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岡豊宰相 ~幕末の改革者、戦国に還る~  作者: 曽我部穂岐
第七章 地這う片喰

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第三話 片喰の根

 夜明け前。

 白地城の東では、吉野川から上がった霧が低く地を這っていた。


 兵はすでに起きていた。


 鉄砲足軽が火縄を確かめ、槍衆は穂先を東へ揃えている。これまでの朝のように荷をまとめる者はいない。傷兵を先へ送り、退路を空ける動きもなかった。


 皆、羽柴の陣を向いていた。


 元親の前に、信親と谷(たに)忠澄(ただずみ)が控えている。


「先手は、私にお任せくだされ」


 元親は忠澄を見た。


「お前が出るのか。槍働きなら、ほかにもおる」

「存じております」


 忠澄は頭を下げた。


「この策を口にしたのは、私にて。最後の一手は自ら打ちとうございます」


 元親はしばらく答えなかった。


 やがて東へ目を向ける。


「秀長が新手を出せば退け」

「は」


「鉦(かね)は二度だ。二度目までには戻れ」

「承知いたしました」


 忠澄は一礼して立った。


 陣へ戻ると、手元に残していた槍衆を前へ出した。鉄砲勢はその後ろにつく。


「退き鉦が鳴れば、傷を負った者のみ戻せ」


 命じたのは、それだけだった。


 朝霧が薄れ始める。

 羽柴方の陣に旗が浮かんだ。


 昨日までなら、向こうが進んでくるのを待つところだった。


 先に鳴ったのは白地の太鼓だった。

 腹に響く音が三つ。


 旗が東へ動いた。


「敵方、出ました! 谷の三つ巴!」


 羽柴方から声が上がった。


 鉄砲が鳴る。

 忠澄勢の前列で兵が倒れた。

 その横を次の列が進む。


 長宗我部方からも白煙が上がった。柵の向こうで羽柴兵が身を伏せる。その間に槍衆が距離を詰めた。


「押せ!」


 槍が柵へ掛かる。


 杭が軋んだ。

 一つ倒れたところへ兵が殺到する。


 羽柴方の槍が突き出された。

 長宗我部兵が一人、柵に掛かったまま崩れた。その背を越え、別の兵が槍を入れる。


 柵がもう一本倒れた。

 羽柴の先手が下がる。


 これまでなら、ここで止まった。

 敵を乱し、追わせ、また退く。


 だが三つ巴は止まらなかった。


 倒れた柵を越える。


「退かぬぞ!」

 羽柴兵の声が走った。


 忠澄勢が二列目へ食い込む。

 その後ろから片喰の旗が進んできた。


 信親勢だった。

 羽柴の鉄砲足軽が下がりきれず、槍衆とぶつかる。乱れたところへ長宗我部勢が押し込んだ。


 人が倒れる。

 旗が傾く。


 それでも今日は、長宗我部の太鼓が前へ鳴っていた。


 秀長は、その動きを後ろから見ていた。


「予備兵は動かすな」


 使番が駆ける。

 前からは、先手が押されているとの報せが続いていた。


 大坂峠。

 引田。

 池田。


 長宗我部は何度も、押せるところまで押してから退いた。


 白地に何もないとは思っていない。


「前で受けろ。退けば追うな」


 だが、今日は敵が退かなかった。


 柵がもう一つ崩れる。

 谷勢が入り、その後ろを信親勢が押す。

 羽柴の前列が街道沿いに押し戻された。


「美濃守様、前が持ちませぬ!」


 秀長の目が動いた。


「ならば一隊だけ足せ」


 後方に控えていた旗が一つ、前へ出た。


 新手が横から入り、忠澄勢の前進が初めて止まる。


 槍列同士が噛み合った。

 至近で鉄砲が鳴る。

 長宗我部勢の前列が削られ、少しずつ押し戻された。


 そこへ白地から鉦が響いた。


 一度。


 信親が手を上げる。

 前へ出ていた鉄砲勢が離れ始めた。


 槍衆が入れ替わり、負傷兵がその間を西へ抜ける。


 二度目。

 片喰の旗が、順に白地へ戻っていった。


