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岡豊宰相 ~幕末の改革者、戦国に還る~  作者: 曽我部穂岐
第七章 地這う片喰

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第二話 山中の糧

 夜が明けても、政重の兵はまだ山の中にいた。

 街道を外れてから、一度もまとまった陣を張っていない。


 東の空が白み始める頃、先を行く一隊が尾根へ折れた。続く兵は谷筋へ入り、政重の列も少し遅れて別の細道へ分かれる。


 二千八百の兵は三手に裂け、ほどなく互いの姿が見えなくなった。


 それでも道は途切れない。


 ぬかるみには柴が敷かれ、崩れた斜面には丸木が渡してある。岩場には縄が残されていた。


「前に通った時は、ここまで歩きやすくはなかったはずですが」


 玄蕃が馬を引きながら呟いた。


「新しく道を切れば目立つ。昔からある道を直しただけだ」


 炭焼きの道。


 薪を採るための道。


 山村同士を結ぶ細道。


 前年から、そうした山中の支道へ少しずつ手を入れていた。


 そして、用意したのは道だけではない。


 沿道の村や寺、古い城の倉には、米を分けて置かせている。


 政重には覚えのあるやり方だった。


 東洋であった頃、飢饉への備えを考えた時もそうだった。


 凶作になってから城下の蔵を開いたところで、山間の村へ届くには時間がかかる。海が荒れれば船は止まり、道が崩れれば人足も進めない。


 飢えてから運ぶのでは遅い。

 ならば、平時から必要になる土地へ穀を分けておけばよい。


 四国の仕置でも、その考えを持ち込んでいた。


 今は、その米を兵が食う。


 日が昇る前、列は小さな山村へ入った。

 兵を見た村人が騒ぐ様子はない。


 すでに話は通っていた。


 村外れの蔵が開けられる。

 中には米俵が並び、焼米と味噌、塩も置かれていた。


 兵糧役が中を見回し、

「この先を考えれば、少し多めに持たせてもよろしいかと」

 と進言した。


 政重は蔵の奥へ目をやった。


 米はまだある。

 だが、すべて兵のために置いたものではなかった。


「決めた分だけにしろ」

「この先で不足すれば」


「そこまで長く食わせる戦ではない。明日、決める」


 政重は蔵の外へ目を向けた。

 戸口の向こうに、村の女が子を抱いて立っている。


「ここは戦が終わった後にも村が使う」


 兵糧役は一礼した。


 必要な俵だけが外へ出された。

 兵は焼米を懐へ入れ、水を補い、傷んだ草鞋を替えていく。

 残った米には手を付けず、戸は再び閉められた。


 大きな荷は増えない。

 兵だけが山へ戻っていった。


 日が高くなる前に、政重は谷の深いところで軍を止めた。

 木々が重なり、尾根からはほとんど見えない。


 夜通し歩いた兵が岩や木の根へ腰を下ろす。

 具足を緩めた途端、そのまま眠る者もいた。


 火はほとんど使わない。兵は焼米を噛み、味噌を舐め、水を飲んだ。

 谷底で小さく焚かれた火から上がる煙も、枝葉に散って消えていく。


 昼前、別の道から使いが入った。

「途中の蔵ですが、雨が入り、奥の米が傷んでおります。手前は使えますが、予定より少なくなります」


 政重は少し考えた。


「傷んだ米は捨てろ。残りだけ出して、足りぬ分は次へ回す」


 兵糧役が帳面を開いた時だった。


 谷の上から足音が降りてきた。

 物見の一人である。


「北の尾根に騎馬が二つ。羽柴方かは分かりませぬが、この辺りを見ております」


 眠っていた兵の間に、わずかな緊張が走った。


 玄蕃が腰を上げる。


「近づくようなら、こちらで始末いたしましょう」


 政重は首を振った。


「撃つな。追うな。こちらを知らぬ者に、こちらから居場所を教えることはない」


 兵へ伏せるよう命が回った。

 馬も谷の奥へ寄せる。

 乾いた枝を踏む音すら嫌われ、兵は身を縮めた。


 尾根の上を、遠く蹄の音が通った。


 一度止まる。

 また進む。


 やがて聞こえなくなった。


 玄蕃はしばらく空を見上げていた。


「行きましたな」

「今日は予定より遅らせる。日が落ちるまでここを動かん」


 兵糧役が帳面へ目を落とす。

 蔵の米が減り、さらに半日余計に食う。


 政重はその顔を見た。


「二食を一度に食わせる必要はない。夕刻までは焼米で持たせろ」


 谷底では、兵がまた静かに腰を下ろしていった。



◆


 同じ頃。

 羽柴秀長の陣には、東から荷が入り続けていた。


 米俵を積んだ馬。

 味噌と塩を担ぐ人足。

 火薬を載せた駄馬。

 草鞋や縄を抱えた者。


