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岡豊宰相 ~幕末の改革者、戦国に還る~  作者: 曽我部穂岐
第五章 退く火

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第五話 讃州の鬼

 羽柴の旗が、道を埋めていた。

 大坂峠から引田へ下る道を、幾重にも連なってくる。


 総大将・羽柴秀長本隊。


 その姿を見た途端、仙石勢の鬨の声が一段高くなった。


「押せ! 長宗我部を逃がすな!」


 秀久の槍が振られる。

 先ほどまで左右から挟まれていた兵が、一斉に前へ出た。


「左、下がれ! 右はまだ動くな!」


 信親の声が飛ぶ。

 前へ出した伏兵を戻し、正面の兵を下げ、傷兵を道へ流す。


 攻めるより退く方が難しい。しかも仙石勢が食いつき、離れようとしない。


 政重は馬を返した。


「右は私が戻します!」

「任せる。急げ!」


 政重は右手へ駆けた。


「退け! 順に下がれ! 走るな!」


 旗が一本倒れた。拾おうとした兵の横を、肩を貸された傷兵がよろめきながら抜けていく。


「道を空けろ!」

 玄蕃が怒鳴った。


 政重も追ってきた槍を払い、馬首を返す。


「三十、ここに残れ! 残りは下がれ!」


 槍衆が受け、その間に傷兵が抜ける。


 戦う前から決めていた退く順が、崩れかけた列を辛うじて繋いでいた。


 だが敵は増えている。

 秀長本隊から新手が流れ込み、仙石勢の圧力が強まった。


「吉田勝五郎!」


 声に振り向く。


 無一文字。


 その下で、肩を血に染めた秀久が槍を向けていた。


「さっきの威勢はどうした!」


 政重は答えなかった。

 今は秀久を討つためではない。兵を帰すために、ここで止める。


「玄蕃!」

「心得ております!」


 二人で前へ出た。


 槍が噛み合う。

 一歩押し、二歩下がる。その間にも味方が後ろへ抜けていく。


「若、もうよろしい!」


 玄蕃の声で政重も下がった。


「撃て!」


 信親の鉄砲勢が火を噴く。

 白煙の向こうで羽柴兵が伏せた。


 それでも無一文字は止まらない。


「退く敵に息を入れさせるな!」


 秀久が兵を押し出す。

 その後ろでは、秀長本隊の旗がなお増えていた。


「信親様!」


 政重が馬を寄せる。


「このままでは道を塞がれます」

「分かっている。殿を厚くする」

「私が残ります」


 信親が政重を見た。


「駄目だ」

「しかし」

「それは償いではないぞ」


 政重の口が止まった。


「兵を連れて帰れ」

「……はい」


 その時だった。


 銃声がした。


 引田の野ではない。


 もっと後ろ。

 秀長本隊が通ってきた道の向こうだった。


 一発。二発。


 続いて鬨の声。


「後ろだ!」


 羽柴兵の叫びが走る。

 秀長本隊の後列が振り向いた。並んでいた旗が大きく揺れる。


 土煙の向こうから、新たな旗が現れた。


 花菱。


 政重の息が止まった。


「十河……?」


 引田へ長く伸びた羽柴の列。その前では、退きながらも信親の旗が槍先を向けている。


 そして後ろからは花菱の旗。

 長宗我部と十河。秀長本隊は、その間に長く伸びていた。


 信親が先に気づいた。


「政重、援軍じゃ」


 先ほどまで長宗我部を押し包もうとしていた羽柴勢が、今度は前と後ろの双方へ兵を向けねばならなくなった。


「花菱だと!?」


 秀久が振り向いた。

 傷のある顔から、初めて笑みが消えた。


「十河は城を開き、羽柴に降ったはずだ!」


「権兵衛様、後ろより数百!」

「数百だと……」


 二年前、引田で自分が救おうとした男だった。


 その存保が今、敵として自分たちの背後へ現れた。


 花菱が増える。

 その下を、具足も旗指物も揃わぬ兵たちが走ってくる。


 だが手にしているのは槍であり、鉄砲だった。


 村へ帰ったはずの十河兵。


 その先頭に、一騎の武者がいた。


 十河そごう存保まさやす――


 秀久の目が見開かれる。


「存保! 貴様……!」

「権兵衛、久しいな!」


 十河存保が槍を上げた。


「何をしておる!」

「見れば分かろう」


 存保が笑った。


「讃州の戦をしておる!」


 槍が前へ倒れた。


「押せ!」


 花菱が秀長本隊の後列へ食いついた。

 槍が入り、旗が乱れる。


「後陣、騒ぐな!」

 秀長の声が飛んだ。


「敵の数を見よ! 先を止め、後ろへ二隊返せ!」


 秀長はすぐに意味を悟っていた。


 前では信親が退きながら兵を残し、後ろでは十河が食いついている。ここで追撃へさらに兵を送れば、長く伸びた列の背が薄くなる。


 秀長の目が細くなった。


「……十河は家だけを降したか」


「追撃を欲張るな。後陣を固めよ!」


 前へ流れかけていた新手が止まり、いくつもの旗が後ろへ向きを変えた。


 後列の鉄砲足軽が一斉に向きを変える。

 仙石へ送られるはずだった槍衆まで、花菱の方へ駆け戻る。


 さきほどまで一本道のように前へ流れていた羽柴の軍勢が、途中で二つに引かれた。


 一方、秀久も槍を返す。


「十河を止めろ! 本隊との間を空けるな!」


 仙石勢の一部が向きを変えた。


 その一瞬を信親は逃さなかった。


「今だ! 全軍、退け!」


 長宗我部勢が動く。

 前列が下がれば、次の列が受ける。