 秀長は追わせなかった。


 長宗我部はまた退く。


 そう見えた。


 だが、三つ巴が動かない。


 谷勢からも傷兵が抜けた。

 弾を使った鉄砲足軽が下がる。


 後ろの二列も離れた。

 残った槍衆だけが、崩した柵の内側で列を組み直した。


 三つ巴は、その中央に立ったままだった。


 忠澄が手を上げる。


「押せ! 我が策、必ず成さねばならぬ!」


 槍が前へ倒れた。

 羽柴方にどよめきが起こった。


 退く長宗我部勢から切り離された一隊が、再び押してくる。


「谷忠澄、本陣へ向かっております!」


 使番が秀長の前へ駆け込んだ。


 秀長は三つ巴を見た。

 長宗我部の重臣が、退き鉦の後も残っている。


 谷勢はもう大きくない。

 だが、奪った柵を足場に羽柴の前陣へ食い込み、その場を離れようとしなかった。


 放置すれば、下がった長宗我部勢が再び乗ってくる。


「追うな。囲んで潰せ」


 さらに兵が前へ出た。


 正面から。

 左右から。


 羽柴勢が谷勢を包み始める。


 忠澄は下がらなかった。


 鉄砲が鳴り、槍列に穴が開く。

 すぐ後ろの兵が埋める。


 三つ巴の旗持ちが倒れた。

 別の兵が柄を拾い、泥の中へ立て直した。


 忠澄の目の前で、手元の兵が一人ずつ減っていく。

 それでも見ていたのは、さらにその向こうだった。


 秀長の後ろ。


 まだ動いていなかった旗が、また一つ前へ出る。

 続いて、もう一つ。


 忠澄はそれを見届けた。


 口元が、わずかに緩む。


「元親様……片喰の根は、残しましたぞ」


 鉄砲が鳴った。

 三つ巴が揺れた。


 白煙が流れた時、その旗はもう見えなかった。



◆


 白地の南東。

 遠い鉄砲の音を聞きながら、政重は山の下を見ていた。


 昨日まで荷駄が西へ流れていた道を、今日は兵が走っている。


 一隊。

 また一隊。

 羽柴本隊へ急いでいた。


「随分と出ましたな」

 安岡玄蕃が木立の隙間を覗く。


 二度目の退き鉦が、山まで届いた。


 政重は白地方向へ顔を上げた。

 本来なら、ここから戦の音は遠ざかる。


 だが銃声は止まらなかった。


 一発。二発。

 続いて、まとまった鬨の声。


「……何をしている」


 尾根から物見が駆け下りてきた。


「信親様の御勢、手筈通り退いております!」


「忠澄殿は」

「三つ巴、なお敵中に!」


 政重の顔色が変わった。


「なに!?」


 街道へ目を戻す。


 羽柴の旗が一つ、西へ走っていく。

 谷勢を包むためだ。


 政重の手が刀の柄へ掛かった。


「玄蕃、兵を」


 そこで言葉が止まった。


 引田が脳裏を掠めた。

 決めた刻限を越えたのは、自分だった。


「若」

「……分かっている」


 退き鉦は二度鳴った。

 忠澄が聞き違えるはずはない。


 また一つ、羽柴の旗が前へ動く。


 政重は唇を噛んだ。


「まだだ」


 玄蕃は何も言わなかった。


 銃声が続く。


 さらに一隊。

 秀長の後ろに残っていた兵が、谷を包むため西へ向かった。


 政重の拳が震えた。


 助けに出れば、間に合うかもしれない。

 だが、今出れば忠澄が命を懸けて動かした兵が、こちらへ戻る。


「……忠澄殿」


 遠くで、ひときわ大きな銃声が重なった。


 政重は目を閉じなかった。


 最後まで残っていた羽柴の旗が動く。

 そこで初めて、立ち上がった。


「旗を出せ」


 折り畳まれていた布が開く。


 丸に三つ引両。

 山肌に一本。

 その後ろにも立つ。


「下りるぞ!」


 二千八百の兵が木々の間から姿を現した。


 すぐに羽柴方の物見が気づいた。


「敵だ!」


 銃声。

 斜面を下っていた兵が転がる。


 羽柴方にも、まだ守りは残っていた。


「撃ち返せ!」


 白煙が山裾に広がった。