 前へ荷を届けた馬には、帰りに負傷者が乗せられていく。


 街道の片側を荷が西へ進み、反対側を空の馬や傷兵が東へ戻る。


 秀長はその流れの脇で、物見から報告を受けていた。


 信親勢は白地へ入った。

 元親の兵も東側へ出始めている。


 池田で見た時より、兵そのものは増えている。

 しかし信親の荷駄は、さほど増えていない。


 白地へ米を運ぶ人足や小荷駄はあるものの、この羽柴陣の後ろへ続くような長い列は見つからなかったという。


 報告を聞く秀長の前を、一頭の駄馬が通った。


 両脇に俵を積んでいる。

 その後ろにも馬が続く。さらにその後ろにも。


 秀長はそちらを見た。


「池田の蔵は空だったな」


 側近が頷く。


「米も火薬も、持ち出されておりました」

「その割には、信親の後ろが重くならぬ」


 秀長の声は独り言に近かった。


 側近が白地方向を見る。


「周辺の村から集めておるのでしょうか」

「それだけで、あれだけの兵を何日も食わせられるなら苦労はない」


 秀長はしばらく考え、それ以上は追わなかった。


「南へ出した物見には、兵より人足を見させろ。米が通れば、どこかで人が動く」


 物見が下がる。

 陣の端では、また新しい米俵が積み上がり始めていた。




◆


 日が傾いてから、政重勢はようやく動いた。


 昼に見た騎馬は戻ってこなかった。

 三つの隊はそれぞれの道を進み、八石の古城跡を過ぎて井川側へ下る。


 途中の寺や山村でも、必要な糧だけを受け取った。

 最初の蔵のように、中を覗き込む者はもういない。


 米を受け取る。

 水を足す。

 草鞋を替える。


 済めば先へ行く。


 山の中を進むうち、兵はそのやり方に慣れていた。


 夜半になって、先頭から合図が戻った。

 政重は玄蕃と数人だけを連れ、林の端まで出た。


 木々の向こうに吉野川が見える。

 川沿いの道には火が連なっていた。


 羽柴の荷駄である。

 俵を積んだ馬が西へ進む。


 人足。

 槍を担いだ後続兵。


 また馬。


 その先には、羽柴本軍の陣火が山際に並んでいた。


 玄蕃が木の陰へ身を寄せる。


「もう、目と鼻の先ですな」


 政重は答えなかった。


 通り過ぎる荷駄を見ている。


 一つの列が西へ消えた。

 次が来るまで、街道が空いた。


 しばらくして、また馬の火が見える。


 政重の視線が、その空いた道に止まった。

 玄蕃も何も聞かなかった。


 やがて政重は林の奥へ戻る。


「兵を休ませろ。旗はまだ出すな」


 二千八百の兵が、暗い木々の下へ沈んでいく。


 ほどなく次の荷駄が現れ、何も知らず西へ流れていった。


挿絵(By みてみん)

お読みいただき、ありがとうございました。

創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いいたします。


【史実解説】

■山に備える米、吉田東洋の飢饉対策

吉田東洋は天保十三年(1842)に郡奉行となり、民政に携わりました。その頃、飢饉に備えて穀物を蓄える「済農倉(さいのうそう)」の設置を進言したことが知られています。


さらに興味深いのが、弘化二年(1845)に提出した『時事五箇条』です。

この中で東洋は、飢饉などに備える政策を意味する「荒政」について一項を割き、平時から備えを整える必要を説いています。特に囲籾について、城下だけに貯蔵しておく方法では不十分だと指摘しました。


理由は輸送です。いざ飢饉になってから城下の米を各地へ送ろうとしても、海運は天候に左右され、届くまでに日数がかかります。また山間部には、そもそも海路を利用できません。


そこで東洋は、領内の交通や地理を考えた「便利の土地」を選び、あらかじめ備蓄を置いておくことを提案しています。つまり、米そのものを蓄えるだけでなく、「どこに置けば必要な時すぐ使えるか」まで考えていたわけです。


本作では、この経験を政重が四国統治にも取り入れました。

山村や寺など各地に置かれた備荒用の穀物。そして、それらを結ぶ山中の支道。

本来は凶作や災害の際に民を救うための仕組みですが、白地の戦いではその一部が軍の補給にも利用されています。

大軍とともに大量の兵糧を運ぶ羽柴軍に対して、長宗我部の兵は進む先にすでに糧が用意されていたのです。

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― 新着の感想 ―
内懐に引き込んでの補給線の寸断と兵糧物資の破壊戦術ですか 羽柴勢が大軍であればあるほど効く戦術ですが、うまくいくかどうか…さて
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