第四話 天下の一升
短い笑いが切れたあとも、座の者は誰も口を開かなかった。
秀吉はしばらく政重を眺め、それから閉じた扇を膝へ置いた。
「吉田政重」
名を呼ぶ声から、笑いが抜けていた。
「美濃守と左衛門佐を押さえた。それで長宗我部は、わしの手まで押さえたつもりか」
政重は答えず、秀吉の次の言葉を待った。
「この春、紀州へ兵を入れた」
扇を持つ手が、膝の上でゆっくり返る。
「根来も雑賀も、山を頼み、川を頼み、鉄砲を揃えて抗った。それでも長くは保たなんだ」
紀州攻めは、四国へ兵が渡るほんの数月前のことである。
大軍を集め、城を囲み、抗う者を押し潰す。
秀吉はすでに、それができることを天下へ見せていた。
「四国だけは違うとでも申すか。五万で足りねば、さらに足す。米も銭も、船もある」
そこで初めて、秀吉の目に冷たいものが浮かんだ。
「小一郎も隆景も惜しい。じゃが、二人を惜しんで、わしが退くと思うな」
声を荒らげてはいない。
それでも、左右に控える者の背がわずかに固くなる。
「宮内少輔が膝をつくまで兵を出す。それでも三国を返さぬと申すなら、そうするまでじゃ」
政重はしばらく黙っていた。
脅しではない。
できる。
秀吉には、それだけの兵と銭がある。
だからこそ、否定してはならなかった。
「兵の多寡で争えば、我らは勝てませぬ」
秀吉の眉がわずかに動く。
政重はそのまま続けた。
「孫子にも、『十をもってその一を攻むるなり』とございます。殿下がお集めになれる兵と、我らが四州で集められる兵。数のみ比べれば、初めから勝負にはなりませぬ」
「よう分かっておるではないか」
「されど、その十が、常に十として働くとは限りませぬ」
秀吉の指が止まる。
「四国へ入れば、兵は道ごとに分かれまする。山と川が、その十を一へ細らせる」
政重は膝を動かさなかった。
「ならば我らが十となって、その一を落としまする」
座敷の空気が張った。
「白地では、それを一度お見せいたしました」
秀吉はすぐには返さなかった。扇の端が、畳を一度だけ叩く。
「紀州も山国じゃ」
「承知しておりまする。されど紀州では、殿下の十を十のまま押しつけられた」
政重の声は変わらない。
「四国では、それをさせませぬ」
秀吉の口元から、わずかに残っていた笑みが消えた。
「一度うまくいったゆえ、次も同じになると思うておるか」
「いいえ」
そこだけは、政重もすぐに否定した。
「兵を惜しまず、時も惜しまれぬのであれば、殿下が勝たれましょう」
勝てるとは言わない。
勝てぬとも言わない。
ただ、勝つまでに何を払うかを問う。
「それでも四国が安いとお思いならば」
政重は秀吉を正面から見た。
「お相手いたしまする」
庭から風が入った。
簾の端が畳を擦り、すぐに戻る。
秀吉の指は、扇を握ったまま動かなかった。
羽柴が勝つ。
目の前の若者は、それを認めた。
その上で、兵を何人失うか、米をどれほど焚くか、何月を費やすかをこちらへ量らせている。
そして、その勘定には小一郎も入っていた。
天下のためなら弟を捨てる。
そう口にすることはできる。
だが、紀州を預け、四国の総大将まで任せた弟を失えば、空くのは一人分の席ではない。
東には、まだ徳川がいる。北条も従っていない。西には島津。
秀吉の親指が、扇の骨をゆっくり押した。
それから、ふっと力を抜く。
「宮内少輔も、面白い男を抱えておる」
先ほどまでとは違う声だった。扇を開いたが、もう政重へ突きつけるようには使わない。
「じゃがな」
ひと仰ぎする。
「こちらが兵を退き、宮内少輔は阿波も讃岐も伊予も抱えたまま。それでは、わしが何のために兵を出したのか分からぬ」
政重が顔を上げた。
「三国を差し出せぬと言うなら、代わりに何を出す」
脅しではなくなっていた。
何を取れば、兵を退けられるか。
値を問う声だった。
政重はすぐには答えなかった。
「一つ、伺いたき儀がございます」
「申せ」
「殿下は天下を治めようとしておられる」
秀吉の目が僅かに細くなる。
「では、この四国に何をお求めになりまするか」
「何を、と申すか」
「阿波そのものか。讃岐、伊予の土地か。それとも、その地を治める者が殿下の御下知に従うことか」
秀吉は政重を見た。今度は、返答まで少し間があった。
「……土地だけ取って、どうする」
閉じた扇が膝を打つ。
「わしが欲しいのは、宮内少輔が勝手な天下を持たぬことじゃ」
政重の目が僅かに動いた。
「わしが兵を出せと申せば出す。争うなと申せば止める。誰を立て、誰を退けるか、その沙汰をわしの外で決めぬ」
秀吉の声は静かだった。
「それができぬから、三国を返せと申しておる」
政重は頭を下げた。
「なれば、三国を取り上げずとも叶いまする」
秀吉の目が止まった。
「……何?」
東洋は、その形を知っていた。
二百数十年後の土佐には山内がいる。薩摩には島津、長州には毛利がいる。
それぞれが領地を持ち、家臣を抱え、国を治める。
それでも、その上には一つの権威があった。違うものを、違うまま束ねることはできる。
政重は廊下の向こうへ目を向けた。
「一つ、お目に掛けたいものがございます」
秀吉が黙って顎を上げる。
供の者が、傍らに置いていた包みを差し出した。
大坂へ発つ折、政重が荷へ加えさせたものだった。
