第五話 仕置を渡す
天正十三年八月。
大坂から戻った政重が岡豊城へ入った日は、朝から雨だった。
夏の雨に濡れた城坂を、米俵を積んだ荷駄がゆっくり上っていく。轍には赤黒い泥水が溜まり、城門の脇では書役が油紙を掛けた文箱を抱えて駆けていた。
戦は終わった。
だが、兵が槍を置けば、それまで止まっていたものが一斉に動き出す。
傷兵をどこへ帰すか。失った馬や武具をどう補うか。軍勢へ出した米をどの蔵へ戻すか。城を離れていた者の田畑を誰が改めるか。
評定所には、戦場の旗より多くの紙が積まれていた。
大坂で定められた四国の仕置も、すでに各地へ伝わり始めている。
土佐は長宗我部。
阿波もおおむね元親の差配に残った。ただし、戦の最中に羽柴へ降った家については、その選んだ道を覆さない。
讃岐は二つに割れた。
十河家が降り、羽柴勢が実際に足を入れた東讃は羽柴方の仕置へ入る。香川親和の兵が残る西讃は、従来どおり長宗我部方に置かれた。
伊予はさらに入り組んでいた。
湯築には河野が残り、金子、来島、得居らもそれぞれの家と領地を保つ。秀吉が小早川隆景へ約していた伊予一国も、隆景自身が平定を果たす前に白地で捕らえられたため、そのまま渡されることはなかった。
河野も金子も、長宗我部の土地になったわけではない。
諸家の争いを止める時、大きな軍役を課す時、四州をまたぐ沙汰には秀吉の下知が通る。
捕らえていた秀長と隆景も、取り決めに従って岡豊から返した。
秀吉が初めに求めた、長宗我部を土佐一国へ押し戻す国分けは避けた。
だが、前年まで一つの仕置の下へ集めていた四州は、再びいくつもの名に分かれていた。
夕立の去った小座敷には、湿った土と青葉の匂いが流れ込んでいた。
元親の前には、四州の絵図が広げられている。
その脇に、大坂へ発つ前に三人で詰めた書付と、政重が持ち帰った仕置の書付が並んでいた。
親泰は二つを読み比べていた。
「土佐一国への押し戻しはない。阿波も残った。西讃もある。伊予一国を小早川へ渡す話も消えた」
東讃のところで声が止まった。
「ここは召されたが」
「取られた、と言うてもよかろう」
元親が言った。
「随分と細ったな」
前年、この絵図のほとんどを長宗我部の名で覆った。四国統一は長宗我部家の悲願であった。
阿波を取り、讃岐を押さえ、伊予を平らげた。その間に死んだ者の名を挙げれば、日が暮れても足りない。
今、絵図の上には再び幾つもの境が引かれている。
元親の声に惜しむ響きはなかった。
だからこそ、政重にはその言葉が重かった。
「これは、お前の思惑通りか」
「……思惑通り、とまでは申せませぬ」
政重も絵図を見た。
「白地で勝てなければ、これより悪くなっておりました。されど、これで十分とも思っておりませぬ」
「ならば東讃を取り返すか。それとも伊予へ、もう一度旗を立てるか」
「いずれも、今は必要ございませぬ」
元親がようやく政重を見た。
「四国を取ると言うておった男が、変わったものよ」
「土地が要らぬようになったわけではございませぬ」
軒から落ちた雫が、庭石を一つ打った。
「土地を持つことと、国を動かすことは、同じではないと分かっただけにございます」
親泰が書付を畳んだ。
「東讃を十河が持とうと、湯築に河野が残ろうと、兵を出す時には同じ帳を使い、米を集める時には同じ枡で量る。そういう話であったな」
大坂へ発つ前、三人で何度も詰めた筋だった。
秀吉を退ければ、また兵が来る。
ならば今は、秀吉を上に置く。
その下で、四国の諸家を元親が取りまとめる。
奪われる土地を少しでも減らしながら、四州を一つに動かす力だけは手放さない。
元親はしばらく絵図を見ていた。
「……秀吉の枡で、わしが量るか」
「左様にございます」
大坂城の座敷で、政重が秀吉へ告げた言葉だった。
親泰の顔には、まだ晴れぬものが残っていた。
「だが、国分けは変わった」
東讃へ指を置く。
「伊予はまだよい。河野も金子も、これまで同じ枡と帳で動いてきた。今さら元へ戻したいとは申すまい。されど東讃は秀吉方の仕置へ入る」
親泰は大坂からの書付を見た。
「せっかく四州へ通した仕置を、境が変わるたびに切り分けておれば、また元へ戻るぞ」
「ゆえに、切り分けませぬ」
「どうする」
「長宗我部の仕置として残さなければよろしゅうございます」
元親の目が細くなった。
「大坂へ置いて参りました枡がございます」
「あの岡豊枡か」
「名は要りませぬ。大きさも、秀吉殿下の都合に合わせればよろしゅうございます」
「……岡豊の名まで捨てるか」
政重は迷わなかった。
「名を残すために作った枡ではございませぬ」
親泰は何も言わなかった。
公用枡を四州へ通すまでにも、随分と揉めた。
古い枡を手放したがらぬ者がいた。城ごとに違う帳を改めることを嫌う者もいた。誰が米を出し、誰が責めを負うかを明らかにすれば、困る者も当然いた。
それを一つずつ整えた。
今度は、それを長宗我部の名からも切り離すという。
「惜しくはないか」
親泰が言った。
政重は少し考えた。
「使われぬ方が惜しゅうございます」
元親が小さく笑った。
「お前らしい」
