第四話 水塞落とし
得居通幸が海へ落とした木片は、船縁に沿ってゆっくり流れ、やがて同じ場所で揺れ始めた。
「潮が止まる。出すぞ」
声が船から船へ渡った。
三百の兵が身を固くした。船板へ伝わる息遣いが変わる。畑山兵部は政重の胴の緒を確かめ、大袖を外した左肩を一度叩いた。
「島へ上がるのは、通幸殿の手勢を合わせて百まで。残る二百は海を塞ぎます。若殿は、決して船から落ちられませぬよう」
「落ちれば、兵部が引き上げてくれよう」
「某まで海へ引かれまする」
遠い海上には、六つの篝火が連なっている。中島へ向かう陽動の小舟だった。こちらの船は灯を消し、帆も半ば畳んでいる。
篝火は西へ流れ、来島から離れていく。能島の警固船が追ったかは分からない。
船頭が櫂を水へ入れるたび、島影が近づいた。
政重には、黒く連なる影のどこまでが島で、どこからが岩礁なのか分からない。通幸の水主たちは声を交わさず、その間へ船を滑らせていく。
波の音はどれも同じに聞こえる。だが水主は、波が岩のどちら側で砕けたかを聞き分けて櫂を動かし、一度も舷を擦らなかった。
「通幸殿」
呼びかけてから、政重は口を閉じた。どの瀬を通るのかと尋ねても、今の自分に判断できることはない。
「申せ。島へ着けば、問う暇はなくなる」
「某の兵を動かす合図だけ、もう一度お聞かせを」
「東の岩場で灯を一度見せる。それまでは、何があろうと動くな」
「承知いたした」
先頭の小舟が船団を離れた。通幸の手勢二十人を乗せ、島の東へ吸い込まれていく。
来島の東岸には、岩を削った階段がある。その上から内通者が縄を垂らす手筈だった。階段を上がれば城主館と出丸、その背後の坂は三の丸へ通じている。そこから二の丸、本丸まで、曲輪は細い尾根の上を北へ連なっていた。
しばらくして、岩壁に一本の縄が見えた。
約束は果たされている。
先頭の男が縄をつかみ、波に濡れた岩段へ足を掛けた。一人、二人と登っていく。具足の擦れる音が、波音の間に消えた。
十人ほどが闇へ消えた時、島の上で声がした。
「誰じゃ」
刀の触れ合う音が続いた。
直後、警めの鉦が一度鳴った。
夜の海に、音が思いのほか遠く広がった。対岸まで届いたのではないかと、政重には思えた。
船内で兵が立ち上がりかける。兵部の手も槍へ伸びた。
「若殿、兵を出しまするか」
灯はまだ見えない。
「待て。海の上では、通幸殿の指図に従う」
二度目の鉦は鳴らなかった。岩段の上で短い斬り合いが続き、やがて人声も消えた。
しばしの静寂の後、東岸で覆いを掛けた灯が一度だけ開いた。
「行くぞ」
政重は小舟へ移った。
岩場には、内通した老水主がうずくまっていた。縄を握った両手の皮が破れ、血がにじんでいる。
「夜番が、一人増えておりました」
「女房は」
「館の下におります。内通のことは、まだ知られておりませぬ」
通幸は一度だけ頷いた。
「わしは先に三の丸へ回る。政重、そなたは東の階段を開け、後続を上げよ。合わせて百までじゃ」
「承知」
通幸の手勢は上の道へ消え、政重は兵部たちを率いて岩段を登った。
鉦を聞いた城兵は、引き上げてあった小早を階段の上へ横倒しにし、杭と丸太で動かぬよう固めていた。その向こうでは、対岸へ出す舟の綱を解こうとしている。
「舟を出させるな。首は要らぬ、道を開け!」
土佐兵が岩段へ押し寄せた。
「まことに、通幸様がお戻りなのか」
小早の向こうから声がした。
「惑うな、曲者ぞ!」
別の男が怒鳴り、舷の隙間から槍が突き出された。先頭の兵が肩を押さえて倒れる。階段は二人並ぶのがやっとで、後ろの者がつかえた。
政重は倒れた兵を越え、先頭へ出た。
「若殿、前へ出られてはなりませぬ!」
兵部の声と同時に、二本の槍が来た。
一本を槍の柄で払う。もう一本を避けようと身を引いたが、背後には味方がいる。退き切れなかった穂先が左の上腕の外側を走り、肉を裂いた。
熱が走り、遅れて小袖の内側へ血が広がった。
政重は槍の柄を右手でつかんだ。敵が引き戻すより早く踏み込み、右の脇へ挟む。そのまま腰をひねると、小早の向こうの男が槍ごと引き寄せられ、舷へ胸を打ちつけた。
兵部の槍が、その男の肩を打つ。
「斬るな。退かせよ!」
政重は奪った槍を捨て、小早の舳先へ右肩を入れた。海から引き上げられた船は水を含み、岩段の間へ重く食い込んでいる。
「杭を抜け。船を脇へ落とすぞ!」
兵部と三人の兵が丸太を外す。政重は血の流れる左腕を胸へ寄せ、右肩と腰で舳先を持ち上げた。
