↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
岡豊宰相 ~幕末の改革者、戦国に還る~  作者: 曽我部穂岐
第六章 国割

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
27/30

第二話 潮目の一矢

 天正十三年七月十日。

 備後国、三原。


 三原の港には、伊予へ渡る日を待つ船が並んでいた。


 兵を乗せる関船。米俵を積んだ荷船。馬を渡すため舷を補強した船。沖にも帆柱が重なり、その間を小舟が絶えず行き来している。


 兵はいる。兵糧もある。船も、とうに揃っていた。


 それでも毛利勢は、まだ海を渡っていない。


 港を見下ろす座敷に、小早川こばやかわ隆景たかかげは座っていた。


 五十を越えた顔は細く、頬には年相応の線が刻まれている。髭は短く整えられ、黒い小袖にも飾り気はない。三万近い軍勢を海の向こうへ送る将というより、寺で書を読んでいる者にも見えた。


 ただ、家臣たちは隆景の手を見ていた。


 書状を読んでいる間、その手はほとんど動かない。紙の端を指で押さえているうちは、まだ考えている。裏返したなら、もう決めている。


 隆景の前には、大坂から届いた書状があった。


「また、急げとの仰せにございます」


 家臣がそう告げても、隆景はしばらく紙を伏せなかった。


 秀吉から伊予出兵を求められてからも、毛利は時を使っていた。


 理由の一つは河野だった。


 河野こうの通直みちなおと毛利には、長宗我部が伊予へ勢力を伸ばす以前から縁がある。その河野を間に置き、話が続いていた。


 伊予から毛利領を脅かさない。芸予の海にも手を出さない。その代わり、毛利も直ちには伊予へ兵を入れない。


 元親も、それを認めていた。


 河野が残り、海の向こうから刃を向けてこないのであれば、急いで旧知の家を攻め、その背後にいる長宗我部まで敵に回す必要はない。


 少なくとも、昨日までは。


「引田に続いて、鳥坂でも押し切れなんだとか。美濃守殿がこちらを待ちかねるのも無理はございますまい」


 家臣の言葉に、隆景はようやく目を上げた。


「待っておるのは、われらの兵だけではあるまい」


 書状を裏返す。


 座にいた者たちの背が、わずかに伸びた。


「われらが伊予へ渡れば、河野は西を向かねばならぬ。河野を支えるなら、長宗我部も兵を割く。美濃守殿が欲しいのは、それよ」


 指が卓上の絵図へ伸びた。


 讃岐から伊予へ。さらに土佐へ。


「信親を東で受け、親泰を西で受けながら、宮内少輔くないしょうゆうはなお四国を一つの戦として扱っておる。それなら、火口をもう一つ増やせばよい」


「されど河野との話を反故にすれば、これまで積み上げたものも失われます」


「昨日までなら、その重みの方が勝った」


 隆景の指が止まった。


 秀吉からは、すでに別の約が届いている。


 『四国平定の後、伊予一国を小早川へ与える。』


 伊予一国。


 紙に書けば、わずか四文字である。


 だが、その中には城があり、村があり、浦があり、船がある。そこで暮らす者もいる。

 誰かが荒らした後にもらえばよい国ではなかった。


「伊予は我らが取る。ならば、誰かが取った後で受け取る国にはしたくない」


 異を唱える者はいなかった。


「今張浦へ向かわせますか。それなら来島の水先も使えましょう」


 隆景の指は、今張へ届く前に止まった。


「来島は避ける。東へ回れ」


 座がわずかにざわめく。


 来島くるしま通総みちふさは秀吉との縁を残している。だが長宗我部の家臣ではなく、河野とも完全には手を切っていない。


 敵と呼ぶには近く、味方と呼ぶには遠い。


