第五話 四国の覇者
天正十二年十一月。
岡豊城の評定の間には、乾いた冬の風が入り込んでいた。庭の竹が鳴るたび、火鉢の灰が薄く揺れる。
元親の前には、土佐、阿波、讃岐、伊予の検地帳、軍役帳、蔵米帳が重ねられていた。その脇には、公用枡と煤けた割り札が置かれている。
上座に長宗我部元親。その左に香宗我部親泰と谷忠澄、向かいに長宗我部信親と政重が座っていた。
「四州の仕置を、一つにまとめました」
信親は帳の端を揃え、元親へ差し出した。
元親はすぐには開かなかった。
「それで、何人を動かせる」
「二十日で、四万三千にございます」
「五万は出せぬか」
「出せまする」
政重が答えた。
「されど、その五万には、父を失った家の倅も、刈り手が一人しかおらぬ家の主も入りまする。五万を出せば、来年の田が死にまする」
「四万三千ならば」
「兵を出した後にも、田と家を残せまする」
元親は阿波の検地帳を開いた。
田の広さと石高だけではない。耕す家、働ける者、負う軍役、幼い跡取りの年まで、同じ書式で記されている。
「検地とは、田を数えるものではなかったか」
「田から、何人まで離してよいかを知るためでもございます」
信親が答えた。
「誰を出せば家が潰れるか。誰を残せば秋の刈り入れができるか。そこまで見た上で、四万三千を採りました」
「兵糧は」
「城々の備えと種籾を残し、動かせる米が一万九千石」
政重が公用枡へ手を添えた。
「どの国の米だ」
「四国の米にございます」
信親が蔵米帳を開いた。
出す蔵、受ける蔵、戦の後に返す量まで、一つの書式で並んでいる。
「枡を揃えたことで、どの蔵の一石も同じ量となりました。余りを抱える家から、不足する国へ回せます。不作や戦損で返せぬ時は、返す年と量を改めまする」
元親は公用枡を持ち上げた。木肌には、何度も米を量った擦れ跡が残っている。
「浦戸から来島までは」
「一旬ごとに千二百石を継げます」
「船を増やしたか」
「いいえ」
信親は二片の割り札を合わせた。
「船が湊で遊ぶ日を減らしました。船が着く前に次の船と人足を揃え、誰が送り、誰が受け取ったかを割り札に残しまする」
「三方へ兵を分け、兵糧を絶やさず支えられるのは」
「六十日」
短い答えが、冷えた広間へ落ちた。
元親は検地帳、蔵米帳、割り札を順に見た。
「田から兵を抜き、蔵から米を出し、その米を戦場まで運ぶ。そこまでを一つの仕置にしたか」
「はい」
信親の声は静かだった。
「父上が槍で取られた四国を、初めて四国として動かせまする」
元親の口元が、わずかに緩んだ。
親泰が閉じた扇で膝を一度叩いた。
「ゆえに、次は敵が渡ってからの六十日を、何へ換えるかにございますな」
◆
場の向きが半歩変わった。
親泰は懐から三通の覚え書きを取り出し、届いた順ではなく、送り手ごとに並べた。
「織田信雄は秀吉と和しました。徳川も兵を退きましょう。秀吉を東へつなぎ止めるものは、ほどなく失われまする」
「すぐにも四国へ来るか」
「紀州には、なお雑賀と根来が残っております。まずはそちらへ向かうと見まする。されど、四国はまだ先と手を緩められる情勢ではございませぬ」
「徳川からは、淡路へ渡れと申してきておったな」
「はっ。要請に応じ、阿波の舟を鳴門へ集め、淡路を脅かすところまではいたしました」
親泰は、元親の前に置かれた割り札へ目をやった。
「されど、兵を渡すことと、渡した兵を養い続けることは別にございます。あの時は、まだこの仕置がございませんでした」
「どれほど縛れた」
「淡路から兵を引き払わせぬ程度には。されど、戦の行方を変えるほどではございませぬ」
「秀吉が西へ向いた後、徳川は再び尾張へ出る余地があるか」
「当てにはなりませぬ。ただ、秀吉にも当てにできぬと思わせる役には立ちまする」
「大坂は」
「この半年、商人と僧を通じて三度、腹を探らせました。一度目は四国を差し出せ。二度目は土佐へ退けば家を残す。三度目には、阿波の一部なら談じようと申す取次もおりました」
「秀吉の言葉か」
「一通も秀吉の言葉ではございませぬ」
「では、何の役に立つ」
「三人の取次が何を欲しておるかは分かりまする。一人は戦功を欲し、一人は和を望み、残る一人は讃岐の主まで決めております」
「秀吉の腹は見えぬか」
「まだ。されど、その周りの者の腹は、随分と空いておりまする」
親泰の口元だけが笑った。
元親の視線が忠澄へ移った。
「毛利は」
忠澄は袖から小石を三つ取り出し、畳へ置いた。
「我らのために、秀吉との和を破ることはありますまい。されど、伊予攻めの先鋒を喜んで引き受けるかは別にございます」
「何を伝えた」
「河野と金子を攻めれば、一月では済まぬと。毛利が恐れるのは敗れることではなく、秀吉のために兵を減らすことにございます」
「中立にできるか」
「できませぬ。ただし、敵になることと、真っ先に刃を向けることは同じではございませぬ」
忠澄は三つの石を順に示した。
「我らが得る一月。毛利が失う兵。そして、河野と金子を見捨てた時、こちらへ返る恨みにございます」
火鉢の炭が小さく割れた。
「中立にはできませぬ。されど、一月ほど迷わせる余地はございまする」
「敵が渡ってより六十日。毛利を一月迷わせられれば、三方同時にはならぬ」
元親が言うと、親泰が続けた。
「伊予が動かぬ一月があれば、大坂とも使者を重ねられます。秀吉が何国を欲し、誰へ与えるつもりかも、さらに探れましょう」
