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ふたりの指が、冷たい水の中で重なった。
力はほとんど残っていない。それでも、互いの存在だけが、わずかに踏みとどまらせていた。
ウミノは息を整えようとする。だが呼吸は浅く、うまくいかない。胸の奥がじんわりと痛む。寒さと酸欠が、じわじわと意識を曇らせていた。
それでも、目だけは逸らさない。
「……いくぞ」
ツキシマが低く言う。
「ああ」
短く応じる。ふたりは同時に力を込めた。
ぎし、と鈍い感触が指先に伝わる。わずかに、ほんのわずかにだが、壁の一部が動いた気がした。
「……動いた」
ウミノが息を漏らす。
「もう一回」
ツキシマが間髪入れずに言う。
再び力を込める。
だが、今度はうまくいかない。指が滑る。力が逃げる。思うように踏ん張れない。
水が、腰に届き始めていた。
冷たさが、腹の奥にまで侵入してくる。内臓まで凍りつくような感覚に、思わず息が乱れた。
「……っ、くそ」
ウミノは歯を食いしばる。だが、手が震えている。力が入らない。
「ウミノ、少し下がれ」
「いや、まだいける」
「いいから」
ツキシマの声が強くなる。
その勢いに押され、ウミノは一歩だけ後ろに退いた。水が大きく揺れ、冷たい波が腹を打つ。
ツキシマはその隙間に手を差し込む。指先が、先ほどよりも深く入り込んだ。
「……ここ、引ける」
確信を帯びた声だった。
だが同時に、その手も限界に近いことがわかる。関節が白くなるほど力を込めているのに、動きは鈍い。
ウミノはそれを見て、唇を噛んだ。
視界が、少し揺れる。
頭がぼんやりする。
寒い。
とにかく、寒い。
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「……ツキシマ」
無意識に名前がこぼれる。
「なんだ」
「もしさ」
また、その言葉だった。ツキシマは一瞬だけ顔をしかめる。
「まだ言うのか」
「最後まで聞けって」
ウミノは苦笑する。その表情は、さっきよりもさらに薄い。
「これ、開いたとしてさ。外に出るのも、結構きつそうじゃん」
ガラスの向こうの部屋は見えている。だが、どういう構造になっているのかまではわからない。
段差があるのか、鍵があるのか、それとも別の仕掛けがあるのか。
確実に言えるのは――簡単ではない、ということだけだ。
「だから」
ウミノは言葉を続ける。
「ツキシマ、先に行けよ」
「だから――」
「俺、たぶん」
遮るように、ウミノが言った。
その声は、不思議と静かだった。
「もう、あんま動けない」
ツキシマの手が止まる。
水音だけが、やけに大きく響いた。
「……何言ってる」
「ほんと」
ウミノは軽く笑う。
「足、感覚ないし。手も、ほとんど動かない」
事実だった。
もう、まともに力が入らない。
さっきまで無理やり動かしていたのが嘘のように、体が言うことを聞かなくなっている。
「だからさ」
「黙れ」
ツキシマの声が、鋭く響いた。
ウミノは一瞬だけ目を見開く。
「勝手に決めるな」
低い声だった。
だが、その奥には明確な怒りがあった。
「お前がどうでもいいみたいに言うな」
「……どうでもいいわけじゃ」
「そう聞こえる」
言い切る。
ツキシマは振り返り、真正面からウミノを見た。
「俺は、お前と出るって言った」
その目は、はっきりとしていた。寒さで震えているはずなのに、その視線だけはぶれない。
「ひとりで出るくらいなら、ここでいい」
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静かな宣言だった。
だが、揺るぎはなかった。
ウミノは言葉を失う。胸の奥が、きしむ。寒さとは別の何かが、じわりと広がる。
「……なんで」
かすれた声が漏れる。
「なんで、そこまで」
「理由いるか」
ツキシマは短く返す。
「友達だろ」
その一言は、あまりにも簡単で、あまりにも重かった。
ウミノの喉が詰まる。何かを言おうとして、うまく言葉にならない。代わりに、震える息だけが漏れた。
「……ほんと、ずるいな」
小さく呟く。
ツキシマは答えない。
ただ、再び壁へ向き直る。
「やるぞ」
「ああ……」
ウミノも、ふらつく体を支えながら手を伸ばす。
視界がぼやける。
それでも、指先を重ねる。
冷たい水の中で、互いの体温はほとんど感じられない。それでも、そこに「いる」という感覚だけは確かだった。
「……せーの」
小さく息を合わせる。最後の力を振り絞る。
ぎし、と音がした。今度は、はっきりと。隙間が、わずかに広がる。
水がその隙間へと吸い込まれるように流れ込んだ。
「……開く」
ツキシマの声に、確かな手応えが混じる。
ウミノは歯を食いしばる。意識が遠のきかける。
それでも、離さない。ここで手を離せば、本当に終わる気がした。
冷たさは限界に近い。時間も、もう残されていない。
それでもふたりは、同時に力を込め続けた。
わずかに開いたその隙間の向こうに、何があるのかもわからないまま。
ただ――
ふたりで出る、その一点だけを信じて。
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