第五話 白地の蓋・東
「白地の蓋を、閉じよ」
命が走った。
正面では、六門の斉射を受けた羽柴勢が崩れた列を立て直そうとしている。その向こうに秀長の馬印。さらに南の山裾には、吉田の三つ引両が食い込んでいた。
元親は采を上げた。
白地城前で、槍が一斉に起きた。
鉄砲足軽が立つ。馬廻りが手綱を詰める。兵の間を走っていた使番まで足を止め、一斉に前を向いた。
それまで城前を動かなかった片喰の旗が、風を孕んだ。
一つ。
また一つ。
やがて幾重にも並んだ旗が揺れ始める。
その先頭へ、元親が馬を出した。
信親も続く。
具足の擦れる音が広がった。
数千の足が、同時に東を向く。地面を踏む音が重なり、まだ砲煙の残る白地の野を低く震わせた。
元親の馬が歩を速めた。
「片喰の根に葉を生やせ!」
采が振り下ろされる。
太鼓が鳴った。
「秀長を穿つ!」
鬨の声が地を震わせた。
白地に留められていた長宗我部の主力七千が、一斉に前へ出る。
元親自身が中央を進み、左翼は信親の片喰が川寄りへ広がる。右でも山裾に沿って猛将・福留儀重の兵が伸びた。後ろから次々と槍列が送り込まれ、城前に固まっていた兵の厚みが、そのまま東へ押し出されていく。
平地で描いたような整った鶴翼ではない。川と山に形を歪められながら、二枚の翼が羽柴の陣を抱くように開いていく。
「御屋形様、前へ出過ぎます!」
近習の声にも元親は馬を止めなかった。
前方には、忠澄勢が崩した柵がある。
倒れた槍。
踏み荒らされた土。
泥に半ば埋まった三つ巴の旗が一本、残されていた。
元親の馬がその脇を過ぎる。視線だけが一瞬、三つ巴へ落ちた。だが手綱は緩まない。その後ろを片喰が次々と越えていった。
「押せ!」
片喰が羽柴勢へぶつかった。
槍先が噛み合い、人の列が大きく撓む。羽柴方もすぐに大楯を起こし直し、鉄砲勢をその後ろへ戻した。
秀長も馬上にいた。
正面から元親。
川側から信親。
右手からも儀重が広がり始めている。
だが、秀長の目はそのどれにも長く留まらなかった。
南東。
三つ引両。
ほかより薄い。
山から突然現れた二千余の兵である。そこを破れば、後ろへ伸びた羽柴勢との道を繋ぎ直せる。
「南東をこじ開けよ」
羽柴の旗がいくつも向きを変えた。
元親も気づいた。
南の三つ引両へ、兵が集まり始めている。
「政重を抜く気か」
信親がそちらを見る。元親は采を前へ向けた。
「構うな。われらは秀長を押す」
羽柴勢へさらに兵をぶつける。
南へ兵は割かなかった。三つ引両が持ちこたえている間に、中央をさらに前へ押す。元親の馬廻りまで槍列のすぐ後ろへ入り、片喰の中央だけが一歩、また一歩と羽柴本陣へ近づいた。
総大将の采は止まらなかった。
◆
「来るぞ!」
玄蕃の声と同時に鉄砲が鳴った。政重の前へ羽柴勢が押し寄せる。
「鉄砲を下げろ! 槍を入れよ!」
白煙を割って槍がぶつかった。
三つ引両が揺れる。
二千八百は、山中を隠れて進むには大軍だった。だが、羽柴の兵を正面から受け続けるには明らかに少ない。
一歩押される。
さらに一歩。
「ここを離すな!」
政重が馬を寄せた。
その向こうで、一旒の旗が上がる。
無一文字。
政重の身体がわずかに固くなった。
引田の土が脳裏を掠める。
あの日、自分はあの旗を追った。
「若」
玄蕃も旗を見ていた。
仙石秀久が兵の間から馬を出す。
政重を見つけると、槍を立てた。
「勝五郎、またお前か!」
政重も応じて槍を取った。
二騎が駆ける。
秀久の穂先が伸び、政重が柄で弾く。すれ違いざまに刃が袖を裂いた。
二騎が馬首を返す。
今度は政重から出た。
秀久の槍が胸元へ来る。身を沈め、その内へ入った。
政重の穂先が肩口を薙ぐ。
「ぐっ!」
血飛沫が頬に散り、秀久の身体が傾いた。
「権兵衛様!」
仙石勢が駆け寄る。
無一文字が下がった。
政重の馬が一歩、その背を追った。
手綱が鳴った。
「追うな!」
吉田勢が止まる。
「道を守れ!」
無一文字は人波の中へ消えた。
しかし、すぐに別の羽柴勢が来た。秀久を退かせても、戦は終わらない。
むしろ前より厚い。
槍の壁が吉田勢へ食い込み、三つ引両が押し戻される。玄蕃の兜を槍が叩き、兵が一人、政重の馬前で倒れた。
「下がるな!」
叫んでも敵の勢いは止まらなかった。
道の半ばまで羽柴方が戻る。
さらに向こうでは、秀長の本陣まで南東へ動き始めていた。
ここを離せば終わる。政重は槍を握り直した。馬の首筋まで汗で濡れている。後ろを見ても、山へ戻る道しかない。ここで三つ引両が退けば、元親の正面へ羽柴の兵が戻っていく。
その時だった。
羽柴勢の押しが、ふいに鈍った。
前へ進んでいた兵が振り返る。
後ろの旗が乱れていた。
こちらではなく、東へ向きを変えている。
遠くで鬨の声が上がった。
見慣れた旗が、阿波へ続く道から現れる。
