第三話 潮待ち
天正十一年七月下旬。
来島通総からの返書は、政重が岡豊城へ戻ってから半月後に届いた。
折り目の深い紙を、谷忠澄が燭台の前で開く。書かれていたのは、わずか一行だった。
――兄上が旗を立てられたなら、来島へ帰り申す。
長宗我部の名も、秀吉の名もない。
政重は、その一行を二度読んだ。通幸が求めた答えとしては十分だった。だが、海と陸に隔てられた兄弟の間に置かれた言葉にしては、あまりに短い。
「使者が、口上も預かっております」
忠澄が言った。
「通総殿は羽柴殿との縁を切らぬ。されど、来島を羽柴殿のものにするつもりもない、と」
返書は幾人もの手を経て届き、最後に運んだ男さえ、送り主の名を知らなかったという。
「通総殿も、秀吉のもとで身を保っておられる方にございます」
忠澄の指が、名のない返書を押さえた。
「この一行は、帰るとの約束であると同時に、これ以上は紙へ書けぬという返事でもございましょう」
「両方を取るおつもりですか」
「両方を失わぬためでしょう」
忠澄は返書を畳んだ。
「あとは、我らが何を差し出すかにございます」
同じ包みには、通幸が描かせた来島城の絵図も入っていた。
その日の小座敷には、長宗我部元親と香宗我部親泰だけが待っていた。
政重が得居通幸との会談から順に話し終えても、元親は何も言わなかった。膝前に置かれた通総の返書へ目を落とし、指先で一度、畳を叩く。
「――それで、誰の兵を貸すと申した」
政重の背に、冷たいものが走った。
「元親様の御裁可をいただいた上で、長宗我部の兵をと――」
「裁可を得る前に、話を持ちかけたのであろう」
「策を申し上げたのは某にございます。御咎めは――」
「勝五郎殿だけの咎ではございませぬ」
忠澄が頭を下げた。
「通幸殿へお会いすることを認め、止めなかったのは私にございます」
元親の目が二人を往復した。やがて額へ手をやり、長く息を吐く。
「主の兵を、懐の銭のように扱う者が二人もおるか」
政重は額を畳へ近づけた。前世の東洋も、策を急ぐあまり、藩主へ相談する前に外堀を埋めたことがある。相手を動かすつもりで、自分の退路まで失くしていた。
「されど、まだ一兵も渡してはおりませぬ」
親泰が静かに口を挟んだ。
「通幸、通総の両名にその気がなければ、兄上へお諮りするにも値しなかったでしょう。順は違えど、持ち帰ったものはございます」
「そなたまで甘やかすか」
「いいえ。使える策なら、叱った後でお使いくださいと申しております」
元親の口元が、わずかに緩んだ。
「来島城を取れば、何が手に入る」
政重は顔を上げた。
「来島衆が、秀吉一人の力で旧領へ戻る道を塞げます。加えて、伊予へ兵を運ぶ舟と、この海を知る者が得られまする」
「城は」
「通総殿へ返します」
「兵を出して、城を取って、他人へくれてやるか」
「城を持つより、城の舟を動かせる方が、長宗我部には利がございます」
元親は親泰を見た。
「何人要る」
「貸す兵は二百五十が限度かと。讃岐に残した兵から選べば、動きも早うございます」
「数を増やせば、伊予へ攻め込む軍に見えます。通幸殿の手勢五十を合わせて三百。小島一つへの夜討ちなら、それで足りましょう」
「二百五十で足りるか、勝五郎」
問われた政重は、答えかけて口を閉じた。
来島の広さも、潮の速さも、どの岩場へ舟を着けられるかも知らない。知らぬものを、道理だけで埋めてはならなかった。
「某には決められませぬ。海と船の差配は、通幸殿へお任せすべきにございます」
「ならば、貸す兵は二百五十。通幸の手勢と合わせて三百じゃ。差配は通幸に任せる。城へ我が旗を立てることは許さぬ。城を取った後、兵はすべて退け」
「はっ」
「代わりに、我らが伊予へ兵を渡す時、得居の舟を一度借りる。通幸に承知させよ」
城を与えて、海の道を得る。
元親は、政重が示した策を、そのまま呑んだのではなかった。長宗我部の策へ作り替えたのだ。
「南は、久武に動かさせる」
親泰が伊予の絵図を広げた。宇和郡から喜多郡へ、指を北へ滑らせる。
「南予の久武親直へ命じ、手勢千五百を喜多郡境まで進めさせます。河野方は、次に大洲へ出ると見るでしょう」
「南へ目を向けさせても、能島の舟は動きませぬ」
政重が言うと、親泰は絵図の海へ指を移した。
「通幸殿も同じことを考えておられる。小舟を六艘、中島へ向かわせるそうだ。篝火を多く焚き、鹿島の兵が動いたように見せる。能島の警固船が追えば、来島への道が一時だけ空く」
「通幸殿の見立てでは、城兵は百を越えるほど。河野と能島、因島の者が入り交じっております。対岸の番所にも百ほど。篝火を上げられれば、能島から援船が来る」
「どれほどで来る」
「潮がよければ、夜のうちに」
