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水位上昇中  作者: 齋藤
6/7

?cm

■□□□


 ふたりの指が、冷たい水の中で重なった。


 力はほとんど残っていない。それでも、互いの存在だけが、わずかに踏みとどまらせていた。


 ウミノは息を整えようとする。だが呼吸は浅く、うまくいかない。胸の奥がじんわりと痛む。寒さと酸欠が、じわじわと意識を曇らせていた。


 それでも、目だけは逸らさない。


「……いくぞ」


 ツキシマが低く言う。


「ああ」


 短く応じる。ふたりは同時に力を込めた。


 ぎし、と鈍い感触が指先に伝わる。わずかに、ほんのわずかにだが、壁の一部が動いた気がした。


「……動いた」


 ウミノが息を漏らす。


「もう一回」


 ツキシマが間髪入れずに言う。

 再び力を込める。


 だが、今度はうまくいかない。指が滑る。力が逃げる。思うように踏ん張れない。


 水が、腰に届き始めていた。


 冷たさが、腹の奥にまで侵入してくる。内臓まで凍りつくような感覚に、思わず息が乱れた。


「……っ、くそ」


 ウミノは歯を食いしばる。だが、手が震えている。力が入らない。


「ウミノ、少し下がれ」


「いや、まだいける」


「いいから」


 ツキシマの声が強くなる。


 その勢いに押され、ウミノは一歩だけ後ろに退いた。水が大きく揺れ、冷たい波が腹を打つ。


 ツキシマはその隙間に手を差し込む。指先が、先ほどよりも深く入り込んだ。


「……ここ、引ける」


 確信を帯びた声だった。


 だが同時に、その手も限界に近いことがわかる。関節が白くなるほど力を込めているのに、動きは鈍い。


 ウミノはそれを見て、唇を噛んだ。


 視界が、少し揺れる。


 頭がぼんやりする。


 寒い。


 とにかく、寒い。


□■□□


「……ツキシマ」


 無意識に名前がこぼれる。


「なんだ」


「もしさ」


 また、その言葉だった。ツキシマは一瞬だけ顔をしかめる。


「まだ言うのか」


「最後まで聞けって」


 ウミノは苦笑する。その表情は、さっきよりもさらに薄い。


「これ、開いたとしてさ。外に出るのも、結構きつそうじゃん」


 ガラスの向こうの部屋は見えている。だが、どういう構造になっているのかまではわからない。


 段差があるのか、鍵があるのか、それとも別の仕掛けがあるのか。


 確実に言えるのは――簡単ではない、ということだけだ。


「だから」


 ウミノは言葉を続ける。


「ツキシマ、先に行けよ」


「だから――」


「俺、たぶん」


 遮るように、ウミノが言った。


 その声は、不思議と静かだった。


「もう、あんま動けない」


 ツキシマの手が止まる。


 水音だけが、やけに大きく響いた。


「……何言ってる」


「ほんと」


 ウミノは軽く笑う。


「足、感覚ないし。手も、ほとんど動かない」


 事実だった。


 もう、まともに力が入らない。


 さっきまで無理やり動かしていたのが嘘のように、体が言うことを聞かなくなっている。


「だからさ」


「黙れ」


 ツキシマの声が、鋭く響いた。


 ウミノは一瞬だけ目を見開く。


「勝手に決めるな」


 低い声だった。


 だが、その奥には明確な怒りがあった。


「お前がどうでもいいみたいに言うな」


「……どうでもいいわけじゃ」


「そう聞こえる」


 言い切る。


 ツキシマは振り返り、真正面からウミノを見た。


「俺は、お前と出るって言った」


 その目は、はっきりとしていた。寒さで震えているはずなのに、その視線だけはぶれない。


「ひとりで出るくらいなら、ここでいい」


□□■□


 静かな宣言だった。


 だが、揺るぎはなかった。


 ウミノは言葉を失う。胸の奥が、きしむ。寒さとは別の何かが、じわりと広がる。


「……なんで」


 かすれた声が漏れる。


「なんで、そこまで」


「理由いるか」


 ツキシマは短く返す。


「友達だろ」


 その一言は、あまりにも簡単で、あまりにも重かった。


 ウミノの喉が詰まる。何かを言おうとして、うまく言葉にならない。代わりに、震える息だけが漏れた。


「……ほんと、ずるいな」


 小さく呟く。


 ツキシマは答えない。


 ただ、再び壁へ向き直る。


「やるぞ」


「ああ……」


 ウミノも、ふらつく体を支えながら手を伸ばす。


 視界がぼやける。


 それでも、指先を重ねる。


 冷たい水の中で、互いの体温はほとんど感じられない。それでも、そこに「いる」という感覚だけは確かだった。


「……せーの」


 小さく息を合わせる。最後の力を振り絞る。


 ぎし、と音がした。今度は、はっきりと。隙間が、わずかに広がる。


 水がその隙間へと吸い込まれるように流れ込んだ。


「……開く」


 ツキシマの声に、確かな手応えが混じる。

 ウミノは歯を食いしばる。意識が遠のきかける。


 それでも、離さない。ここで手を離せば、本当に終わる気がした。


 冷たさは限界に近い。時間も、もう残されていない。

 それでもふたりは、同時に力を込め続けた。


 わずかに開いたその隙間の向こうに、何があるのかもわからないまま。


 ただ――


 ふたりで出る、その一点だけを信じて。


□□□■

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