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岡豊宰相 ~幕末の改革者、戦国に還る~  作者: 曽我部穂岐
第一章 鞘なき名剣

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第四話 虎の残り火

 馬ノ上へ縄を入れる。


 政重がそう告げると、座敷に集まった家人たちは顔を見合わせた。


「検地をなさるので」

 玄蕃の声には、驚きより警戒があった。


「田畑の広さと、作る者を確かめる」

「馬ノ上の者は、田を取り上げる支度と見ましょう」


「取り上げぬ。この秋の年貢も増やさぬ」


 前世の東洋は、はじめは郡奉行だった。村人が役人の筆と縄をどれほど恐れるかは見ている。正しく測るだけでは足りない。何をしないかまで、先に示さねばならない。


「田を持つ者、作る者、米を納める者、槍を出す者。分けて書け。同じとは限らぬ」


 政重は正義へ命じた。

「争いのある田は未詳とする。測った内容はその場で読み上げ、同じ帳を二冊作れ。一冊は馬ノ上へ残す」


「村へ帳を渡すのでございますか」

「こちらだけが持てば、後で好きに書き直したと疑われる」


 玄蕃が腕を組んだ。

「兵は何人連れてゆかれます」


「そなたと家人二人でよい」

「危のうございます」


「兵を並べて縄を入れれば、検地ではなく攻め込みになる」


 政重は脇腹へ手を当てた。中富川で負った傷は、身体を捻るたびにまだ疼く。


「ゆえに、そなたも来い」


 玄蕃は深く息を吐いた。

「ならば、私の指図には従っていただきまする」




 馬ノ上の田には、刈り入れを待つ稲が重く頭を垂れていた。


 政重は傷を帯で固く締め、間竿を杖代わりに畦を進んだ。十五とは思えぬ大きな身体に、村人たちの視線が集まる。


 最初に田の境へ立ったのは、弥九郎の妻だった。

「ここから、あの榎までが、夫の作っていた田にございます」


 正義が二冊の帳へ同じことを書き、声に出して読んだ。

「弥九郎が安芸の者であったことも、吉田の家来と決めておらぬことも、そのまま残す」


 政重は村人たちを見回した。

「誰の家来かを決めるためではない。誰がこの田を作ってきたかを残すためじゃ」


 弥九郎の妻が頷くと、杖を突いた老人が前へ出た。

「ならば、わしの畑も測ってくだされ」


 続いて二人、三人と畦へ下りた。

 田七枚と畑四枚を測り終えた頃だった。


 乾いた音がして、張った縄が切れた。


「吉田の縄を入れさせるな!」


 藪から十数人の男が現れた。槍、弓、鉈。


 先頭の男は五十をとうに越えていた。色褪せた腹巻の継ぎ目には、幾度も縫い直した跡がある。低く束ねた白髪が肩へ落ち、左の眉から頬へ古い傷が走っていた。


 痩せてはいたが、黒い槍を握る前腕だけは太く、右の小指が一節欠けている。低く束ねた白髪の下で、深く窪んだ目が政重を見据えていた。


 その姿を認め、玄蕃が政重の前へ出た。


畑山はたやま兵部ひょうぶか」

「久しいの、安岡玄蕃」


 兵部は、かつて安芸国虎くにとらに仕えた武士だった。馬ノ上城を吉田家に奪われて十九年、安芸家が滅んで十三年。今も旧安芸方の者たちから一目置かれている。


「城を取った次は、田か」

「田を取るためではない」

「縄を入れ、帳へ載せる。それを取るというのじゃ」


 後ろの男が標木を蹴り倒し、別の男が帳役の肩を槍の柄で殴った。


 玄蕃の手が刀へ伸びる。


「抜くな」

「しかし、若殿」


「抜けば、こちらが先に戦を始めたことになる」


 政重は兵部の後ろを見た。槍先を真っ直ぐ向けているのは三人。残る者は田と仲間の顔を見比べている。

 まとめて敵と呼べば、本当に一つになる。


「正義。帳を見せよ」


 兵部は差し出された帳を奪い取った。


「焼けば済む」

「焼くならば、読んでから焼け。何が書かれていたかも知らぬでは、後に安芸の者へ説明できまい」


 兵部は鼻を鳴らし、槍を脇へ立て、欠けた小指で頁の端を押さえた。


「……未詳、と」

「分からぬものは、分からぬと書いた。安芸の者であったことも消しておらぬ」


 兵部の目が、帳の一行に止まった。


「安芸の名を、消さぬと申すか」

「消す理由がない」


「ならば、なぜ測る」

「測られぬ田は、強い者が己のものと言えば、それまでになる」


「吉田が守ると申すか」

「違う。わしが死んでも残るものに守らせる」


 弥九郎の妻が声を上げた。

「うちの田には、夫と倅の名が書かれました。吉田の家来とは書かれておりませぬ」


 兵部は女の背後に広がる田を見た。

 安芸の名を捨てずとも、田は残せる。それを認めれば、十九年抱えてきた吉田への憎しみが、行き場を失う。


 一人の男が槍を下ろした。続いて、もう一人が武器を畦へ置く。


 兵部は振り返った。

 だが、誰もその目を見返さなかった。

 ここで退けば、国虎への忠義まで捨てるように思え、槍を握る手が強くなった。

 