来島城だけを見れば、島内へ上げる百で攻められる。だが城へ取りつく前に見つかれば、来島海峡そのものが堀となり、能島の舟が背後を塞ぐ。
「城を落とす戦ではないな」
元親が言った。
「敵の目が戻るまでに、城を奪う戦じゃ」
通幸の粗い絵図には、島の東岸から本丸まで、細い墨線が引かれていた。
東岸の岩を削った階段から、城主館と出丸へ入る。その背後に三の丸、二の丸、本丸が南から北へ連なっている。
最初に通幸の手勢二十人が縄を伝って上り、岩階段の上を押さえる。政重は三十人を率いて続き、階段を塞ぐ柵を破る。後続を合わせ、島内へ上げるのは百まで。残る二百のうち五十を船上に控えさせ、百五十で島の周囲を塞ぐ。
「館も押さえるのでございますか」
政重が問うと、親泰は絵図の南東を叩いた。
「館には、城兵の家族もおろう。舟と館を先に押さえれば、三の丸の兵は家族を置いて本丸へ退けぬ。斬る人数も減らせる」
城を取るためだけではない。取った後、来島の者へ返すための攻め方だった。
「道が空かなければ」
元親の問いに、忠澄が答えた。
「その夜のうちに退きます。城へ取りついて朝を迎えれば、毛利と能島の舟に囲まれまする」
勝つ条件より、退く条件を先に決める。政重には、それが臆病ではなく、兵を預かる者の務めなのだと、ようやく分かり始めていた。
来島城内には、通幸へ心を残す老水主が一人いた。妻が病み、城を退くことができなかった男だという。夜番の替わる頃、東岸の岩階段へ縄を一本垂らす。
ただし、できるのはそこまでだった。
「縄が下りなければ、内通者は露見したものと思え」
元親はそう命じた。
「助けようとして攻め急ぐな。貸した兵を一人残らず連れて戻れ」
政重は頭を下げた。
「兵の差配は通幸に従え。土佐の兵は、そなたがまとめよ」
「承知いたしました」
「策を立てた者には、最後まで見届けてもらうぞ」
◆
七日後、政重は東予の小さな入江にいた。
三百の兵は兜も旗も俵へ隠し、塩船の積荷のように息を潜めている。畑山兵部は船縁を一度蹴り、顔をしかめた。
「陸より狭うござる。逃げ場もない」
「ゆえに、通幸殿へ従う」
「海へ落ちれば、通幸殿の指図も届きませぬぞ」
政重は答えに詰まった。鎧を着たまま海へ落ちれば、怪力も役には立たない。
「その時は、鎧を捨てる」
「先に、見栄を捨てておいたほうがよろしいのでは」
兵部はそう言い、政重の具足から大袖を外させ、胴の緒を解きやすく結び直した。海を知らぬ者が、陸と同じ支度で戦おうとしていたことに、言われて初めて気づいた。
日が落ちると、沖から灯を消した船が一艘ずつ入ってきた。先頭の船に、通幸が立っている。
「元親様からの条件にございます。伊予へ兵を渡す時、得居の舟を一度お借りしたいと」
「城を取り戻したなら、一度は必ず貸そう。それより先は、通総と話せ」
政重は頭を下げ、通幸は暗い海へ目を向けた。
「船は人が出す。されど、城へ運ぶのは潮よ。今宵は、潮がこちらへつく刻を待つ」
陸では、号令が兵を動かす。
海では、三百の兵も、潮の前に黙って待っていた。
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■謀る神職・谷忠澄
谷忠澄は、もともと土佐一宮・土佐神社の神職だった人物です。のちに長宗我部元親へ仕え、武将としてだけでなく、外交や交渉の場でも働きました。
天正十三年(1585)の秀吉による四国攻めでは、阿波一宮城を守備したのち、戦い続けることは難しいと判断し、元親へ降伏を勧めています。また、戸次川の戦いで信親が討死した際には、島津方との交渉に赴き、その遺骸を受け取る使者を務めました。
神職は祭祀を行うだけでなく、文字や土地の由緒に通じ、寺社や在地勢力とのつながりを持つ存在でもありました。本作ではそうした経歴を踏まえ、忠澄を「自ら言い負かすのではなく、相手が退ける道を残して目的を果たす人物」として描いています。
■伊予の侵攻状況
長宗我部氏の伊予侵攻は、阿波や讃岐より早い天正四年(1576)ごろから始まっていました。土佐西部の幡多・高岡両郡の兵を南予へ進め、久武親信を軍代として宇和郡の攻略を図っています。
しかし、親信は天正七~八年(1579~80)ごろ、三間地方で土居清良らに敗れて戦死しました。この敗北により、長宗我部氏の南予攻略は一度停滞します。その後も宇和郡への攻撃は続きましたが、天正十一年(1583)の時点では南予全体を制圧したわけではありませんでした。
史実では、弟の久武親直が伊予軍代となるのは、一般に天正十二年(1584)とされています。本作では、政重の働きによって讃岐平定が早まったため、親直の南予進出も一年ほど前倒ししています。




