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岡豊宰相 ~幕末の改革者、戦国に還る~  作者: 曽我部穂岐
第四章 四州の帳面

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第三話 才を量る枡

 信親の命を受け、四州の城々から二十余人の男が岡豊へ集められた。


 阿波の蔵役、伊予の郷士、讃岐で年貢勘定をしていた者。土佐の山間で庄屋と役人の間を取り持っていた者もいる。


 年も身分も揃わない。持参した書付にあるのは、名と出自、これまで任された役目だけである。

 だが、郡を任された奉行も、城主の側近もいなかった。


 政重が座敷へ入ると、視線が一斉に集まった。

 中富川で傷を負い、十河存保を捕らえ、来島衆を引き入れた若武者。その名は四州へ知れている。


 それでも、仕置を学ぶ相手としては若すぎた。


「本日より、公用枡と帳の扱いを覚えてもらう」


 男たちは頭を下げた。礼は整っている。だが、納得はしていない。


 やがて年嵩の蔵役が手をついた。


「恐れながら、枡も帳も土地ごとに仕来りがございます。阿波と伊予では米の出来も、蔵の扱いも異なりましょう。それを一つに揃えるは、かえって実情を損ないませぬか」


 何人かが小さく頷いた。


「米の良し悪しは帳へ記せばよい。量る一升まで違えてよい理由にはならぬ」


「されど、土地を治むるには、その地の習いに従うべきかと」


 蔵役は『礼記』の一句を引いた。

 口調は丁重だが、若い政重がどこまで書を知るか、試している。


 政重は書へ手を触れなかった。

 引かれた一句の前後をそらんじ、その言葉は土地ごとに物差しを違えよと説くものではなく、民情を顧みよと戒めるものだと返した。


 隣の男が『論語』から別の句を挙げる。


 政重は続く文まで答え、その意味を年貢の仕置へ置き換えて説いた。『孟子』『大学』『中庸』へ移っても言葉は淀まない。五経の句を問われれば、出典と前後を返した。


 最後に問うた男は、確かめるように書を開き、しばらくして黙って閉じた。


 先ほどまで政重の顔を見ていた者たちが、今は膝を正している。


 前世で吉田東洋が自邸に開いた少林塾には、家格も年齢も異なる若者が集った。四書五経を講じながら、同じ問いを投げ、答えだけでなく、何を見落としたかを量った。


 学問は、人を黙らせるための飾りではない。


「民は信なくんば立たず」


 政重は『論語』の一句を置いた。


「枡が村ごと、蔵ごとに違えば、年貢そのものが疑われる。百姓は隠し、役人は疑われ、領主は己の蔵に幾らあるかも分からぬ。それを土地の習いと申すか」


 座敷に沈黙が落ちた。

 政重は二つの枡を膝前へ並べた。形も大きさも、見ただけではほとんど変わらない。


「どちらが大きい」


 右だ、いや左だと声が割れた。


 政重は一方へ米を満たし、もう一方へ移した。

 さらさらと乾いた音がして、縁から米がこぼれ落ちる。


 座の端の男が腰を浮かせた。別の者は畳へ散った米粒を目で追っている。


「どちらも一升枡として使われておる。一方で村から取り、一方で蔵へ納めれば、この差はどこへ行く」


「蔵役が抜いたと疑われまする」

「運び手かもしれませぬ」

「百姓が少なく納めたとも」


「そうだ。枡が違えば、誰の過ちかも、過ちがあったかさえ分からぬ」


 政重は二冊の帳を開いた。

 一冊には、村から米千俵を受け取ったとある。もう一冊には、蔵へ九百五十俵を納めたとあった。


「五十俵はどこへ消えた」


「運ぶ間の目減りかと」

「鼠害かもしれぬ」

「湿りで腐ることもあろう」


「では、何俵が目減りし、何俵を鼠が食い、何俵を捨てた」


 返事が止んだ。


「記しておらぬゆえ、誰にも分からぬ。不足を百姓へ負わせれば、今年の蔵は埋まる。だが、田を捨てられれば、来年から取る米そのものが減る」


 年嵩の蔵役が二冊の帳を見つめた。

「百姓に利があることは分かり申した。されど、帳を揃えるために人を増やせば、領主の費えも増えまする」


 政重は座を見渡した。

「誰か答えられる者は」


 やがて、一人の若者が手をついた。


 日に焼けた顔。肩は厚く、畳についた手は節くれ立っている。蔵の中だけで生きてきた者ではない。


「名と、参った地を申せ」

「幡多の中村より参りました、立石たていし助兵衛すけべえにございます」


 政重の指が、帳の上で止まった。


 のちに立石たていし正賀まさよしを名乗り、戦場を駆け、長宗我部家の盛衰を『長元記』へ書き残す男。東洋が幾度も古書の中で目にした名が、まだ何も書き残していない若武者として、目の前にいた。


