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水位上昇中  作者: 齋藤
5/7

60cm

■□□


 懐中電灯の頼りない光が、水の中で揺れている。


 その明かりに照らされて、ガラスの内側や天井の継ぎ目がぼんやりと浮かび上がった。これまで見えなかった細かな凹凸や、わずかな隙間のようなものが、ようやく輪郭を持ち始める。


 だが、それが「出口」につながるものかどうかはわからない。


 水は止まらない。


 60cmを越えた水位は、すっかり肩を飲み込んでいた。


「……急ぐぞ」


 ツキシマが言った。声は低いが、先ほどまでよりもはっきりしている。意識を無理やり引き戻しているような響きだった。


 ウミノは小さく頷く。


 だが、その視線はどこか定まっていなかった。


「……ウミノ」


 ツキシマが名を呼ぶ。


「ちゃんと見ろ。何かあるはずだ」


「……ああ」


 返事はしたが、動きが鈍い。


 ウミノは懐中電灯を握り直し、ガラスの縁や床の接合部を照らしていく。光は弱く、届く範囲は限られている。それでも、何もしないよりはましだった。


 ツキシマも反対側に身を寄せ、壁に手を這わせる。


 冷たい。硬い。変わりはない。


 だが――


「……これ」


 ツキシマの声がわずかに強まった。


 ウミノがそちらへ光を向ける。


 壁の一部に、他と違う継ぎ目があった。ほんの数ミリ程度の隙間。だが、明らかに「開く」ことを前提にしたような線だった。


「開くのか……?」


「わからない。でも、ここしかない」


 ツキシマは指先でその縁をなぞる。


 だが、力が入らない。滑る。うまく引っかからない。


 水が揺れる。


 ウミノはその様子を見て、無意識に一歩近づいた。


 冷たさがさらに深く食い込む。


「貸せ」


 短く言って、ツキシマの手の上から自分の手を重ねる。


 その瞬間、ツキシマがわずかに目を見開いた。


 ウミノの手は、ひどく冷えていた。


 いや――それ以上に、力が弱い。


「……お前」


「いいから」


 遮るように言って、ウミノは無理やり指を隙間に差し込もうとする。


 爪が引っかかる。だが、痛みを感じる余裕はなかった。


「ここ、引けそうだろ」


「……ウミノ、無理するな」


「無理なんてしてない」


 即答だった。


 だが、その声はどこか空虚だった。ツキシマは一瞬だけ言葉を失う。


 その隙に、ウミノはさらに力を込めた。わずかに、動いた気がした。


「……っ」


 息が漏れる。


 同時に、指先の感覚がさらに遠のく。


 それでも、離さない。


「ウミノ、やめろ」


「やめない」


 短く、しかしはっきりとした拒絶だった。


 ツキシマはその横顔を見る。


 焦点の合っていない目。青ざめた顔。震えの止まらない体。


 明らかに限界に近い。


 それでも――


「お前……」


 言いかけて、ツキシマは気づく。ウミノの動きが、どこか決定的におかしい。焦っているのとは違う。


 何かを、諦めているような――


「……ツキシマ」


 不意に、ウミノが名前を呼んだ。


「もしさ」


 その声は、やけに穏やかだった。


「これ、ひとり分しか通れなかったらどうする」


□■□


 空気が、止まった。


 水音だけが、やけに大きく響く。


「……は?」


 ツキシマは眉を寄せる。


「何言ってる」


「いや、可能性の話」


 ウミノは笑った。


 うまく笑えていない、歪な表情だった。


「こういうのってさ、そういうのあるじゃん。一人だけ助かるやつ」


「……ない」


 即座に否定する。


「そんな前提で考えるな」


「でもさ」


 ウミノは言葉を続ける。


「もしそうだったら、ツキシマが行けよ」


 静かだった。


 あまりにもあっさりとした口調で、そう言った。


 ツキシマは一瞬、意味を理解できなかった。


「……何言ってる」


「だって」


 ウミノは、まるで当たり前のことのように言う。


「ツキシマのほうが、ちゃんとしてるし」


「は?」


「俺よりさ、ちゃんと生きてるだろ」


 その言葉は軽く聞こえるのに、どこか重かった。


 ツキシマの表情が、はっきりと歪む。


「ふざけるな」


 低く、押し殺した声。


「そんな話してる場合か」


「してるよ」


 ウミノは、今度ははっきりと笑った。力のない笑みだった。


「だって、時間ないし」


 その言葉に、ツキシマの胸が強く打たれる。


 否定できない現実。


 だが――


「ふたりで出る」


 ツキシマは言った。


 一歩、ウミノに詰め寄る。


 水が大きく揺れた。


「どっちかだけなんて、選ばない」


「……でも」


「でもじゃない」


 言い切る。


 その目は、はっきりとウミノを捉えていた。


「ふたりで助かる」


 短い言葉だったが、揺るぎがなかった。


 ウミノは一瞬だけ言葉を失う。その間にも、水位は確実に上がっていく。

 冷たさが、さらに深く食い込む。


「……無理だろ」


 ぽつりと、ウミノが呟く。


「無理じゃない」


 ツキシマは即答する。


「まだ、終わってない」


 その声は、強かった。さっきまでの不安定さは、もうほとんど残っていない。


 代わりにあるのは、はっきりとした意志だった。


 ウミノは、その目を見返す。


 数秒。やがて、小さく息を吐いた。


「……ほんと、そういうとこ」


「何」


「ずるい」


 苦笑のようなものが浮かぶ。


 完全ではないが、それでもさっきまでよりは少しだけ、生気が戻っていた。


「……わかったよ」


 ウミノは、もう一度隙間に手をかける。


「じゃあ、ふたりで開ける」


「ああ」


 ツキシマも手を添える。冷たい水の中で、ふたりの指が重なる。


 力は弱い。それでも、ひとりよりは確かだった。


 水は、容赦なく増え続けている。


 時間は、もうほとんど残されていない。それでもふたりは、同じ方向を見ていた。


□□■

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