「通総が矢を射るとは思えませぬ」

「わしも思わぬ。だが、矢だけが戦ではない」


 隆景は来島海峡へ指を置いた。


「水先が一人違えば船列は乱れる。潮時を半刻違えて教えられても三万は止まる。腹を読めぬ者へ、船の命まで預けることはない」


「ならば先に来島城を押さえてしまえば」

「これから治める国で、要らぬ敵を増やしてどうする」


 静かな声だった。


 家臣はそれ以上続けなかった。


「来島を取らねば伊予が取れぬわけではない。燧灘ひうちなだへ回る。毛利には毛利の船があり、瀬戸内を知る水主もおる」


 隆景の指が東へ滑った。


「近い道が、安全とは限らぬ」


 それで進路は決まった。

 家臣たちが立とうとすると、隆景がもう一度口を開いた。


「先手へ一つ伝えよ。村へ火を出すな。田も荒らすな。米が要るなら銭で取れ」


「しかし、敵地でございます」

「分かっておる。だから申しておる」


 隆景は港を見た。


 焼けば早い。奪えば兵も喜ぶ。

 だが、その先で国を治める者は自分だった。




 そのころ、来島城。


「忠海で米が上がった。三原にゃ荷船が増え、因島では漁へ出るはずの船頭まで呼び戻されておる」


 得居とくい通幸みちゆきは、座敷で片膝を立てたまま話した。日に焼けた顔に、潮風で固くなった髪。城内にいても、どこか船の上にいるような男だった。


 窓際に座る弟、来島くるしま通総みちふさは沖から目を離さない。


「兵船まで増えておるなら、近いうちに動く。三万を食わせる米は、隠して運べる量ではない」

「さて、来た時はどうする。羽柴との縁を見せて船でも出すか」


 そこで初めて通総が兄を見る。


「矢は射ぬ。船も貸さぬ」


 通幸が眉を上げた。


「どちらからも嫌われそうな答えよ」

「どちらかに好かれるために来島を持っておるわけではない」


 通幸の口元が緩んだ。


「結局、来島につくか」

「兄上も同じでござろう」


「違いない」


 兄弟は再び海を見る。

 来島衆は軍船だけを見て海を読むわけではない。


 米の値。商船の出入り。どの浦から水主が消えたか。いつもの荷船が来なくなったか。


 一つなら噂でも、重なれば大軍の形が浮かぶ。


 通幸は、そうした変化を拾うのが早い。

 通総は、それを並べて読む。


「通直には知らせる。もっとも、『毛利が攻めてくる』とは書けん。まだ見てもおらぬものを見たとは言えんからな」


「相変わらず細かい男だ」

「兄上が大雑把すぎるのです」


「この海では、それでも長く生きられた」


 通総は沖を見たまま言った。


「昨日まで生きたからとて、明日も生きるとは限りませぬ」


 通幸の笑みが消えた。

 しばらくして頷く。


「では、見えたものだけ送れ」


 夕刻、一艘の魚船が来島を離れた。


 魚籠の下には、小さく折った紙が入っている。


 三原に兵船集まる。

 忠海に兵糧船多し。

 因島船、出船の支度あり。

 渡海近し。


 差出人はない。


 湯築城の河野通直へ届けばよい。そこから久武親直へ渡り、さらに長宗我部の連絡網へ乗れば岡豊まで行く。


 来島は長宗我部の家臣ではない。


 ただ、自分たちが見た海を、誰へ知らせるかまで他人に決めさせるつもりはなかった。




 三日後。

 毛利の船団は、来島へ現れなかった。


 通幸は朝から海を見続け、昼近くになってとうとう眉を寄せた。


「おかしい。あれだけ米と船を集めておいて、まだ三原に浮かべておるとは思えん」


 通総も同じことを考えていた。


 風はある。潮も悪くない。

 来られぬのではない。

 来ていない。


 昼を過ぎたころ、東の浦から小舟が戻ってきた。

 水主が浜へ飛び降り、そのまま城へ駆け込んでくる。


