第四話 引田返し
朝靄の向こうに、羽柴方の旗が浮かび始めた。
引田の田にはまだ露が残り、畦を走る兵の草鞋が湿った土を跳ね上げる。
信親は馬上から敵列を眺めていた。
「思ったより早いな」
「峠を空けましたゆえ」
政重が答える。
ここでの手順は、戦になる前から決めていた。
敵の先手を引き込み、一度叩く。深追いはせず、秀長の本隊が追いつく前に次へ退く。
欲しいのは大勝ではない。羽柴の足を鈍らせ、また一日を稼げばよかった。
物見が駆け戻ってきた。
「申し上げます。先手の旗、無一文字!」
政重の目が動いた。
「大将は」
「仙石権兵衛秀久!」
その名に、胸の奥が冷えた。
東洋の知る歴史ならば翌年、九州の戸次川。
島津勢と戦ったのは、秀久、元親、信親、存保。
そして信親と存保は、そこから帰らなかった。
信親を失った元親は後継を巡って家中を揺らし、長宗我部家もまた衰えていく。
東洋にとって、それはただ書物の中にある昔話ではない。
吉田家もまた、長宗我部に仕えた者の末だった。
存保は生かした。
四国の形も変えた。
歴史は、確かに変えたはずだった。
それでも。
秀久、元親、信親、存保。
戸次川にいた四人が、また同じ戦の中へ集まりつつある。
別の道を通って同じ場所へ戻ろうとしているように思えた。
「政重?」
顔を上げる。
目の前に、生きている信親がいる。
秀久はまだ何もしていない。
まだ犯してもいない罪で、人を斬る道理はない。
分かっていた。しかし、浮かんだ考えは消せなかった。
「信親様」
「どうした」
「策を変えます」
信親の右眉が上がった。
「どう変える」
「秀久を、討ちます」
しばらく返事がなかった。
「そのために何を賭ける」
「……時を」
「どれほどだ」
「半刻」
信親は敵陣へ目を戻した。
「よかろう。半刻、お前に任せる」
「はい」
「刻限が来れば終わりだ。秀久が目の前にいても退く」
「承知しております」
政重は答えた。
(変えられるかもしれぬ……あの男をここで斃せば)
◆
昼近く。
最初に鳴ったのは羽柴方の鉄砲だった。
三発。
長宗我部勢の前で土が跳ねる。
「撃て!」
こちらからも白煙が立った。
銃声が重なり、畦の上を走っていた羽柴兵が一人転がる。
まだ遠い。それでも銃声のたび、前へ出る兵の足が鈍った。
やがて槍衆が来た。
「押せ!」
「退くな!」
槍と槍がぶつかる。
一度押し返す。
羽柴勢がまた来る。
二度、三度。
四度目で、長宗我部の前列が下がった。
「前を下げろ!」
旗が返る。
五十人ほどが退き、その後ろの兵が入れ替わる。
「押しておるぞ!」
羽柴方から歓声が上がった。
また下がる。
さらに一度ぶつかり、また退く。
列は乱さない。
それでも長宗我部の旗は、少しずつ後ろへ下がっていった。
その先に浅い窪地がある。
左には林。
右には低い土手。
どちらにも兵を伏せていた。
政重は振り返る。
無一文字の旗が近づいている。
「もう一段下げろ」
前列が退いた。
羽柴兵が畦を越える。
窪地まであとわずか。
政重が手を上げる。
あと五十間。
そこで、無一文字が止まった。
続いて槍衆も止まる。
上げかけた手が空で止まった。
槍衆の横から十数人の鉄砲足軽が出る。
左右へ散った。
一人が林へ撃つ。
鳥が飛び立った。
土手にも一発。
伏せた兵は動かない。
「探っておりますな」
傍らの安岡玄蕃が低く言った。
政重は無言で頷いた。
無一文字は動かない。
やがて仙石勢から小勢が出た。
こちらも兵を出す。
槍が数度鳴り、双方が離れた。
「政重」
信親が呼んだ。
「あと四半刻だ」
「承知しております」
また鉄砲が鳴る。
それでも仙石勢は来ない。
待てばよい。
ここまで引きずり、足を止めた。それで十分だった。
無一文字がわずかに下がる。
「左を出します」
玄蕃が政重を見た。
信親も敵旗を見る。
「延ばしはせぬぞ」
「心得ております」
政重は手を上げた。
「左、出ろ!」
鬨の声が弾けた。
林から百余の兵が飛び出し、仙石勢の横腹へ槍を突き込む。
「伏兵!」
羽柴兵が乱れた。
「正面、押せ!」
信親の兵も反転する。
退いていた前列が押し戻し、仙石勢が前と左から圧された。
「林へ入るな!」
太い声が飛んだ。
「道を外れるな! 向こうの戦に付き合うな!」
無一文字の旗の下に、一人の武者がいた。
使い込まれた具足。
鼻筋から頬へ走る傷。
あれが、仙石秀久。
退く兵の肩を掴み、向きを変える。
「伏せ勢は出たぞ! 姿を見せればただの兵じゃ!」
槍衆がまとまり直した。
道を軸に踏みとどまる。
政重は目を細めた。
伏兵が姿を見せてから、仙石勢の足並みが揃い始めている。
左から押す。
正面からも押す。
それでも崩れない。
「政重!」
信親の声が飛ぶ。
「もう僅かだぞ!」
「右も出します」
信親の眉が動いた。
「それで決めるか」
