第三話 折れぬ刃
山崩しから五日が過ぎた。
大坂峠では、その間も戦が続いていた。
二日目、羽柴方は崩れた道へ人足を入れた。
三日目には物見が山腹へ入り、新しく掘り返された土を槍で突いた。
四日目には大楯が前へ出た。その陰で石が除かれ、ぬかるんだ道へ木が敷かれた。
一度見せた手には、もう容易に掛からない。
それでも羽柴勢は山を疑った。
何もない斜面まで調べ、道端の土を確かめ、木立に兵を入れる。そのたびに列が止まった。
五日目の朝。
夜露に濡れた土塁の上で、信親は坂下を見ていた。
火薬と汗の臭いがまだ残っている。近くでは腕を吊った兵が、仲間に肩を借りて峠を下っていた。
「よく五日も使ってくれたものだ」
「昨日よりは早うございます」
政重が答えた。
道は目に見えて広がっていた。
昨日なら立ち止まった場所を、今日は楯を押し立てたまま進んでくる。
羽柴方も、こちらの戦い方を覚えている。
信親の右の眉がわずかに上がった。
「今日までだったな」
「はい」
迷いのない返事だった。
傷兵はすでに下げた。
余分な兵糧も鉄砲玉も、昨夜までに引田へ送ってある。柵も組ませ、兵の置き場まで決めてあった。
大坂峠の次に引田で受ける。
それは、羽柴の軍船が四国へ向かうより前から決めていたことだった。
天正十一年。
長宗我部勢は引田で羽柴勢を退けている。
道を知る者もいる。田の深さを覚えている者もいる。勝った時の声まで覚えている者もいた。
だからこそ、政重はその記憶を当てにはしていなかった。
信親が坂下を見たまま言った。
「最後に鳴らすか」
「その方がよろしいでしょう」
昼過ぎ、羽柴勢が動いた。
大楯が上がる。
人足が散り、その後ろから鉄砲足軽が進み出る。
五日間で何度も見た光景だった。
だが今日が最後になる。
信親が片手を上げた。
「撃て」
火縄が落ちた。
轟音が谷を殴った。
本物の大筒が大きく後ろへ跳ねる。砲弾は坂下へ落ち、土と石を噴き上げた。
馬がいななき、楯の列が揺れる。
少し遅れて、八つ並んだ砲座のうち二つから白煙が上がった。
木砲の陰に伏せていた鉄砲組が、数挺をまとめて火を放つ。
残る五門は黙ったままだった。
それでよい。
八門すべてが毎度火を噴けば、弾の飛ばぬことを数えられる。
二つだけなら、装填が遅れているのか、撃つ時を待っているのか、坂下からは分からない。
羽柴兵が伏せた。
大楯も止まった。
信親が目を細めた。
「まだ使えるな」
「いえ、これまででしょう」
政重は白煙の向こうを見た。
「次は数えられます」
信親は一瞬黙り、やがて笑った。
「欲張るな、ということか」
「はい」
日が落ちても、八つの黒い砲口は坂下へ向いたままだった。
羽柴方は動かなかった。
夜半。
一門の青銅砲に縄が掛けられた。
残る七門は板を外され、黒い筒から木へ戻っていく。
五日間いた兵たちは、土塁を振り返りながら山を下った。
笑う者はいなかった。
勝ったつもりもなかった。
ただ、やるべきことはやった。
篝火と旗だけが、誰もいなくなった陣に残った。
稼いだ時は五日。
羽柴勢は進み、長宗我部勢は退いた。
そう見えるように、ここまでは運んでいた。
◆
西讃でも、羽柴勢は前へ進んでいた。
大将は尾藤知宣。
秀吉に古くから仕え、先の紀州攻めにも従った歴戦の将である。
その前に、天霧山を背負って九曜巴の旗が並んでいた。
香川親和。
元親の次男として生まれ、西讃の有力国衆・香川家へ養子に入り、その家督を継いだ若武者である。
生まれは長宗我部でも、今ここで守るのは香川の土地だった。
「来たな、叔父貴」
親和が馬上で笑った。
その声ほど顔は軽くない。
田の向こうに増えていく敵旗を数えながら、手綱を握る指に力が入っていた。
少し後ろで、香宗我部親泰が閉じた扇を膝に置いている。
「思ったより多い」
「分けても、あれだけおりますか」
親泰は淡々と答えた。
羽柴方が兵を分け、西へ回すことは織り込み済みだった。
だから二人は、敵の姿が見えるより前からここにいる。
親和が九曜巴を振り返った。
「先は俺が出る」
「お任せいたす」
「どこまで譲る」
親泰は扇を上げた。
「あの田まで」
「その次は」
扇の先が一つ西へずれた。
「もう一つ」
親和の目が細くなる。
街道はその先で緩く曲がり、敵の本隊から前が見えにくくなる。
「そこでか」
「そこで返してくだされ」
親和は親泰を見た。
次いで、曲がった街道、その向こうの低い丘を見た。
何が置かれているかは聞かなかった。
