第三話 片喰の根
夜明け前。
白地城の東では、吉野川から上がった霧が低く地を這っていた。
兵はすでに起きていた。
鉄砲足軽が火縄を確かめ、槍衆は穂先を東へ揃えている。これまでの朝のように荷をまとめる者はいない。傷兵を先へ送り、退路を空ける動きもなかった。
皆、羽柴の陣を向いていた。
元親の前に、信親と谷忠澄が控えている。
「先手は、私にお任せくだされ」
元親は忠澄を見た。
「お前が出るのか。槍働きなら、ほかにもおる」
「存じております」
忠澄は頭を下げた。
「この策を口にしたのは、私にて。最後の一手は自ら打ちとうございます」
元親はしばらく答えなかった。
やがて東へ目を向ける。
「秀長が新手を出せば退け」
「は」
「鉦は二度だ。二度目までには戻れ」
「承知いたしました」
忠澄は一礼して立った。
陣へ戻ると、手元に残していた槍衆を前へ出した。鉄砲勢はその後ろにつく。
「退き鉦が鳴れば、傷を負った者のみ戻せ」
命じたのは、それだけだった。
朝霧が薄れ始める。
羽柴方の陣に旗が浮かんだ。
昨日までなら、向こうが進んでくるのを待つところだった。
先に鳴ったのは白地の太鼓だった。
腹に響く音が三つ。
旗が東へ動いた。
「敵方、出ました! 谷の三つ巴!」
羽柴方から声が上がった。
鉄砲が鳴る。
忠澄勢の前列で兵が倒れた。
その横を次の列が進む。
長宗我部方からも白煙が上がった。柵の向こうで羽柴兵が身を伏せる。その間に槍衆が距離を詰めた。
「押せ!」
槍が柵へ掛かる。
杭が軋んだ。
一つ倒れたところへ兵が殺到する。
羽柴方の槍が突き出された。
長宗我部兵が一人、柵に掛かったまま崩れた。その背を越え、別の兵が槍を入れる。
柵がもう一本倒れた。
羽柴の先手が下がる。
これまでなら、ここで止まった。
敵を乱し、追わせ、また退く。
だが三つ巴は止まらなかった。
倒れた柵を越える。
「退かぬぞ!」
羽柴兵の声が走った。
忠澄勢が二列目へ食い込む。
その後ろから片喰の旗が進んできた。
信親勢だった。
羽柴の鉄砲足軽が下がりきれず、槍衆とぶつかる。乱れたところへ長宗我部勢が押し込んだ。
人が倒れる。
旗が傾く。
それでも今日は、長宗我部の太鼓が前へ鳴っていた。
秀長は、その動きを後ろから見ていた。
「予備兵は動かすな」
使番が駆ける。
前からは、先手が押されているとの報せが続いていた。
大坂峠。
引田。
池田。
長宗我部は何度も、押せるところまで押してから退いた。
白地に何もないとは思っていない。
「前で受けろ。退けば追うな」
だが、今日は敵が退かなかった。
柵がもう一つ崩れる。
谷勢が入り、その後ろを信親勢が押す。
羽柴の前列が街道沿いに押し戻された。
「美濃守様、前が持ちませぬ!」
秀長の目が動いた。
「ならば一隊だけ足せ」
後方に控えていた旗が一つ、前へ出た。
新手が横から入り、忠澄勢の前進が初めて止まる。
槍列同士が噛み合った。
至近で鉄砲が鳴る。
長宗我部勢の前列が削られ、少しずつ押し戻された。
そこへ白地から鉦が響いた。
一度。
信親が手を上げる。
前へ出ていた鉄砲勢が離れ始めた。
槍衆が入れ替わり、負傷兵がその間を西へ抜ける。
二度目。
片喰の旗が、順に白地へ戻っていった。
秀長は追わせなかった。
長宗我部はまた退く。
そう見えた。
だが、三つ巴が動かない。
谷勢からも傷兵が抜けた。
弾を使った鉄砲足軽が下がる。
