第三話 起請返し
毛利の船が三原を発つより、半月余り前。
天正十三年六月十八日。
岡豊城へ、十河存保が来た。
供は五人だけだった。
羽柴勢の渡海が迫るなか、讃岐では戦より先に使者が走っている。早く降れば城も家も残す。そうした話が、国人たちの間へ広がり始めていた。
元親は存保を奥へ通した。
谷忠澄も同席していたが、挨拶が済むと、存保はすぐに本題へ入った。
「十河は、羽柴へ降りまする」
忠澄の目がわずかに動いた。
元親は変わらない。
「家を残すためか」
「いかにも」
「城も渡すか」
「渡します。家督も一族へ譲ります。十河の名が残るなら、それでよい」
「そうか」
元親はそれだけ言った。
存保が眉を上げる。
「お止めにならぬので」
「おぬしが意地のために十河を滅ぼすというなら止めよう。残すために降るなら、止める理由はない」
存保はやがて頭を下げた。
「もう一つ、お願いがございます」
「申せ」
「起請を、お返しいただきたい」
忠澄も存保を見た。
元親はすぐには答えない。
「十河を降すためだけではあるまい」
存保が黙る。
元親は忠澄へ目を向けた。
「――少し外せ」
「は」
襖が閉じられた。
庭から蝉の声だけが入ってきた。
存保は膝の上で拳を握り、一度開いた。
「某は、あの時、死ぬことを厭うてはおりませんでした」
元親は黙って存保を見ていた。
「捕らわれて、長宗我部へ頭を下げ、十河の名まで失って生きるくらいなら、そこで終わっても構わぬと思っておりました」
存保が死を恐れていなかったことは、あの時の振る舞いを見れば分かる。命乞いをした男でもなければ、生き残るためだけに旗を替えた男でもなかった。
「それを吉田殿に、別の道があると示された」
「十河を残す道か」
存保は膝へ目を落とした。
「某だけが生き残るのではない。城も、旧臣も、十河の名も残せるかもしれぬ、と」
存保の口元が、わずかに歪んだ。
「癪なことに、本当に残せそうになっております」
存保も一度だけ笑い、すぐに顔を戻した。
「ゆえに、借りは返したいと思っております」
「政重へ、恩を返して死ぬつもりか」
「以前なら、それでもよかったのでしょうな。一度、終わったと思った命にございます」
存保は庭の向こう、国分川を越えて夏の光に霞む平野の先へ目をやった。
「それがまだ続いておる。ならば、この先に何があるのか……少し見とうなりました」
元親は何も言わなかった。
十河の家は羽柴へ降す。政重への借りは返す。その後も生きられるなら、生きる。
存保が欲しいのは、その自由だった。
「政重への借りは返すか」
「返せる時が来れば」
「勝手な男よ」
「承知しております」
元親は鼻で笑った。
「だが、おぬしを生かしたことは、無駄ではなかった。――よかろう。起請は返す」
存保が深く頭を下げた。
「かたじけなく」
少し間を置いてから、立ち上がる。
「できれば、もう少し生きてみます」
元親は答えず、その背を見送った。
ほどなく忠澄が戻った。
「十河の起請を返せ」
「承知いたしました」
「それから、他も解く」
忠澄が顔を上げる。
「他、と申されますと」
「こちらへ起請を差し入れた者には返せ。こちらから誓紙を出して結んだ者には、その約に拘る必要はないと伝えよ」
「すべてにございますか」
「ああ」
「羽柴へ降る者が出ましょう」
「出るだろうな」
「それでも、お許しになると」
元親は庭の向こうを見た。
「秀吉は、降れば家を残すと言うておる。わしとの約があるために、それを選べず家を滅ぼす者が出る」
元親の声は低かった。
かつて政重に問われたことがある。
――四国を、一度手放す覚悟はあるか。
四国を捨てたわけではない。
だが、城と土地へしがみついて、兵まで失うつもりもなかった。
だからこそ、今日の忠義を強いて、明日の恨みに変える気もなかった。
ただ、握った指を一本だけ緩めた。
「破らせるくらいなら、こちらから解く。それで切れる縁ならば、それまでよ」
「陣へ出している軍役衆は」
「今の軍役は解かぬ」
「降る家の兵も」
「前から外せ。帰す時はこちらで決める」
元親は忠澄を見た。
「起請を返すのと、軍令を解くのは別だ」
その日のうちに、使者が岡豊を発った。
使者が持つのは、降れという命でも、残れという命でもない。ただ、選んだ道を背信とは呼ばぬという元親の言葉だった。四国を縛っていた紙が、今度は四国をほどくために運ばれていった。
◆
数日後。伊予、湯築城。
河野家の当主として伊予勢を束ねる河野通直の前に、久武親直が座っていた。
親直は、土佐西部と伊予方面の兵を預かる長宗我部の重臣である。以前から伊予との折衝にも関わっていた。
傍らには、吉田政重の弟、正義が控えている。
この日は東予から金子元宅も来ていた。
元宅は新居郡を本拠とする有力国人である。数年前、自ら元親と軍事同盟を結び、河野や毛利との折衝にも関わってきた、独立した領主だった。
毛利が伊予へ渡れば、まず戦場となるのもその領分である。
久武と元宅も初対面ではない。親泰のもとで伊予折衝に携わっていた頃から、親直は元宅と書状を交わしていた。道と兵糧の話までした仲である。
久武は一通の起請を通直の前へ置いた。
「御屋形様より、河野殿へお返しするよう申しつかっております」
通直は紙を見た。
「羽柴へ降っても、背信とはせぬと」
「はい」
「ありがたい話だ。されど、受け取れぬ」
久武は驚かなかった。通直は城の西、海の方へ目をやった。