政重が目を見開いた。
十河存保。
存保は羽柴本陣とその後ろから続く兵の間へと、真っ直ぐ進んだ。
槍が上がる。
「十河の旗は降ろさんぞ!」
十河勢が突っ込む。羽柴の後列が止まる。
政重を押していた兵の一部が戻ろうとし、前へ出る兵と道の上でぶつかった。
列が詰まる。政重が槍を上げた。
「今だ! 押し返せ!」
三つ引両が前へ出た。
吉田勢が反転する。
前から政重。
後ろから存保。
羽柴の列が大きく曲がった。
そして、切れた。
◆
「十河殿、東より入りました! 本陣と後続が切れております!」
報せを聞いた元親の目が鋭くなった。
南東で羽柴の旗が途切れている。
秀長本陣と後続との間に、道が見えた。
「信親! 閉じるぞ!」
采が振り下ろされた。
川寄りへ伸びていた片喰が内へ曲がる。山裾へ広がった儀重勢も向きを変えた。
翼は大きく閉じなかった。
左右から狭まっていく先には、秀長の馬印だけがあった。
元親が中央から穿つ。忠澄勢が血を流して開いた場所を越え、元親本隊の槍が羽柴の二列目へ届いた。元親の旗が進むたび、後ろから新しい片喰が押し込み、秀長の馬印との距離が縮まっていく。
崩れた羽柴兵が左右へ流れた。
片喰はその背を追わない。その間を抜け、槍先が次々と向きを変える。
「雑兵を追うな、秀長の旗だけを見よ!」
片喰が狭まった。
秀長も止まらない。後続との道が切れたと見るや、馬廻を集めた。
「東を開けよ!」
本陣そのものが動いた。
向かった先は、やはり政重だった。
羽柴馬廻が三つ引両へぶつかる。吉田勢が押された。
一度、列が割れる。
「通すな!」
政重が馬を入れた。秀長の馬印が近づく。
道まで、もう遠くない。
その横腹へ信親が突っ込んだ。
羽柴の旗が傾く。さらに元親本隊が正面から迫る。
兵が一人、二人と馬印の周りから押し出される。戻ろうとした兵の前へ、片喰の槍が入った。
秀長の周囲だけが薄くなる。
馬印が一度、大きく揺れた。
「美濃守様!」
羽柴方から声が上がった。
人馬が重なる。
鉄砲の白煙が流れた。
秀長の姿が見えなくなる。
さらに片喰が重なる。馬が一頭倒れた。
何人かが山際へ雪崩れ込む。
馬印が低くなる。今度は上がらなかった。
「美濃守様は!」
羽柴勢から怒号が飛ぶ。人が走る。馬廻が押し戻ろうとする。
だが、そこへいたはずの秀長の姿がない。
元親は山際を一度だけ見て、采を返した。
「退け」
近習が顔を上げる。鉦が鳴った。
片喰が動きを変えた。
先ほどまで前へ開いていた二枚の翼が、ゆっくりと白地城へ畳まれていく。
政重の三つ引両も街道から離れ、白地へ向きを変える。
追う羽柴兵はいなかった。
秀長を探す声だけが、暮れ始めた野に残っていた。
元親は最後に馬を返した。
白地城の前には、戻ってきた片喰の旗が次々と立っていく。
日は西へ傾いていた。
東では大坂峠から引田、吉野川沿いを退き、西では高尾から馬路まで兵を引いた。
東でも西でも、片喰は踏まれ、刈られ、姿を消した。
それでも根は、地の下を這っていた。
今、その根から伸びた片喰が、白地城の前を埋めていた。
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【史実解説】
■大軍の総大将を討った沖田畷
本話のように、兵数で勝る大軍を地形によって動きにくくし、その中心にいる総大将を狙った戦いには、四国征伐のわずか前年に非常に有名な例があります。
天正十二年(1584)の沖田畷の戦いです。
九州北部に勢力を広げていた龍造寺隆信は、有馬晴信を攻めるため島原半島へ進軍しました。
これを迎え撃ったのが、有馬氏と島津氏です。
数万の龍造寺軍に対して有馬・島津連合軍は約八千。連合軍は敗走を装って龍造寺勢を細い田の畦道へ導き、両側から攻撃したとされています。
当時の沖田畷周辺は深い湿地帯で、その中を細い一本道が通っていました。
龍造寺軍は約二万五千、有馬・島津方は約八千。
大兵力を持つ龍造寺方でしたが、細い道と湿地によって兵力を一度に展開できず、激戦の末に総大将の龍造寺隆信自身が討ち取られました。
総大将の戦死によって戦局は決定し、龍造寺氏の勢力にも大きな転機が訪れます。
ここで重要なのは、島津・有馬方が二万五千の敵兵を倒したから勝ったのではない、という点です。
大軍が十分に動けない場所へ押し込み、その中心にいる総大将を失わせた。
戦国時代には、大将の生死が一つの軍勢だけでなく、その後の領国情勢まで変えてしまうことがありました。
そして沖田畷は、白地決戦のわずか一年ほど前の出来事です。
四国の諸将がこの合戦の詳細をどこまで知っていたかは別として、大軍でも地形次第で崩れ、総大将自身が討たれるという出来事は、まさに同時代に現実として起きていました。