「はい」
「ならば急げ。刻限は変わらぬ」
「承知!」
政重が手を振り下ろす。
「右、出ろ!」
土手の陰から第二の伏兵が躍り出た。
仙石勢の右へ食いつく。
「押せ!」
両側から槍が入る。
羽柴兵の列が揺れた。
一歩。
二歩。
中央まで下がる。
無一文字の旗も後ろへ動いた。
三十間。
さらに五十間。
敵の列も、それに合わせて下がっていく。
退いている。
政重には、そう見えた。
「政重!」
信親の声が響いた。
「刻限だ。退け!」
今までとは違った。
大将の命だった。
政重の手綱を握る指が止まった。
退く。
そう決めたはずだった。
視線の先で、無一文字がまた下がる。
秀久まで百間もない。
今なら。
政重は槍を取った。
「若!」
玄蕃が政重の顔を見た。
「あと少しにございます!」
口にした瞬間、自分の声がひどく遠く聞こえた。
あと少し。
そんな言葉で兵を危地へ出す者を、東洋は誰より嫌っていた。
それなのに、馬を蹴った。
その衝動が東洋のものか、政重のものか、自分でも分からなかった。
「続け!」
「若!」
玄蕃も馬を蹴った。
前に出た羽柴兵を槍で払い、もう一人を力任せに押し退ける。
無一文字が大きくなる。
「仙石権兵衛!」
秀久が振り向いた。
「誰じゃ、おぬし!」
「吉田勝五郎、政重!」
槍を突く。
秀久が払った。
乾いた音が響く。
政重は二撃目を叩き込んだ。
秀久が身体を捻る。
穂先が肩を裂き、血が飛ぶ。
「権兵衛様!」
秀久の兵が割って入ろうとした。
「来るな!」
秀久は槍を短く持ち替えた。
政重がもう一度突く。
秀久は避けない。
肩を掠めさせ、そのまま一歩踏み込んできた。
「っ!」
政重の懐へ穂先が走る。
具足の袖が裂けた。
政重は柄を横薙ぎに振る。
秀久が二歩下がった。
血が腕を伝っている。それでも片頬が上がる。
「安いッ」
政重は息を呑んだ。
戸次川で、どんな判断を誤ったかは知っている。
だが、それだけで目の前の男は量れなかった。
「政重!」
信親の声が思考を断ち切った。
振り返る。
長宗我部勢は窪地を越え、左右の伏兵もすべて戦列へ出ている。
ようやく、自分が何をしたのかが見えた。
「退け!」
政重は叫んだ。
「戻せ! 兵を戻せ!」
直後。
地面が震えた。
槍を構えていた兵が足元を見る。
馬だけではない。
何百、何千という足音が重なっていた。
仙石勢の兵まで、戦いながら峠の方を見る。
秀久も動きを止めた。
地鳴りに耳を澄ませ、片頬を上げる。
道の向こうに旗が現れた。
一つ。
二つ。
十。
さらに、その後ろから次々と。
羽柴の旗。
「……秀長か」
信親が呟いた。
政重は答えられなかった。
秀長が早かったのではない。
自分たちが遅れた。
「政重」
「……はい」
「刻限を過ぎたな」
責める声ではなかった。
政重は何も返せなかった。
「権兵衛様! 美濃守様の御旗が!」
仙石勢から歓声が湧く。
秀久は近づく本隊を一瞥した。
「来たか」
槍を持ち直す。
穂先が政重たちへ向いた。
「今度は逃がすな!」
鬨の声が引田の野を揺らした。
二年前も、戦をひっくり返したのは遅れて現れた本隊だった。
ただし今度、その旗は羽柴のものだった。
引田で起きたことが、まるで裏返されていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いいたします。
【史実解説】
■戸次川の戦いと四人の武将
天正十四年(1586)、島津氏が豊後へ侵攻すると、秀吉は大友氏救援のため四国勢を九州へ送りました。そこで同じ軍に加わったのが、仙石秀久、長宗我部元親・信親、十河存保です。
大友勢を加えた連合軍は戸次川で島津軍と激突しましたが大敗。史料・後世の叙述では、秀吉本軍を待つべき状況で戦端を開いたこと、元親や存保が慎重論を唱えたとする話がよく知られます。信親と存保は戦死し、信親はわずか二十二歳でした。信親の死は元親を深く悲しませ、その後の長宗我部家にも大きな影を落とします。
本作では四国の情勢を史実から大きく変えています。それでも、元親、信親、存保、秀久の四人が再び一つの戦へ集まりつつある。その偶然を、未来を知る政重が「歴史が別の道から戻ってくるのではないか」と恐れる理由にしました。
■仙石秀久と「無」の旗
本話で秀久の先鋒を見た物見が告げた「無一文字」。仙石家には、「無」の文字を意匠とした旗印が伝わっています。
豊岡市立歴史博物館には、仙石家ゆかりの資料として「丸に無文字紋旗印」のほか、秀久の肖像画や鞍などが所蔵されています。もっとも、現存する無文字の旗印は江戸時代の資料であり、天正十三年の四国征伐で秀久が実際に同じ旗を掲げていた、とまでは断定できません。
本作では、仙石勢を遠目から識別する印として、この仙石家伝来の「無」を採用し、「無一文字」と表現しています。