「毛利の船はこちらへ下っておりませぬ! 因島より出た船の多くが、燧灘へ向かっております!」


 通幸は沖から弟へ顔を向けた。


「やはり避けたか。我らの腹を信用せなんだらしい」

「それでよい。ここで毛利と撃ち合わずに済む」


「向こうも同じことを申しておろうよ」


 通総の口元がわずかに動いた。


 通幸は海へ目を戻す。


「一艘出して跡を追わせるか」

「やめましょう。こちらが見ておるなら、向こうも見ております。追えば、ただの物見でも別の意味を持つ」


 海では、見に行くだけでも旗になる。


「東の浦から見える範囲だけでよい。沖へは出すな」


 物見が走っていく。



 日が傾き始めたころ、二艘目の魚船が来島を離れた。


 今度の紙はさらに短かった。


 毛利主力、来島へ向かわず。

 燧灘方面へ東進。

 伊予東部を警戒されたし。


 通幸は小舟が潮へ乗るのを見送った。


「今度は、ずいぶん東へ火が点くな」


 通総も東を見る。


「火が見えてから知らせては遅い」


 海には毛利の帆は一つもない。


 来島では、一矢も放たれていなかった。

 それでも見えない海の向こうで、四国の戦はすでに動いている。


 夕潮が、ゆっくりと向きを変えていた。



お読みいただき、ありがとうございました。

創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いいたします。


【史実解説】

■瀬戸内を背負う一矢・小早川隆景

小早川隆景は天文二年(1533)生まれ。毛利元就の三男で、兄は毛利隆元と吉川元春です。竹原小早川氏、さらに沼田小早川氏を継ぎ、元春とともに「毛利両川」と呼ばれて毛利家を支えました。元就の死後は、甥の毛利輝元を補佐する立場となります。


有名な「三本の矢」の逸話のもとになったと考えられているのが、元就が隆元・元春・隆景へ送った「三子教訓状」です。

この書状では、吉川家を継いだ元春、小早川家を継いだ隆景も毛利本家を忘れず、三兄弟が結束して毛利家を支えること、兄弟の間に隔たりが生じれば三家とも危うくなることなどが説かれています。後世の「三矢の訓」は、この三兄弟の結束という史実を象徴する逸話として生まれたものと考えられています。


隆景は軍事だけでなく外交・領国経営にも長け、天正十年(1582)の備中高松城をめぐる和議の際には、秀吉撤退後の追撃に反対した人物としても知られます。その後は秀吉との関係を深め、毛利氏と豊臣政権を結ぶ重要人物となっていきました。



■毛利の伊予侵攻

天正十三年(1585)の四国征伐では、羽柴秀長らが阿波・讃岐方面を担当する一方、毛利氏を中心とする中国勢が伊予方面を担当しました。


毛利輝元は四月十七日、秀吉の要請を受けて伊予出陣を命じています。さらに六月十八日、秀吉は小早川隆景に対し、四国平定後の伊予国を与えることを約束しました。伊予攻略は単なる援軍ではなく、隆景自身の新たな領国獲得にも直結する戦いとなりました。


これに先立つ二月十一日には、秀吉の要請を受けた毛利輝元が来島通総の帰国を認め、隆景も通総の帰国について能島村上氏の村上武吉・元吉へ起請文を出しています。四国征伐直前の伊予では、毛利・河野・来島など瀬戸内の諸勢力の関係も大きく動いていました。


六月二十七日、隆景は吉川・宍戸・福原ら毛利方の約三万の軍勢を率いて今張浦、現在の今治付近へ上陸。東予へ進み、七月十七日には新居郡の高尾城を攻略、さらに金子元宅方の高峠城を攻め落としました。その後も進撃を続け、七月末には河野氏の本拠である湯築城を攻略して伊予を平定します。

本作では河野氏を介した交渉が長引いたことで、毛利勢の渡海時期も史実より遅れています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。