後ろの二列も離れた。
残った槍衆だけが、崩した柵の内側で列を組み直した。
三つ巴は、その中央に立ったままだった。
忠澄が手を上げる。
「押せ! 我が策、必ず成さねばならぬ!」
槍が前へ倒れた。
羽柴方にどよめきが起こった。
退く長宗我部勢から切り離された一隊が、再び押してくる。
「谷忠澄、本陣へ向かっております!」
使番が秀長の前へ駆け込んだ。
秀長は三つ巴を見た。
長宗我部の重臣が、退き鉦の後も残っている。
谷勢はもう大きくない。
だが、奪った柵を足場に羽柴の前陣へ食い込み、その場を離れようとしなかった。
放置すれば、下がった長宗我部勢が再び乗ってくる。
「追うな。囲んで潰せ」
さらに兵が前へ出た。
正面から。
左右から。
羽柴勢が谷勢を包み始める。
忠澄は下がらなかった。
鉄砲が鳴り、槍列に穴が開く。
すぐ後ろの兵が埋める。
三つ巴の旗持ちが倒れた。
別の兵が柄を拾い、泥の中へ立て直した。
忠澄の目の前で、手元の兵が一人ずつ減っていく。
それでも見ていたのは、さらにその向こうだった。
秀長の後ろ。
まだ動いていなかった旗が、また一つ前へ出る。
続いて、もう一つ。
忠澄はそれを見届けた。
口元が、わずかに緩む。
「元親様……片喰の根は、残しましたぞ」
鉄砲が鳴った。
三つ巴が揺れた。
白煙が流れた時、その旗はもう見えなかった。
◆
白地の南東。
遠い鉄砲の音を聞きながら、政重は山の下を見ていた。
昨日まで荷駄が西へ流れていた道を、今日は兵が走っている。
一隊。
また一隊。
羽柴本隊へ急いでいた。
「随分と出ましたな」
安岡玄蕃が木立の隙間を覗く。
二度目の退き鉦が、山まで届いた。
政重は白地方向へ顔を上げた。
本来なら、ここから戦の音は遠ざかる。
だが銃声は止まらなかった。
一発。二発。
続いて、まとまった鬨の声。
「……何をしている」
尾根から物見が駆け下りてきた。
「信親様の御勢、手筈通り退いております!」
「忠澄殿は」
「三つ巴、なお敵中に!」
政重の顔色が変わった。
「なに!?」
街道へ目を戻す。
羽柴の旗が一つ、西へ走っていく。
谷勢を包むためだ。
政重の手が刀の柄へ掛かった。
「玄蕃、兵を」
そこで言葉が止まった。
引田が脳裏を掠めた。
決めた刻限を越えたのは、自分だった。
「若」
「……分かっている」
退き鉦は二度鳴った。
忠澄が聞き違えるはずはない。
また一つ、羽柴の旗が前へ動く。
政重は唇を噛んだ。
「まだだ」
玄蕃は何も言わなかった。
銃声が続く。
さらに一隊。
秀長の後ろに残っていた兵が、谷を包むため西へ向かった。
政重の拳が震えた。
助けに出れば、間に合うかもしれない。
だが、今出れば忠澄が命を懸けて動かした兵が、こちらへ戻る。
「……忠澄殿」
遠くで、ひときわ大きな銃声が重なった。
政重は目を閉じなかった。
最後まで残っていた羽柴の旗が動く。
そこで初めて、立ち上がった。
「旗を出せ」
折り畳まれていた布が開く。
丸に三つ引両。
山肌に一本。
その後ろにも立つ。
「下りるぞ!」
二千八百の兵が木々の間から姿を現した。
すぐに羽柴方の物見が気づいた。
「敵だ!」
銃声。
斜面を下っていた兵が転がる。
羽柴方にも、まだ守りは残っていた。
「撃ち返せ!」
白煙が山裾に広がった。
荷駄馬が暴れ、人足が道端へ逃げる。
何人かの兵がそちらへ向きかけた。