口元がゆっくり上がる。
「では、少しばかり西讃を譲った顔をしてやろう」
「お願いいたす」
親和が馬首を返しかけて、ふと止めた。
「叔父貴」
「何でしょう」
「仕留め損なうなよ」
親泰の閉じた扇が、膝を一度だけ叩いた。
「そちらこそ、気前よく譲り過ぎぬよう」
「誰に言っている」
親和が笑い、馬を走らせた。
九曜巴が動く。
その後を香川勢が追った。
親泰は見送ったまま動かなかった。
敵の先鋒が見える。
その後ろに本隊。さらに荷駄が続く。
まだ長い。
親泰の扇は、閉じたままだった。
◆
「長宗我部勢、大坂峠を退きました」
仙石秀久は具足の緒を締めながら聞いていた。
背丈は並より少し高い。
長い戦場暮らしで余分な肉の落ちた身体に、使い込んだ具足が馴染んでいる。
鼻筋から片頬へ走る古傷だけが、篝火の光を拾った。
「大筒は」
「今日も撃ちました。一発は確かに飛んでおります。ほかに二つ、火を噴いたと」
「そうか」
秀久は緒を引き切った。
八門の大筒があるかどうか。
今はそれで兵を賭ける気はなかった。
撃てる筒があるなら、わざわざ狭い峠へ頭を突っ込む必要はない。
「退いた先は」
「引田にございます」
手が止まった。
「……引田か」
口に出した途端、二年前の土の色まで戻ってきた。
あの時、秀久は二千ほどを率いていた。
兵を分け、山に伏せた。
攻めてきた長宗我部勢を叩き、最初はこちらが押した。
いける。
そう思った。
しかし、元親の本隊が来た。
増える旗。
押し返される先手。
怒号の中で届いた身内の討死。
勝ちかけた戦が、掌からこぼれるように崩れていった。
最後に見たのは、引田の浜だった。
秀久はゆっくり息を吐いた。
胸の奥に残っていたものが、二年ぶりに熱を持つ。
「向こうも覚えておろうな」
「何を、でございますか」
「あそこで勝ったことよ」
片頬だけが上がった。
古傷が歪んだ。
家臣が少し迷ってから口を開く。
「罠やもしれませぬ」
「そうだろうな」
秀久はあっさり答えた。
「ならば、別の道を」
「いや、このまま行く」
家臣が黙った。
秀久は壁に立て掛けてあった槍を取った。
罠だから行くのではない。
罠だから逃げるのでもない。
向こうが勝った場所を選び、こちらを待っている。
ならば、その上で勝つ。
そうしなければ、二年前の負けはいつまでも背中についてくる。
「前は、決め切れなんだ」
秀久の手が槍の柄を握る。
「今度は違う」
「先手を出しますか」
「俺が出る」
「権兵衛様まで出られずとも」
秀久は家臣を見た。
「お前なら、行けと言う男が後ろで見ておる方が気が楽か」
「……いえ」
「ここにおる兵は三百――いや、わしを足して、三百一人よ」
槍を肩へ担ぐ。
自分も行く。だから兵にも行けと言える。
秀久にとって、それは理屈ではなかった。
戦場で何度もそうしてきた。
そして、その覚悟が兵を奮い立たせることも知っていた。
陣幕を押し上げる。
外では、仙石の旗の下に兵たちが集まり始めていた。
秀久が姿を見せると、低かったざわめきが止まる。
二年前の敗北は消えない。
消す必要もない。
負けたなら、次で取り返す。
「皆の衆、何の因果かまた引田じゃ」
声を張ると、兵たちの顔が上がった。
「一度はくれてやった。二度目はないぞ!」
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【史実解説】
■仙石秀久と引田合戦
天正十一年(1583)、仙石秀久は二千余の兵を率いて讃岐へ入り、引田で長宗我部勢と戦っています。
後世の戸次川合戦の印象から、秀久には「猪突して大敗した武将」というイメージもありますが、引田では単純に一方的な敗戦だったわけではありません。
軍記類では、秀久は兵を分けて伏兵を置き、緒戦では長宗我部方を崩したとされます。しかし戦いが続くなかで長宗我部方の兵力が増し、仙石方は押し返されました。仙石権平らも討死し、秀久は引田から退いています。
■香川親和と西讃の香川氏
香川親和は長宗我部元親の次男で、西讃の有力国衆・香川氏へ養子に入った人物です。
香川氏は天霧城を本拠とし、長く西讃に勢力を持っていました。長宗我部氏の讃岐侵攻後、香川氏は元親の次男を後継者として迎え、長宗我部方に加わっています。
そのため本作でも、羽柴軍が西讃を通って伊予方面へ進もうとした際、長宗我部本家の兵だけで迎えるのではなく、香川親和と香川勢を前面に立たせています。