「そして、戦が始まるまでに」
政重は割り札へ目を落とした。
「戦う順だけでなく、退く順も定めておきまする」
元親は返事をせず、脇の文箱を開いた。
「そなたらが兵と米を数えておる間、わしも数えていた」
最初の一通を阿波の帳へ置く。
「日和佐」
次に二通を讃岐へ。
「香川。十河」
さらに二通を伊予へ。
「金子。河野」
いずれも、阿波、讃岐、伊予の主立った領主が、神仏に誓って元親と交わした起請文だった。
「古い誓いを眺めておっただけではない」
元親は金子の起請文へ手を置いた。
「秋に使者を送り、秀吉が来てもなお立つかと改めて問うた。いずれの家も、立つと答えた」
「元親様は、何を返されたのです」
信親が問うた。
「勝っても、その地を長宗我部の直領にはせぬ、と」
元親は五通を見渡した。
「この四万三千は、帳だけで集まるのではない。家を賭け、妻子を賭け、誓いを違えぬために集まる」
「起請は、人を立たせます」
忠澄が静かに言った。
「されど、死ぬ場所まで定めるものではございませぬ」
元親の目が忠澄から政重へ移った。
「退けぬ者に、わしが退けと命じよと申すか」
「はい。城を捨てても、人と家を退かせる手順を、戦の前に整えまする」
「領地を捨てて生きよと命じられた者の恥まで、帳へ書けるか」
政重は膝の上で拳を握った。
前の世の自分も、退くことを知らず、雨の夜に斃れた。死んだ東洋はそこで終わったが、残された者たちは、その後を生きねばならなかった。
損耗も退路も数えられる。だが、城を捨てて生き残った者が、己を何と呼ぶかまでは数えられない。
「書けませぬ。されど、書けぬものを理由に、死なせてよいとは思いませぬ」
庭を渡る風が、起請文の端を持ち上げた。
「元親様」
政重は両手をつき、元親をまっすぐに見据えた。
二年前に預けられた算用は、ついに元親自身を量るところまで来ていた。
「長宗我部家と、元親様を信じた者どもを残すため――」
評定の間には、庭の竹を鳴らす風だけが響いた。
「――四国を一度手放す御覚悟はございますか」
信親も親泰も、忠澄も動かなかった。
元親は起請文を一枚ずつ押さえた。
「政重」
「はっ」
「四国は、いつからわし一人のものになった」
政重は答えられなかった。
「日和佐も、金子も、己の地をわしへ差し出したのではない。背を預けたのだ」
元親は起請文を、それぞれの国の帳へ置き直した。
「香川も、十河も、河野も、家と土地を持ったまま、わしと誓いを交わした」
「覚悟ならある」
五通の起請文は、三国の帳の上に分かれて置かれていた。
「長宗我部が四国の主であるという、その形を手放す覚悟ならな」
元親は顔を上げた。
その目には、なお四国の覇者たる光が宿っていた。
「だが、秀吉にくれてやるつもりはない」
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【史実解説】
■小牧・長久手の戦い
天正十二年(一五八四)、羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康の連合軍との間で起きた戦いです。
長久手などの戦場では家康方が勝利しましたが、秀吉の大軍を崩すまでには至らず、両軍の対峙は長期化しました。やがて秀吉が信雄への工作を進め、同年十一月に和議が成立します。家康は戦では勝ちながら、政治的には秀吉の優位を覆せませんでした。
信雄・家康方は、長宗我部元親や佐々成政、紀州の雑賀・根来衆などとも連携し、各地から秀吉を牽制しようとしていました。史実の元親も、淡路や播磨方面への渡海を求められていましたが、当時は阿波・讃岐・伊予での戦いを終えておらず、大規模な軍事行動には移れませんでした。
本作では、元親が天正十二年三月までに四国を平定し、史実では秀吉方に属した十河家や来島衆も長宗我部方に加わっています。そのため、小牧・長久手の戦いでは、阿波の舟を鳴門へ集め、淡路方面への渡海をうかがわせるなど、史実より強く秀吉の西方を牽制したものとしています。
ただし、この時点では四州の兵糧と海運を一体として動かす仕組みがまだ整っておらず、兵を実際に渡海させ、長期間養うことはできませんでした。
■元親に従った在地領主たち 金子家・日和佐家・香川家
金子家は、伊予国新居郡、現在の愛媛県新居浜市周辺を基盤とした国衆です。金子元宅は新居郡の諸勢力を束ねる立場にあり、天正九年(1581)頃、長宗我部元親と軍事同盟を結びました。天正十三年の秀吉による四国攻めでは、元親との盟約を重んじ、伊予へ渡海した毛利・小早川軍と戦って滅亡します。
日和佐家は、阿波国南部の日和佐を治めた豪族です。日和佐肥前守は、長宗我部勢の侵入に備えて日和佐城を築いたと伝わります。その後の長宗我部家との詳しい関係には不明な点も多く、天正十三年、蜂須賀家政が阿波へ入国した際に日和佐城は廃城となったとされています。
香川家は、西讃岐を支配した有力国衆で、天霧城を本拠としていました。香川信景は長宗我部勢の讃岐侵攻を受け、天正九年(1581)、元親の次男・親和を養子に迎れることを条件に和議を結びます。以後は長宗我部家の傘下に入り、讃岐の諸勢力を服属させる役割を担いました。秀吉の四国攻め後、香川家は天霧城を離れて土佐へ移り、讃岐の領主としての地位を失います。