「必要なのは、枡を揃えることにございます。それで量った米を同じ形の帳へ記す。土地も、蔵米も、軍役も、国が違うから比べられぬということをなくす」
「枡は入口か」
国ごとに物差しが違えば、それぞれの国の内しか見えない。
揃えてしまえば、四国と中国でさえ同じ紙の上に載る。
どこに米があり、どれほど兵を動かせるか。
秀吉にとって便利であればあるほど、長宗我部が作った仕置は遠くまで運ばれる。
親泰はそこで、政重の話の先を読んだ。
「それを、秀吉へ渡す気か」
「必要になったものから、一つずつ」
「こちらが作ったものをか」
「抱えていても、いずれ真似されまする」
元親が低く言った。
「では長宗我部は、秀吉の手足になるわけか」
「それでも構いませぬ」
「随分と従順になったな」
その声音には笑いがあった。
政重もわずかに口元を緩めた。
「ただし、替えの利かぬ手足になりまする」
「そこまで言うか」
「仕置だけなら、言えませぬ」
政重は帳の山へ目を向けた。
「ゆえに、人を育てまする」
田を見て、村が持つところを量れる者。
米から、兵が何日動けるか算用できる者。
港を見て、船と蔵と道をつなげられる者。
「仕置は写せまする。されど、なぜそうするのかを知る者までは、紙から写せませぬ」
親泰は黙った。やがて、短く息を吐いた。
「人まで外へ出す気か。戻らぬ者も出るぞ」
「出ましょう」
親泰の声には、先ほどまでとは違う重さがあった。
仕置役は紙の上で生まれたのではない。
城から人を出させ、覚えさせ、間違わせ、そのたびにやり直してきた。
ようやく使えるようになった者を、今度は四国の外へ出す。
「それでもか」
「その者が向こうで同じ仕置を使うならば、残りまする」
「長宗我部へ戻らずとも」
元親が庭へ目をやった。
「土地を取ることばかり考えてきたわしらに、人まで外へ出せと言うか」
「土地より遠くまで響きまする」
元親はしばらく笑わなかった。
庭の向こうでは雨雲が切れ始めている。
岡豊の麓を国分川が流れていた。
雨を集めた水面は鈍く光り、土佐の平野を縫って南へ下る。その先には浦戸があり、さらに向こうには大海がある。
政重には、その先にあったはずの歴史が見えていた。
最後に天下を握る男。
徳川家康。
少なくとも、東洋が知る歴史では。
だが、白地ですでに流れは変わった。
本来なら捕らわれぬ秀長も隆景も、岡豊まで送られた。
この先まで、同じ道を辿るとは限らない。
「初めて会うた日に、わしへ天下を取る気があるかと問うたな」
元親も海の先を見つめていた。
「あの時は、ずいぶん先まで知っておるような顔をしておった」
政重は答えなかった。
「今度は、天下を取る者まで決めぬか」
「決めませぬ」
元親の視線が戻ってくる。
「天下人が誰であろうと、長宗我部を使った方が得だと思わせまする」
「誰であろうと、か」
元親はその言葉をゆっくり噛み、やがて四州の絵図を畳んだ。
「面倒な男よ」
今度は、はっきり笑っていた。
親泰が帳の山へ目をやった。
「して、それほどの仕置を、誰がやる」
「人を集めねばなりませぬ」
元親の前には、一冊の帳が開かれていた。
土佐、阿波、讃岐、伊予。
村々の名、米、軍役、人。
四州を動かすために書き込まれた頁の先に、一枚だけ、まだ何も記されていない紙が残っていた。
雲の切れ間から差した夕日が、その白さを浮かび上がらせる。
元親はしばらくその頁を見ていた。
「天下へ出せる者を育てよ」
政重は頭を下げた。
親泰は何も言わなかった。ただ、白い頁を見ていた。
元親が帳を閉じる。
雨上がりの岡豊に、暮六つの鐘が響く。
音は城下へ降り、国分川を越えて、なお遠くへ渡っていった。
お読みいただき、ありがとうございました。
創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いいたします。
【史実解説】
■四国征伐後の長宗我部元親
史実の長宗我部元親も、四国征伐後は豊臣政権の中へ組み込まれていきます。
天正十三年(1585)、羽柴秀長率いる大軍の侵攻を受けた元親は降伏し、阿波・讃岐・伊予を失う代わりに土佐一国を安堵されました。この際には、元親自身が以後の軍役を勤めることや、子息を人質として大坂へ置くことなどが条件とされたと伝わります。実際に三男の津野親忠が人質として送られています。
臣従直後、元親は蜂須賀正勝へ書状を送り、秀吉から赦免されたことへの取りなしを謝し、今後も「御指南」を仰ぎたいと記しています。四国の覇者であった元親が、豊臣政権の秩序へ入り直したことを示す興味深い史料です。
また『天正記』では、その後の知行割りで元親は羽柴秀長の与力とされたと記されています。近年の研究でも、四国征伐後の秀長が元親への「指南」を担ったことが指摘されています。元親は秀吉直属の側近になったというより、土佐一国を領する服属大名として、秀長のもとで豊臣政権の軍役を担う立場へ移ったと考えると分かりやすいでしょう。
そして翌年、元親は早くも秀吉の命によって嫡男信親とともに豊後へ出陣します。これが、信親を失うことになる戸次川の戦いへつながっていきます。以後も元親は小田原攻めや朝鮮出兵に参加し、豊臣政権の軍事力の一角を担いました。