 荷駄馬が暴れ、人足が道端へ逃げる。

 何人かの兵がそちらへ向きかけた。


「追うな!」


 政重の声が飛ぶ。


「道を取れ!」


 三つ引両が街道へ向かった。


 羽柴の槍衆が列を作る。


 衝突。一度、長宗我部兵が押し返される。


 後ろから新手が入る。再び押す。

 槍の間から人足が逃げ、空になった荷駄馬が山際へ走った。


 政重勢が少しずつ街道へ食い込んでいく。

 白地へ伸びていた羽柴の軍列が、そこで止まった。



 同じ頃。

 西でも、消えた旗が戻り始めていた。


 高尾を捨てて南へ下った久武親直と金子元宅。

 その兵が山中から動く。


 さらに伊予側でも、河野の旗が場所を変えていた。


 城を失い、退いたはずの兵が、白地へ通じる道の周りへ再び姿を見せていく。



◆


「南より敵勢!」


 急報に秀長が振り返った。


「吉田の三つ引両! 街道へ入っております!」


 前では谷勢を包んだ兵がまだ戻っていない。


 信親勢も白地まで退ききってはいなかった。


 秀長はすぐに手を上げる。


「南へ返せ! 正面は追うな!」


 使番が駆けた。


 旗が向きを変える。

 崩れかけた列を組み直そうと太鼓が鳴る。


 まだ終わってはいない。


 その時だった。


 白地城の前で、横一列に筵が落ちた。


 黒い砲身が現れた。


 一つではない。


 六門。


「大筒じゃ!」


 羽柴勢にざわめきが走る。


「騒ぐな!」


 秀長の声が飛んだ。


 大坂峠では、八つの砲口を見た。

 しかし、そのすべてが同じように弾を飛ばしたわけではない。


 六つの砲口が、羽柴勢へ向いた。


 火縄が落ちる。


 直後。


 六門すべてが火を噴いた。


 轟音が重なった。


 白地の地面が震え、砲身が一斉に後ろへ跳ねる。


 羽柴勢の中で土煙が次々と噴き上がった。


 大楯が砕けた。

 馬が竿立ちになった。


 太鼓の音が一瞬、消えた。


 白煙の向こうで、立て直しかけた羽柴の列が大きく割れた。



挿絵(By みてみん)

お読みいただき、ありがとうございました。

創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いいたします。


【史実解説】

■四国征伐を生き延びた谷忠澄

史実の谷忠澄は天文三年(1534)生まれ。もとは土佐神社の神職で、のちに長宗我部元親へ仕えました。武将であると同時に、交渉や外交でも働いた人物として知られています。


天正十三年(1585)の四国征伐では、阿波の一宮城を守備しました。

羽柴秀長の大軍が阿波へ侵攻し、各地の長宗我部方の拠点が次第に失われていく中、忠澄は一宮城を守って抗戦します。しかし戦況が不利になると、最後まで城と運命をともにするのではなく、和議へ動きました。元親が最終的に秀吉へ降伏する際にも、忠澄らの勧告があったとされています。


そして翌天正十四年(1586)、忠澄はさらに重要な役目を担います。

豊後の戸次川で長宗我部信親が戦死すると、忠澄は島津方との交渉に赴き、信親の遺骸を引き取る使者を務めました。信親を失った元親に、その亡骸を返す役を担ったのが谷忠澄だったのです。


■長宗我部家の家紋・七ツ片喰

長宗我部氏の家紋として知られるのが、「七ツ片喰(ななつかたばみ)」です。

片喰は、道端などにも生える身近な多年草で一見すると小さな草ですが、地中へ長く根を伸ばし、根ごと取り除くことが難しいほど生命力が強い植物です。この性質から、家が絶えず続いていく「子孫繁栄」の象徴として用いられてきました。


谷忠澄は、自らは戦場に残りながら、その死によって最後まで羽柴勢を引きつけ、後に続く長宗我部勢へ勝機を残しました。その姿を、地上の葉を失っても土の中に根を残す片喰と重ねています。

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