 傷兵が道へ入る。


 今度は乱れなかった。


 政重も二度槍を合わせてから馬を返した。


「勝五郎!」


 横から声が飛ぶ。


 存保だった。


「存保殿……なぜここへ」


「なぜ、だと?」


 羽柴兵の槍を弾き、存保が笑った。


「借りを返しに来た」


 雨の陣幕が、政重の脳裏に蘇った。


 縄を掛けられた存保。

 首を取れという声。


 その中で、自分はこの男を生かした。


「しかし、十河は羽柴へ……」


「十河家は降った。城も倅に任せた」


「では、この兵は」


 存保は花菱の群れを顎で示した。


「それでも、わしについて来ると言った阿呆どもよ」


 具足も旗指物も揃っていない。

 だが、槍を握る手に迷いはなかった。


「家を降したからとて、わしまで羽柴へ降った覚えはない」


 政重は存保を見た。


「元親様との起請は」

「返してもらった」


「……返した?」

「ああ。話はついておる」


 存保は槍を持ち直した。


「それにな、勝五郎」


 政重を見る。


「あの日、おぬしに拾われた命じゃ」


「存保殿……」


「死ぬつもりだったところを、生きろと言われた」


 存保の口元が歪んだ。


「ならば一度くらい、その先を見てみるのも悪くなかろう」


 政重が目を見開いた。


「そのついでだ」


 存保は笑った。


「借りの一つくらい返しておく」


「……かたじけない」


「礼はまだ早い!」


 存保が馬首を返した。


「ここで死なれたら、今度はわしの貸しが返せぬぞ!」


 槍を振り上げる。


「行け! 信親殿を連れて帰れ!」


 花菱がもう一度前へ出た。


 政重は一瞬だけ頭を下げ、馬を返した。


 長宗我部勢が十分に離れると、十河勢も一隊ずつ引き始めた。


「追いますか!」


 秀久の家臣が叫ぶ。

 秀久は一度、長宗我部の背を見た。


 追えば届く。

 だが本隊との間に花菱を残したままでは、自分だけが前へ取り残される。


「追うな!」

「しかし!」


「存保が何人潜ませておるか見えん! 美濃守様と列を揃えろ!」


 無一文字も止まった。


 花菱が最後まで殿しんがりに残った。




 夕刻。

 引田の野は遠くなっていた。


 長宗我部勢は勝ってはいない。

 予定より多くの兵を傷つけ、秀久も討てなかった。


 村外れで列を整えると、信親が馬を止めた。


「政重」

「はい」


 政重は頭を下げた。


「申し開きはいたしません」

「軍令を破ったことか」

「はい」

「それは父上にも報せる」


 政重はさらに頭を下げた。


「だが、今はそれだけだ」


 顔を上げる。


「今日退けたのは、お前が秀久を討とうとしたからではない」

「……はい」


「存保が来たからだ」


 胸の奥へ、その言葉が落ちた。


 政重は振り返った。

 遠い土煙の向こうで、花菱が翻っている。


 雨の中で、死なせなかった男。

 その男に、今日は命を拾われた。


「参りましょう」


 信親が頷く。


「ああ」


 二人は馬を進めた。


 秀久も生きている。

 信親も生きている。

 存保も生きている。


 元親を含め、戸次川にいた四人は、まだ誰も欠けていない。


 だが、もう同じ並びではなかった。



お読みいただき、ありがとうございました。

創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いいたします。


【史実解説】

■仙石秀久と十河存保

本話では、引田で長宗我部勢を追う仙石秀久の背後へ、十河存保が兵を率いて現れました。

しかし史実の二人は、むしろ長宗我部氏に対抗する側として関わりを持った武将です。


天正十年(1582)、長宗我部元親の攻勢によって阿波・讃岐で苦境に立たされていた存保を救うため、秀吉は仙石秀久を讃岐へ派遣しました。秀久は兵三千を率いて小豆島から渡海し、屋島方面で長宗我部勢と戦っています。翌天正十一年(1583)には再び讃岐へ入り、二千余の兵を率いて引田で長宗我部軍と戦いました。つまり史実の引田では、秀久は存保と敵対する側ではなく、長宗我部氏に対抗する立場にありました。


その後も戦況は存保に厳しく、天正十二年(1584)には十河城が長宗我部勢に攻められ、存保は城を離れます。しかし翌天正十三年、秀吉による四国征伐が始まると情勢は再び逆転しました。香川県史の年表では、仙石秀久は四国征伐軍の一員として讃岐へ入り、同年五月には十河存保以下六千余を率いて阿波から讃岐へ引き揚げたとされています。四国征伐後、秀久は讃岐を与えられ、そのうち二万石が存保の支配となりました。


そして二人の関係は、さらに九州へ続きます。

天正十四年(1586)、秀久は十河・安富ら讃岐勢三千余を率いて豊後へ渡りました。十二月には、仙石秀久、十河存保ら讃岐勢と長宗我部信親ら四国勢が戸次川を挟んで島津軍と対峙します。


十三日の戦いで四国勢は大敗。

存保は戦死し、長宗我部信親も帰らぬ人となりました。一方、敗走した秀久は戸次川での不覚を責められ、のちに讃岐を没収されています。


こうして見ると、仙石秀久と十河存保は、

存保を救援するため讃岐へ来た秀久。

長宗我部氏と争った存保。

四国征伐後にはともに羽柴方の讃岐勢となり、最後には同じ戸次川へ渡った二人。

という、不思議なほど戦歴の重なる武将でもあります。

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