船板が軋んだ。
もう一度、全身へ力を込める。舳先が岩から浮いた。兵部たちが船尾を押すと、小早は横を向き、片舷から岩棚へ滑り落ちた。
道が開いた。
土佐兵が階段を駆け上がる。城兵は舟を捨て、館の方へ退いた。政重が灯を二度振ると、待っていた小舟が東岸へ一艘ずつ入ってきた。
後続が上がり、島内の兵は百となった。残る二百のうち五十は船上に控え、百五十は島の周囲へ散る。対岸から来る舟を防ぐためだった。
兵部が政重の腕へ布を巻いた。
「若殿、ここからは後ろへ下がっていただきます」
「上陸路は開いた」
「さようにございます」
「ならば、次は館と三の丸への登り口じゃ」
兵部は眉をしかめたが、言い返す前に海から喊声が上がった。対岸にも小さな火が上がり、こちらへ出ようとする舟を封鎖の船が押し返している。
「急げ。海が保つうちに館を取れ!」
上陸兵が城主館と出丸へ分かれた。
館の前には、城兵だけでなく女や子供も集まっていた。弓を持った兵の後ろで、逃げ場を失った島民が身を寄せ合っている。
「射るな! 楯を前へ。人を館から出せ」
戸板や舟楯を持った兵が進む。矢が二本、三本と突き立った。左腕を胸へ縛った政重も、右手に槍を持って楯の後ろを進んだ。
城兵の一人が脇から斬り込んでくる。政重は槍を短く持ち、右手だけで刀を外へ払った。力を込めるたび、左腕の奥が脈打つ。
兵部たちが館の左右へ回り込むと、弓を持った兵は三の丸への坂へ退いた。土佐兵は追わず、まず島民を楯の後ろへ通した。
老水主が人の間をかき分けて走り、病んだ妻の前へ膝をついた。声を掛ける代わりに、その肩へ血のにじむ両手を置いた。
館と出丸を奪われ、舟も押さえられると、三の丸の城兵は行き場を失った。二の丸へ退れば、家族を置き去りにすることになる。
通幸が血のついた刀を下げ、三の丸への坂に立った。槍を向ける者たちの顔を一人ずつ見渡す。
「わしの顔を忘れたか。来島の者に、来島を返すだけじゃ。武器を置く者は斬らぬ。家族を連れて下りよ」
守将は返事をしなかった。
だが、その後ろで先ほどの声がした。
「通幸様じゃ」
一人の兵が槍を置いた。続いて二人、三人と、武器が地へ触れる。
守将だけが刀を抜いて駆け下りた。通幸の郎党が左右から組みつき、地へ押さえ込む。
「殺せ!」
土佐兵の一人が刀を振り上げる。
政重は右手でその手首をつかんだ。身をひねった拍子に左腕の傷が開き、巻いた布へ新しい血が浮く。
「降った者を斬るな。この城は奪うのではない。返すのじゃ」
刀が下ろされた。
◆
三の丸で武器が置かれると、二の丸、本丸でも抗う者はいなくなった。夜明け前には斬り合いの音が止んだ。
兵部が血に濡れた政重の袖を見た。
「勝っても、名乗れぬ戦にございますな」
「名を取らず、海を取る戦じゃ」
空が白み始める前に、本丸から古い旗が上がった。
潮と雨に色を削られながら、折敷に三文字の紋だけは残っている。
「これで、通総を呼び戻せる。――借りはいずれ返す」
通幸はそれだけ言った。
旗が開いたのを見届けた途端、政重の左腕に痛みが戻った。膝が石へ触れる。倒れる前に、兵部が右肩をつかんだ。
「見栄をお捨てくだされと、申し上げたはずですぞ」
「まだ、捨て切れておらぬらしい」
この夜、土佐兵が島にいた証は、のちに政重の全身へ二十を数える傷の一つとして、左腕に刻まれた。
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【史実解説】
■潮が守る海上要塞・来島城
来島城は、現在の愛媛県今治市、波止浜湾の入口に浮かぶ来島に築かれた海城です。周囲約八百五十メートルの小島全体が城として利用され、来島村上氏の本拠となっていました。
島の高所には本丸・二の丸・三の丸が南北に連なり、城主館跡や石垣、古井戸なども残っています。また、周囲の岩礁には船を係留する施設の柱穴が多数あり、東岸には岩を削った階段も確認されています。複雑で速い来島海峡の潮流そのものが、堀や城壁の役割を果たしていました。
天正十年(1582)、来島通総が織田・羽柴方へ転じると、来島城は河野・毛利方の攻撃を受けました。翌天正十一年の文書には「来島落城」と記されていますが、詳しい経緯や攻城方法は分かっていません。
本作における、通幸の内応工作と長宗我部勢による夜襲は創作です。ただし、岩礁や潮流を熟知した来島衆の案内がなければ攻略困難な城であったことは、現存する遺構からもうかがえます。




