見た。功を立てる道を、戦場にしか見いだせない少年だった。


 政重は一枚の書付を渡した。


「読んでみよ」


 新兵衛は米俵の数と人夫の人数を読み上げたが、その先で詰まった。


「難しい字は……分かりませぬ」

「よい。分からぬことを偽るな」


 政重が読み聞かせたのは、安芸郡の村から届いた訴えだった。大雨で用水の堰が壊れ、田に水が届かず、年貢にも不足が生じた。村は減免と修復を願い出ている。帳には修復に要する人夫二十人、五日分の支給米が見積もられていた。


「これで直せると思うか」


 新兵衛は首を傾げた。


「どこの堰にございましょう」

「村の上手じゃ」


「川の取り口か、田へ分ける途中か。それで木の要りようも違います」


「見たことがあるのか」

「父の田でも昨年、堰を直しました。石の多い川ならよいのですが、砂では土俵も流されます」


「では、何人要る」

「現地を見ねば分かりませぬ。それに、二十人を五日も出せば、冬の支度が遅れる家もありましょう」


 政重は帳を見直した。年貢の不足は記されている。だが、壊れた場所も、田仕事の都合も載っていない。


 政重自身、書付を読んだだけでは人夫を出せばよいと思っていた。帳が嘘をついているのではない。必要なことが、まだ書かれていないのだった。


「そなたなら何をする」

「まず堰を見ます。木を伐る者、運ぶ者を分け、春の田起こしまでに水を通しとうございます」


「その間、村へどれほど米を残せる。修復の費えと合わせて勘定せよ」


 新兵衛は口を閉じた。


「……そこまでは、できませぬ」


 政重は新しい紙へ人夫と支給米を書き分けた。新兵衛に農作業の順序を確かめながら日数を改め、材木の量と堰の傷み具合は、現地を見るまで空欄にした。


「そなたは田を知る。わしは帳を扱える。どちらか一方では、この仕置は決められぬな」


 新兵衛は、二人で埋めた紙を見つめた。


「帳を読めれば、わたくしにもできますか」

「すぐには無理じゃ。だが、学べば今より先が見える」


「父に、読み書きばかり習って何になると問われたら、どう答えればよろしいでしょう」

「先ほど、そなたが堰を見たことをわしに教えたように、学んだことを父へ見せればよい」


 少年は少し迷い、それから頭を下げた。


「ならば、習いとうございます。槍だけでは家を立てられぬと、今は分かります」


 新兵衛を退出させると、政重は喜助に向き直った。


「惜しい者じゃ。だが、すぐに仕置は任せられぬ」

「文字と算用を教えればよろしいかと」


「誰が教える。いつ学ばせる。その間、あの者の田は誰が耕す」


 喜助は言葉に詰まった。


「……そこまでは考えが及びませなんだ」

「わしも同じじゃ」


 政重は積み上がった返書を見た。


「読み書きのできる者を集めればよいと思うた。最初に集まったゆえ、次も集まると。まだ先の土佐を見ておったらしい」


「私も、才ある者を見つけさえすれば、教えられると思うておりました」


 前の世にも、字を知らぬ者はいた。だが寺子屋や私塾が広まり、二人の周囲には、すでに手習いを済ませた者が多かった。少林塾も道場も、その土台の上に成り立っていた。


 この戦国にも寺で学ぶ者はいる。商人や村役人の中にも筆達者はいる。しかし、学ぶ機会は土地によっても家によっても違う。前世で出来上がっていた道を、そのまま歩かせるわけにはいかない。


「わしらは、学ぶ前のことを考えておらなんだな」

「学ぶ間の暮らしも、でございます」


 政重は白紙を引き寄せた。


 岡豊には、すでに仕置役を教えるための屋敷がある。そこを常の稽古所とし、帳と算用の基礎から教える。遠方の者は農繁期を避けて預かり、仕事の合間に学べるようにする。各城や寺へも協力を求める。


