第一話 割れた茶碗
大坂城。
夏の日差しが、白壁を強く照らしていた。
城下から上がる人声も、この奥座敷までは遠い。開け放たれた障子の向こうでは、庭の木々がほとんど動かず、蝉の声だけが途切れず続いている。
茶筅が、茶碗の底を細かく走った。
秀吉は手を止め、泡の立ち具合を眺めた。
釜の湯が低く鳴り、点てたばかりの茶の香が座敷に薄く漂っている。
頭にあるのは、四国の国割だった。
伊予は小早川隆景へ与える。これはすでに約した。
残る阿波と讃岐をどう割るか。元親には土佐をどこまで残すか。嫡男の信親をどう扱うか。
四国を平らげた後、九州へ兵を向けることまで考えれば、海を使える者をどこへ置くかも軽くは決められない。
秀吉は茶碗を取り上げた。
廊下を走る足音がした。
すぐに近習の声が重なる。
「殿下、四国より急使にございます」
「後にせい」
「急報にございます!」
秀吉は茶碗を回した。
「急報なら美濃守へ送れ。左衛門佐もおる。後じゃ」
茶碗を口元へ運ぶ。
障子の向こうが一瞬、静まった。
それでも、声は引かなかった。
「畏れながら、申し上げます!」
息が切れている。
「白地にて、美濃守様の御本陣が崩れました!」
秀吉の手が止まった。
「何じゃと……」
「御馬印を見失い、美濃守様の御行方、分かりませぬ!」
茶碗が落ちた。
畳へ当たり、二つに割れた。
茶が跳ね、手と膝を濡らした。
秀吉は熱さにも気づかぬまま立った。
「入れろ!」
膝前の柄杓が畳に散った染みの中に転がる。
障子が開く。
泥と汗にまみれた使者が、転がるように座敷へ入り込んだ。
秀吉は座らせる暇も与えなかった。
「小一郎は!」
「分かりませぬ。御本陣が崩れた後、御馬印も見えなくなり、討死なされたと申す者もあれば、山際へ落ち延びられたと申す者もおりまする」
「小一郎を見た者は!」
「確かな者がおりませぬ。御馬を失われたとも、長宗我部勢に囲まれたとも」
「首は!」
「上がっておりませぬ。御骸も見つかっておりませぬ」
「では、なぜ討死と申す!」
怒声が座敷を震わせた。
使者が額を畳へつける。
「御馬印が倒れた後、陣中にその声が広がりまして。されど、山へ入られたと申す者も、敵中へ馬を駆けられたと申す者もおり、誰に聞いても話が違いまする」
「探したのか!」
「夜まで人を出しております。今も探索は続いておりまする」
「ならば探せ! 山も谷も、草の根を分けてでも探せ!」
使者がさらに頭を下げた。
秀吉はその前を二歩、三歩と歩いた。
「小一郎……」
声が掠れた。
さきほどまで考えていたのは、四国を誰に与えるかだった。
その四国で、弟が消えた。
秀吉が額を押さえた。
「討たれたなら首があろう。落ち延びたなら供がおろう。なぜ誰も分からぬ」
答える者はいない。
しばらく荒い息だけが続いた。
やがて、秀吉が顔を上げた。
「毛利は――左衛門佐は、何をしておった」
使者が言葉を詰まらせた。
その僅かな間を、秀吉は見逃さなかった。
「何じゃ」
「西口からの報せも、まだ定まりませぬ」
「申せ」
「小早川左衛門佐様も、御行方が分からぬとのことにございます」
秀吉の顔が固まった。
「……何?」
「毛利の御勢は残っておりまする。されど、左衛門佐様の御本隊が川之江方へ陣を下げられる途中、久武、金子、河野の兵が相次いで現れたと」
秀吉は黙っている。
使者は続けた。
「御馬が倒れたとの者がおります。徒歩で山際へ向かわれたとの者も。河野勢と槍を交えられた後、姿が見えなくなったとも」
「首は」
「届いておりませぬ」
「骸もか」
使者は頭を下げたまま、頷いた。
秀吉は動かなかった。
弟一人なら、戦場の混乱で説明できた。
馬が倒れることもある。
供とはぐれることもある。
誤って討死の噂が流れることもある。
だが、東と西で同じ日に二人。
しかも、二人とも軍そのものが潰れたわけではない。
「……待て」
秀吉が呟いた。
今度は誰に向けた言葉でもなかった。
荒れていた息が、少しずつ戻っていく。
「美濃守の軍は」
「御本陣は崩れましたが、御勢の多くは残っておりまする。秀次様が兵をまとめ、白地東方より退き、列を整えつつあるとのこと」
「左衛門佐もか」
「毛利方も大半は残っております。吉川元長殿が諸勢をまとめ、川之江方面で陣を立て直しております。ただ御本人のみ、所在が」
秀吉の目つきが変わった。
「絵図を持て」
近習が走る。