「立石助兵衛か」

「は」


 名を繰り返された理由が分からず、助兵衛が眉を寄せる。


 政重は二冊の帳を指した。


「申してみよ」

「村と蔵の帳を同じ形に揃えるだけでは、足りぬのではございませぬか」


「なぜだ」

「二冊の数が合っていても、正しいとは限りませぬ。渡す者と受ける者が示し合わせれば、同じ偽りを両方へ書けまする」


 座敷に小さなどよめきが広がった。


「ならば帳を三冊に増やすか」


 助兵衛は首を横に振った。

「冊数を増やしても、書く者が同じなら変わりませぬ」


「では何を変える」

「改める者を変えます。渡す側、受ける側、それにどちらにも属さぬ者を一人」


「三人が示し合わせれば」


 助兵衛は口を閉じ、二つの枡へ目を移した。


「……改める日を知らせぬようにいたしまする」


「常に見張りを置くのか」

「それでは費えが増えます。時を定めずに改め、偽りが見つかれば前の帳まで遡ると決めておけば、常に見張らずとも抑えになりまする」


 年嵩の蔵役が、わずかに息を吐いた。


「それで領主に何の利がある」

「蔵に本当は幾らあるのかが分かります」


 助兵衛は少し考えて続けた。荒田を自ら申し出て増えた実りは二年、領主の手元に残すことは聞いていたが、利の本質はそこではない。


「兵糧が何日持つかを誤らず、出せる兵も見定められまする。抜き取りと訳の分からぬ目減りが減れば、百姓から多く取らずとも、主の蔵へ残る米は増えます」


 男たちの目が二冊の帳へ戻った。


 民から取る量を増やさず、領主の米を増やす。

 二つの利が、ようやく一本につながった。


「よい」


 政重は頷いた。


「帳を揃えることが仕置ではない。揃えた帳から、誰も見ていなかった穴を見つける。それが仕置だ」


 政重は新たな書付を広げた。


「そなたらには一年、信親様預かりとして各地の蔵を改めてもらう。競うのは取り立てた米の多さではない。帳と実物の差、不明な損耗、民を逃がさず蔵へ残した米だ」


「功は、いかに量られまする」

「働きに応じて役料を出す。抜きんでた者は、引き続き信親様の仕置役として用いる」


 ざわめきが広がった。

 役料と聞いて目を上げる者がいた。信親預かりの言葉に顔をこわばらせる者もいる。


「ただし、取り立てを増やして蔵を満たした者は功とはせぬ。未進と逃散を増やした者は、むしろ咎める」


 先ほどまで政重の若さを量っていた男たちが、今は互いの顔を見ていた。


 その目には、競う者の熱があった。



 ◆


 男たちが退出した後、信親が座敷へ入った。


 畳には、まだ数粒の米が残っている。

 信親は二つの枡を手に取り、重ねてみた。


「皆、得心したか」


「理だけでは動きませぬ」

 政重は二冊の帳を閉じた。


「領主には蔵が増える。仕置役には役料と働き口が増える。民には過ぎた取り立てが減る。己にも利があると分かって、初めて人は動きまする」


 信親は手の中の枡を見下ろした。米を量る道具一つで、蔵だけでなく、人の働きまで変えようとしている。


「使える者を寄越せと申せば、誰も手放しませぬ。各城が寄越したのは、使えぬ者ではございませぬ。領主がその使い道を見いだせなかった者にございます」


 信親は、助兵衛が座っていた場所へ目をやった。


「役に立つと分かれば、返せと申すぞ」

「その時には、お断りください」


「何と申して断る」


 政重は平然と答えた。

「惜しまれる者にしたのは、信親様にございます、と」


 信親は一瞬、目を見開いた。

 やがて、手の中の二つの枡を見下ろし、低く笑った。


 米を量るために揃えた枡は、いつしか、人の才まで量り始めていた。



お読みいただき、ありがとうございました。

創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いいたします。


【史実解説】

■少林塾

少林塾は、吉田東洋が謹慎中に高知城下近郊の長浜で開いた私塾です。鶴田塾とも呼ばれ、南学を中心に学問を講じ、後藤象二郎、福岡孝弟、岩崎弥太郎ら、後の土佐藩政や明治期に活躍する人材を育てました。東洋は参政へ復帰した後、門下の若者たちを実際の藩政にも登用しています。


■文武の実務家・立石正賀

立石正賀は、通称を助兵衛といい、土佐国幡多郡の立石氏の出身とされます。立石氏はもと土佐一条氏に属した一族で、一条氏の衰退後、正賀は長宗我部元親に仕えました。伊予攻略では久武氏らに従って各地を転戦し、南予方面で戦功を挙げた武士と伝わっています。


長宗我部家の改易後は肥後の細川家に仕え、千五百石を与えられたとの伝承もあります。主家を失った後も他国で武士として生き延びた人物でした。


晩年の万治二年(1659)、正賀は長宗我部氏の興亡を『長元物語』にまとめました。『長元記』とも呼ばれるこの書は、物語調よりも覚書に近い箇条書きの形式で、元親の事績や四国攻略を記しています。年月の取り違えなどもあるため、そのまま史実とはできませんが、正賀自身が戦った南予方面の記事は、比較的信頼できる記録と評価されています。

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