 それでも声は低いままだった。

「口の達者な童め!」


 槍が突き出された。


 避けねばならぬ。

 そう考えた時には、政重の身体はすでに半歩沈んでいた。穂先が肩をかすめる。右手が柄を掴み、そのまま引いた。


 兵部の足が畦を離れた。

 次の瞬間、その身体は泥へ叩き落とされていた。


 前世では、刃を向けられても、言葉のほかに身を守る術など持たなかった。だが今の身体は、考えるより早く槍を制した。

 己の手で掴み、己の腰で投げた。それなのに、何をしたのかは、見知らぬ武者の働きを眺めたように遠かった。


 だが、その先をどう続けるか、政重には分からない。

 左脇腹に熱い痛みが走り、足から力が抜けた。


 後ろの若者が槍を構える。

 玄蕃の刀が、その穂先を打ち落とした。


「斬るな!」


 政重の声が田へ響いた。


 兵部は泥の中で身を起こした。

 その膝の下で、刈り入れを待っていた稲が折れている。


 吉田から田を守るために来たはずだった。だが最初に田を踏み荒らしたのは、自分だった。


 政重は脇腹を押さえながら、兵部を見下ろした。

「見よ。田を守りに来た者は、もう槍を下ろしておる」


 兵部は折れた稲を見つめたまま、泥を握りしめた。


「……縄は止めぬ。国虎様とて、この田を踏みにじれとは申されまい」


 ゆっくりと顔を上げる。

「されど、わしは吉田の臣ではない」


「それでよい。今日測るのは田であって、そなたの心ではない」




 兵部と政重へ槍を向けた若者は、その場で縛られた。


「御当主へ槍を向けたのでございます。首を刎ねても、異を唱える者はおりますまい」


 玄蕃の言葉に、年嵩の家人たちは深く頷いた。若い者の一人は、縄を打たれた兵部を見て目を伏せた。旧主への忠義ゆえと分かっていても、当主襲撃を見逃すことはできない。


 正義だけは兵部ではなく、兄を見ていた。ここで甘く裁けば家中が揺らぐ。厳しく斬れば、馬ノ上が再び敵になる。


「分かっておる」


 政重は兵部を見た。

「されど、今ここで斬れば、馬ノ上はそなたを安芸の忠臣として語り継ぐ。死人は縄を持たぬが、恨みだけは残す」


 家人の間に、わずかなざわめきが走った。

「では、お赦しになるので」


「赦さぬ」

 政重が言い切ると、玄蕃の目から疑いが消えた。


「武具を取り上げ、当分、馬ノ上を差配することを禁ずる。妻子の作る田には触れぬ。身柄は吉田で預かる」


 政重は隣に縛られた若者へ目を移した。

「この者も武具を取り上げ、ひと月閉じ込めよ。帳役を殴った者には、療治の米を出させる」


「わしの命は」

「預かる。検地の間は、そなたが切った縄を持て。その後の処置は、働きを見て決める」


 兵部は黙って政重を見返した。

「逃げるか、再び刃を取れば、次は首を取る」


 長い沈黙の後、兵部は顔を上げたまま答えた。


「……承知した」




 翌朝、検地は再開された。


 兵部は吉田へ頭を下げなかった。ただ、昨日まで槍を立てていた男が、今日は黙って縄を引いていた。


 屋敷へ戻ると、玄蕃が政重の前へ小さな鉄の鍵を置いた。


「蔵の鍵にございます」

「そなたが持っておれ」


 玄蕃は首を横に振り、両手をついた。


「殿。吉田の家を、お頼み申します」


 政重は鍵を取った。


 父の槍より小さく、重かった。



【史実解説】


■東の雄 安芸国虎

安芸国虎は、戦国時代に土佐国東部を治めた安芸氏最後の当主です。安芸氏は安芸城を本拠とし、戦国期には「安芸五千貫」を領する土佐七雄の一つに数えられました。安芸郡だけでなく香美郡東部にも勢力を伸ばし、当時の土佐東部では最大級の勢力を誇っていました。


土佐中央部から勢力を広げる長宗我部元親とは、領地を接する有力者としてたびたび争いました。永禄十二年(1569)、元親は安芸領へ侵攻し、芸西げいせい村の金岡城を攻略します。国虎は八流やながれで迎え撃ちましたが敗れ、安芸城へ籠城しました。

籠城は二十四日間に及んだとされ、国虎は妻子を逃がし、城兵の助命を条件に城を明け渡した後、菩提寺の浄貞寺で自刃しました。


本作の舞台である天正十年(1582)は、安芸氏滅亡からわずか十三年後にあたります。長宗我部氏が土佐を統一していても、旧安芸領には国虎へ仕えた者や、その家族が多く残っていたと考えられます。


■虎の遺臣 畑山兵部

畑山兵部は、本作の架空人物です。

畑山氏は土佐国安芸郡に根を持ち、安芸氏と深い関係を結んだ在地勢力です。系図では安芸氏から分かれた一族とも伝えられ、安芸氏と名主層との間を取り持つ立場にあったことが、中世文書の研究から指摘されています。


安芸家が滅んだ際には、畑山元氏が国虎の遺児を託され、阿波へ落ち延びたとも伝えられており、安芸氏の一族・重臣として語られることの多い家でした。

本作では、この畑山氏の名を借り、安芸氏滅亡後も馬ノ上に残った旧臣として兵部を創作しました。「兵部」は実際の官職を示すものではなく、戦国武将が用いた官途名風の通称です。


史実では、長宗我部氏による安芸地方の検地は天正十七年(1589)に実施されました。本作ではそれより七年前、前世で郡奉行を務めた東洋が、吉田家の領内だけで先駆けて行ったものとして描いています。

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