ほどなく四国の絵図が広げられた。
割れた茶碗も、濡れた畳もそのままだった。
秀吉は絵図の前へ膝をつく。
「大坂峠から申せ」
使者が顔を上げた。
「美濃守様は大坂峠にて進軍を阻まれ、数日を費やされました。その後、長宗我部勢は引田へ退き」
秀吉の指が動く。
大坂峠から、引田へ。
「引田でも戦ったな」
「仙石秀久様が先鋒となり、長宗我部信親勢と交戦。敵は兵をまとめて退きました」
「その後は」
「吉野川沿いを西へ。昼間、池田と退いております」
指が川を遡る。
「阿波では、羽柴方へ移った城も多くございます」
「兵は残ったか」
「大きく崩れたとの報せはございませぬ」
秀吉の指が止まった。
「西を申せ」
「左衛門佐様は伊予へ入り、東予の高尾城を落とされました。されど久武勢は城を出て南へ退き、金子勢も兵を残しておりまする。河野勢は姿を見せぬまま」
「西讃は」
「香宗我部親泰、香川親和が兵を保ったまま、伊予境の川之江へ退いておりました」
秀吉は返事をしなかった。
大坂峠。
引田。
吉野川。
池田。
反対から、高尾。
川之江。
勝ったという報せは、大坂へいくつも届いていた。
峠を越えた。
城を取った。
敵を退かせた。
そのたび、四国の国割を一つ先へ考えた。
だが、絵図の上に残ったものは別だった。
取った城の後ろから、兵が消えている。
死んだのではない。
降ったのでもない。
徹底して退いている。
「……これは」
秀吉の指が、大坂峠から引田を経て、吉野川を西へ進む。
もう一方の手が、高尾から東へ動いた。
二本の指が白地で止まった。
座敷から音が消えた。
「退かされたばかりではないな」
誰も答えない。
秀吉はもう一度、東から西へ指を滑らせた。
「大坂峠で日を使わせた。引田でも兵を残した。城は渡しても、人は渡さなんだ」
今度は西を見る。
「高尾も同じじゃ。久武は城と一緒に死なず、兵を抜いた。親泰も西讃から伊予まで下がった」
指先が白地へ戻る。
「元親め……」
怒鳴り声ではなかった。
秀吉は白地を押さえたまま、しばらく動かなかった。
「ここへ集めてきおったのか」
近習が息を呑む。
秀吉は首を振った。
「違うな」
目が細くなる。
「白地で戦するためだけではない」
東西から白地へ集まった二本の線を見る。
その中心で、秀長と隆景が消えた。
「四国の戦を、白地の一戦にしてしまいおったか」
使者が顔を上げた。
秀吉はもう見ていなかった。
頭の中では、別のものが繋がり始めている。
二軍とも壊滅していない。
美濃守の首はない。
左衛門佐の首もない。
それなのに、二人だけが見つからない。
秀吉の指は、白地の上で止まったままだった。
◆
それから三日後。大坂城。
秀吉は再び、四国の絵図を前にしていた。
この三日の間に、秀吉は四国へ矢継ぎ早に命を飛ばしていた。
秀次には羽柴勢を池田東方まで下げて陣を固めさせ、吉川元長には毛利勢を川之江まで退かせた。
そこから先へは退くな。
されど、白地へも踏み込むな。
両軍とも、まだ数では長宗我部を圧している。
ここで崩してしまう理由はない。
秀長も、隆景も、消息はまだ掴めていない。所在が定まるまで、勝手な奪還戦は許さなかった。
白地の上には、何の印も置かれていなかった。
廊下から早足が近づき、障子の前で止まる。
「殿下」
秀吉が顔を上げた。
「長宗我部宮内少輔より、使者が参っております」
秀吉の目が、ゆっくりと絵図へ戻った。
白地を見たまま、口を開く。
「……通せ」
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【史実解説】
■秀吉が考えていた「四国の国割」
史実では天正十三年(1585)七月中には元親の降伏が間近となり、八月に四国征伐が完了、八月六日には四国の分封が実施されています。
大まかには、
土佐 長宗我部元親
阿波 蜂須賀家政
讃岐 仙石秀久
伊予 小早川隆景
という配置になりました。
長宗我部元親は四国の大部分を一時その勢力下に置きながら、秀吉への降伏後は土佐一国の領有を許されました。
讃岐は仙石秀久に与えられましたが、そのうち二万石は十河存保の支配となったと伝えられています。
阿波については、秀吉は当初、古くからの家臣である蜂須賀正勝に与える考えだったとされます。しかし正勝が辞退し、嫡男の蜂須賀家政が阿波を拝領しました。