「毛利を海の向こうへ留めるため、こちらも随分と話をつないだ。だが、いつまでもは無理だ。秀吉が四国を取ると決めた以上、いずれ毛利にも渡らせる」
「そうでしょうな」
「その時、毛利は何を得るために来る」
久武は答えなかった。
「伊予を取るためよ。秀吉を助けるだけなら、大軍を海へ渡す道理はない。降れば、命は残るかもしれぬ。――だが、河野の国まで残すとは思えぬ」
久武は否定しなかった。
通直は起請を押し戻す。
「これは、まだ預けておく」
「御屋形様は、自由にせよと申されております」
「ならば、受け取らぬのも自由であろう」
「仰せの通りです」
久武は金子元宅へ向き直る。
「金子殿には、別のお言葉を預かっております。先に交わした誓紙に拘るには及ばず。羽柴へ従われても、長宗我部は恨みとせぬ、と」
元宅はしばらく久武を見た。
「親直。元親殿がこちらを縛らぬと申されるのは分かった」
「では」
「だが、某は元親殿の家臣ではない。命じられて結んだ仲でもない。――ならば、解くかどうかもこちらで決める」
元宅は少し身を乗り出した。
「四年だ。今日、もうよいと言われたから、明日から無かったことにするほど、某は器用ではない」
「残られると」
「理由がない。戦わずして降るなど、金子の名が廃るわ」
久武は二人を見比べた。
「困りましたな」
通直が眉を寄せる。
「何がだ」
「御屋形様が帰る道を開けてくださったのに、お二人とも使われぬ」
元宅が笑う。
「不満か」
「まさか」
久武は床へ人差し指を置き、東から西へ線を引いた。
「ただし、残るなら勝手に死なれては困ります」
元宅の顔から笑みが消えた。
「毛利が攻めて来たならば、金子の城は守るぞ」
「城は、使います」
「同じことではないのか」
「違います」
久武の指が西へ動いた。
「城で時間を買う。危うくなれば兵を下げる」
「……初めから城を捨てることを考えるか」
「落ちぬなら、それに越したことはありません」
久武は線をもう少し伸ばした。
「ですが、大軍を相手に、落ちぬことしか考えぬ方が危うい」
正義が床の線を見た。
「退けば、毛利に道を開くことになります」
「開く日を遅らせる」
「その後は」
「また止める」
久武の指が止まった。
「その時、兵が残っておれば」
正義は床の線を見つめた。
兄が策を語る時、まず追うのは敵の動きだった。
久武の指は違う。
敵ではなく、味方が退く先をなぞっていた。
◆
七月初め。
羽柴秀長の陣には、各地から恭順の使者が続いていた。
城を開く者。人質を差し出す者。長宗我部から離れることを願い出る者。
「元親の四国も、ほどけてまいりましたな」
家臣が言った。
秀長は届いた報告を一通ずつ読んでいた。
「ただ、もう一つございます。降ってきた国人の一人が、元親より起請を返されたと申しております。羽柴へ従っても背信とはせぬ、と」
秀長の手が止まった。
「寝返る前に返したと……」
次の報告を取る。
河野通直、恭順せず。
金子元宅、なお抗戦の構え。
「返しても残る者がおるか」
「それでも、降る城は増えております」
「城はな」
秀長は報告を置いた。視線が伊予の絵図へ移る。
「降った家の数だけ数えるな。残った兵が、どこへ行くかを見よ」
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【史実解説】
■伊予との窓口・久武親直
久武親直は、長宗我部元親の重臣の一人です。
久武家と伊予の関わりは深く、親直の兄・久武親信は、天正七年(1579)頃から長宗我部方の伊予攻略を担いました。しかし翌天正八年、三間方面での戦いで討死し、長宗我部氏の伊予進出はいったん大きくつまずくことになります。
その後の親直について興味深いのが、伊予の有力国人・金子元宅との関係です。
『金子文書』には、天正十二年(1584)七月十九日付の「久武親直起請文」と書状が残されています。愛媛県史の年表にも、この日、親直が金子元宅へ起請文を差し出したことが記録されています。
さらに同じ七月十九日の書状について、親直が金子元宅に讃岐東方へ軍を進めるよう促したものとされています。つまり親直と元宅は、羽柴の四国攻めが始まる以前から、書状を交わして軍事行動を調整する関係にありました。
後世の逸話では評価の分かれる久武親直ですが、この時期の史料を見ると、単に元親の側近というだけでなく、伊予・讃岐方面を結ぶ実務にも関わっていた人物だったことが分かります。
■三家の間に立った男・金子元宅
金子元宅は、伊予国新居郡を基盤とした有力国人です。
河野氏の単純な家臣として見るより、新居・宇摩方面に独自の勢力を持ち、周辺諸勢力との関係を使い分けていた人物として見る方が実態に近いでしょう。
金子氏はもともと毛利氏とも関係を持っていましたが、元宅は次第に長宗我部元親との結びつきを強め、天正九年(1581)には元親と起請文を交わして同盟関係を結びます。以後、新居・宇摩両郡で長宗我部方の有力な協力者となっていきました。
元宅をめぐる書状群からは、長宗我部、河野、毛利という三つの勢力の間で情報や交渉が行き交っていた様子が見えてきます。元宅は単なる「長宗我部の配下」ではなく、伊予東部に自分の基盤を持ちながら、大勢力同士をつなぐ位置にいた国人でした。
天正十二年には久武親直から起請文と書状を受け、同年十二月には土佐との往来に関わる桑瀬方面の人々からも元宅宛ての連署状が残っています。羽柴による四国攻めを目前にした時期、金子氏と土佐との結びつきは、外交だけでなく街道や地域社会へも及んでいたことがうかがえます