近習が受け取り、中を改める。
眉間に小さな皺が寄った。
その反応を見て、秀吉の目にも怪訝な色が浮かぶ。
包みが政重の前へ置かれた。
布を解いた。一つの木枡が現れる
華やかな大坂城の座敷には、あまりに質素な品だった。
角は使い込まれてわずかに丸まり、側面には公用を示す長宗我部の七ツ片喰の印が焼かれている。
「岡豊で用いておりまする公用枡にございます」
政重は両手で持ち上げた。
秀吉との間へ置く。
ことり、と木が畳を打った。
秀吉の目が、政重ではなく枡へ落ちた。
「四州には、それぞれ一升枡がございました。同じ一升と呼びながら、量れば違う」
「枡の違いくらいは知っておる」
政重は頷いた。
「ゆえに岡豊では、御蔵枡を原として一つに定めました」
指先が、木枡の縁に触れる。
「田を取り上げたわけではございませぬ。蔵を岡豊へ集めたわけでもない。領主を替えたわけでもございませぬ」
秀吉の扇が止まった。
「ただ、何を一升とするかを、一つにいたしました」
政重は手を離す。
「今では土佐の米も、阿波の米も、讃岐も伊予も、同じ枡を原に量れまする」
秀吉はしばらく枡を見ていた。政重はその視線が上がるのを待った。
「天下も、同じにございます」
「……どう同じじゃ」
「殿下が、この枡になられればよろしい」
座の空気が僅かに揺れた。
だが秀吉は笑わない。
「わしが枡か」
政重はその問いへ、ただ頭を下げた。
「四州へ通す御下知は、殿下より出される。兵を出せと仰せならば出す。争いを止めよと仰せならば止める」
一息に言う。
「その御下知を四州へ通し、諸家を取りまとめる役を、我ら長宗我部へお任せいただきたい」
秀吉の目が細くなった。
「三国を返さぬばかりか、四国を預けよと申しておるように聞こえるが」
「四国を頂くのではございませぬ」
「宮内少輔が四州を差配するのであろう」
「その上に、殿下がおられまする」
秀吉の指が木枡へ伸びた。
縁を摘み、持ち上げる。
軽い。
裏返すと、底にも焼き印が見えた。
「なるほど」
枡を戻す。
「枡は、わし」
政重は何も言わない。
「量るのは、宮内少輔」
そこで初めて答えた。
「殿下の枡で、御屋形様が量りまする」
秀吉が鼻から短く息を出した。
「随分と大きな役を欲しがるの」
「小さければ、四州は量れませぬ」
口元が僅かに上がる。
「では、宮内少輔がそのうち勝手な一升を作ったらどうする」
政重は木枡を見た。
「その時は、取り上げればよろしゅうございます」
「誰が取り上げる」
政重は秀吉へ目を戻した。
「枡を定めた御方が」
今度こそ、秀吉は何も言わなかった。
木枡を見下ろす。
政重も口を閉じた。返す言葉まで奪わない。
それを教えた男は、もういない。
だから待った。
蝉の声が遠くで続いている。
やがて秀吉は、近習へ顎をしゃくった。
「その枡、置いてゆけ」
政重が顔を上げた。
「沙汰はしばし待て」
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【史実解説】
■秀吉の紀州攻め
天正十三年(1585)三月、羽柴秀吉は紀州へ大軍を送りました。
相手となったのは、根来衆や雑賀衆をはじめとする紀伊の諸勢力です。根来衆は根来寺を中心に強大な武力を持ち、雑賀衆も鉄砲の扱いに長けた勢力として知られていました。
しかし、この時の秀吉が動員した兵力は桁違いでした。
諸説はあるものの十万規模ともされる大軍が紀州へ押し寄せ、根来・雑賀の拠点を次々に攻略します。
最後まで激しく抵抗した拠点の一つが、現在の和歌山市にあった太田城です。
秀吉は太田城を大軍で包囲し、正面から落としきれないと見ると、城の周囲へ長大な堤を築いて水を引き入れました。備中高松城でも用いた「水攻め」です。
籠城側はおよそ一か月抵抗しましたが、四月には開城。秀吉は短期間のうちに紀州の主要な抵抗勢力を屈服させました。
その後、紀伊・和泉の支配を任されたのが、秀吉の弟・羽柴秀長です。
大軍を集め、兵糧を送り、抵抗する一国を短期間で押し切る。
秀吉にとって紀州は、「兵力の差が十分に大きければ、強固な抵抗も押し潰せる」ことを実際に証明した、直近の成功例でした。
■天下の枡
戦国時代の「一升」は、全国どこでも同じ量だったわけではないことは先にも述べました。荘園や寺社、地域ごとに異なる枡が用いられ、同じ一升と呼ばれていても、実際に入る米の量が違うことがありました。
こうした違いをなくすため、織田信長は上洛後、京都で用いられていた「京枡」を公定の枡として採用します。
そして、その政策をさらに大きな規模で進めたのが羽柴秀吉でした。
秀吉は各地で検地を行い、田畑の広さや収穫量を共通の基準で把握しようとします。その際、米を量る基準として用いられたのが京枡です。
後に「太閤検地」と呼ばれるこの政策では、土地の広さ、田畑の等級、収穫高などを一定の基準で量り、各地の領地を「石高」という共通の物差しで把握していきました。
ただし、本話の天正十三年(1585)の時点で、すでに全国すべての枡が秀吉によって統一されていたわけではありません。
地方独自の枡もその後長く残り、全国一律の公定枡として統一されるのは、約八十年後の寛文九年(1669)です。