「学んだ者は、岡豊に召し抱えるのでございますか」

「それでは各家が子を寄越さぬ。原則として元へ返す。仕置を覚えた者には、次の者も教えさせよう」


「教師も育てるのですな」

「十人教えて十人増えるだけでは、すぐに行き詰まるからな」


「しかし、寺も城も人手を惜しみましょう」

「そこは信親様にお諮りする。勝手に四州へ命じるわけにはいかぬ」


 政重は筆を置いた。


「これまでは、才ある者を集めた。今度は、才を育てる」



◆


 夕刻、岡豊城で信親は二人の書付を読んでいた。


「仕置役の養成は、もう行うておろう」

「それだけでは人が尽きまする。手習いから教える場を設けとうございます」


「誰が教える。その者が抜けた仕事は誰がする」


 政重は一度、口を閉じた。


「まず城下の屋敷を用い、少人数で始めます。寺には協力を願い、無理に人を引き抜きませぬ。半年ごとに費えと成果を報告いたしまする」


「育てた者は誰の家臣となる」

「預かった者は元の家へ返しまする。伊予の諸家へも、望まれれば教えはいたしますが、召し抱えは別の話にございます」


 信親は喜助を見た。


「武市。そなたが人を選ぶのであったな」

「はい。見つけるだけでは足りぬと、今日知りました」


「では、学ばせた後まで見届けよ」


 信親は書付の端を指で叩いた。


「教えた者を返すと約しても、才があれば岡豊で使いたくなろう」

「その時は改めて主へ請いまする。人を教える約束で奪えば、二度と預けてもらえませぬ」


 しばらくして、信親は頷いた。


「よかろう。半年試せ。寺との話は親泰にも通せ」


 二人が頭を下げると、信親は続けた。


「だが、百姓まで字を覚えれば、年貢帳を読み、異を唱える者も増えよう」

「誤りがあれば、改めればよろしゅうございます」


「困る者もおるぞ」

「承知しておりまする」


 信親は政重を見つめ、やがて小さく笑った。


「また厄介なことを始めるな。まずは教える者を集めよ」


 政重は新しい人名帳を開いた。


 岩崎新兵衛。その名の脇には、帳方未熟と記してある。政重はさらに二字を書き足した。


 手習(てならい)。


 少年が将来何を成すかは分からない。

 前世の門弟と同じ姓であっても、その才まで同じとは限らぬ。


 だが、学ばぬうちから、その先を閉ざすこともない。


 政重は次の名を書くため、一行を空けた。



お読みいただき、ありがとうございました。

創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いいたします。


【史実解説】

■岩崎弥太郎の祖先 新兵衛

本話に登場した岩崎(いわさき)新兵衛(しんべえ)信懐(のぶかね)は、三菱の創業者・岩崎弥太郎の先祖として、岩崎家の家譜に記されている人物です。弥太郎は幕末に吉田東洋の私塾「少林塾」で学び、その才を認められました。


岩崎家は、もともと土佐国安芸郡を治めた安芸氏に仕え、安芸氏の滅亡後は長宗我部氏の支配下に入ったと伝えられています。


岩崎家伝記刊行会編『岩崎弥太郎伝 上』の家譜によれば、新兵衛の父は岩崎弥兵衛尉(やへえのじょう)信名(のぶな)。新兵衛は元亀二年(1571)生まれとされ、本話の天正十三年(1585)には数え十五歳となります。

ただし、戦国期の岩崎家の系譜は後世の家伝によるもので、同時代史料による裏づけは十分ではありません。信懐の具体的な事績や元服時期も不明です。



■戦国時代の識字率と教育

戦国時代の日本人は、どの程度文字を読み書きできたのでしょうか。

実は、天正年間の全国的な識字率を正確な数字で示すことはできません。当時は住民の読み書き能力を一斉に調査した記録がなく、残された史料も、文字を扱う立場にあった人々のものに偏っているためです。


室町時代から戦国時代にかけて、村落では年貢の配分や徴収、領主との交渉、土地の管理などに文書が用いられるようになりました。特に村の指導者層には、漢字を中心とした行政文書を読み書きする、高度な実務能力を持つ者も存在していました。


一方で、教育環境の地域差は大きかったようです。天正二年(1574)には、豊前の地主が子孫に手習いと計算を学ばせるよう戒めた家訓が残されています。また、戦国期の越前では、村に文字を教えられる者がおらず、旅の僧を迎えて教育を頼んだ事例も伝わります。


検地帳や年貢帳を作成できる者は、土地や収穫を把握するだけでなく、文字を扱えない人々にその内容を伝える役割も担いました。読み書きは単なる学問ではなく、領主の命令を村へ伝え、村の要求を領主へ届けるための重要な技術だったのです。

その後、江戸時代を通じて寺子屋や手習塾が発達し、幕末には庶民の教育機会が広がりました。

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