「追うな!」
政重の声が飛ぶ。
「道を取れ!」
三つ引両が街道へ向かった。
羽柴の槍衆が列を作る。
衝突。一度、長宗我部兵が押し返される。
後ろから新手が入る。再び押す。
槍の間から人足が逃げ、空になった荷駄馬が山際へ走った。
政重勢が少しずつ街道へ食い込んでいく。
白地へ伸びていた羽柴の軍列が、そこで止まった。
同じ頃。
西でも、消えた旗が戻り始めていた。
高尾を捨てて南へ下った久武親直と金子元宅。
その兵が山中から動く。
さらに伊予側でも、河野の旗が場所を変えていた。
城を失い、退いたはずの兵が、白地へ通じる道の周りへ再び姿を見せていく。
◆
「南より敵勢!」
急報に秀長が振り返った。
「吉田の三つ引両! 街道へ入っております!」
前では谷勢を包んだ兵がまだ戻っていない。
信親勢も白地まで退ききってはいなかった。
秀長はすぐに手を上げる。
「南へ返せ! 正面は追うな!」
使番が駆けた。
旗が向きを変える。
崩れかけた列を組み直そうと太鼓が鳴る。
まだ終わってはいない。
その時だった。
白地城の前で、横一列に筵が落ちた。
黒い砲身が現れた。
一つではない。
六門。
「大筒じゃ!」
羽柴勢にざわめきが走る。
「騒ぐな!」
秀長の声が飛んだ。
大坂峠では、八つの砲口を見た。
しかし、そのすべてが同じように弾を飛ばしたわけではない。
六つの砲口が、羽柴勢へ向いた。
火縄が落ちる。
直後。
六門すべてが火を噴いた。
轟音が重なった。
白地の地面が震え、砲身が一斉に後ろへ跳ねる。
羽柴勢の中で土煙が次々と噴き上がった。
大楯が砕けた。
馬が竿立ちになった。
太鼓の音が一瞬、消えた。
白煙の向こうで、立て直しかけた羽柴の列が大きく割れた。
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【史実解説】
■四国征伐を生き延びた谷忠澄
史実の谷忠澄は天文三年(1534)生まれ。もとは土佐神社の神職で、のちに長宗我部元親へ仕えました。武将であると同時に、交渉や外交でも働いた人物として知られています。
天正十三年(1585)の四国征伐では、阿波の一宮城を守備しました。
羽柴秀長の大軍が阿波へ侵攻し、各地の長宗我部方の拠点が次第に失われていく中、忠澄は一宮城を守って抗戦します。しかし戦況が不利になると、最後まで城と運命をともにするのではなく、和議へ動きました。元親が最終的に秀吉へ降伏する際にも、忠澄らの勧告があったとされています。
そして翌天正十四年(1586)、忠澄はさらに重要な役目を担います。
豊後の戸次川で長宗我部信親が戦死すると、忠澄は島津方との交渉に赴き、信親の遺骸を引き取る使者を務めました。信親を失った元親に、その亡骸を返す役を担ったのが谷忠澄だったのです。
■長宗我部家の家紋・七ツ片喰
長宗我部氏の家紋として知られるのが、「七ツ片喰」です。
片喰は、道端などにも生える身近な多年草で一見すると小さな草ですが、地中へ長く根を伸ばし、根ごと取り除くことが難しいほど生命力が強い植物です。この性質から、家が絶えず続いていく「子孫繁栄」の象徴として用いられてきました。
谷忠澄は、自らは戦場に残りながら、その死によって最後まで羽柴勢を引きつけ、後に続く長宗我部勢へ勝機を残しました。その姿を、地上の葉を失っても土の中に根を残す片喰と重ねています。




