60cm
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懐中電灯の頼りない光が、水の中で揺れている。
その明かりに照らされて、ガラスの内側や天井の継ぎ目がぼんやりと浮かび上がった。これまで見えなかった細かな凹凸や、わずかな隙間のようなものが、ようやく輪郭を持ち始める。
だが、それが「出口」につながるものかどうかはわからない。
水は止まらない。
60cmを越えた水位は、すっかり肩を飲み込んでいた。
「……急ぐぞ」
ツキシマが言った。声は低いが、先ほどまでよりもはっきりしている。意識を無理やり引き戻しているような響きだった。
ウミノは小さく頷く。
だが、その視線はどこか定まっていなかった。
「……ウミノ」
ツキシマが名を呼ぶ。
「ちゃんと見ろ。何かあるはずだ」
「……ああ」
返事はしたが、動きが鈍い。
ウミノは懐中電灯を握り直し、ガラスの縁や床の接合部を照らしていく。光は弱く、届く範囲は限られている。それでも、何もしないよりはましだった。
ツキシマも反対側に身を寄せ、壁に手を這わせる。
冷たい。硬い。変わりはない。
だが――
「……これ」
ツキシマの声がわずかに強まった。
ウミノがそちらへ光を向ける。
壁の一部に、他と違う継ぎ目があった。ほんの数ミリ程度の隙間。だが、明らかに「開く」ことを前提にしたような線だった。
「開くのか……?」
「わからない。でも、ここしかない」
ツキシマは指先でその縁をなぞる。
だが、力が入らない。滑る。うまく引っかからない。
水が揺れる。
ウミノはその様子を見て、無意識に一歩近づいた。
冷たさがさらに深く食い込む。
「貸せ」
短く言って、ツキシマの手の上から自分の手を重ねる。
その瞬間、ツキシマがわずかに目を見開いた。
ウミノの手は、ひどく冷えていた。
いや――それ以上に、力が弱い。
「……お前」
「いいから」
遮るように言って、ウミノは無理やり指を隙間に差し込もうとする。
爪が引っかかる。だが、痛みを感じる余裕はなかった。
「ここ、引けそうだろ」
「……ウミノ、無理するな」
「無理なんてしてない」
即答だった。
だが、その声はどこか空虚だった。ツキシマは一瞬だけ言葉を失う。
その隙に、ウミノはさらに力を込めた。わずかに、動いた気がした。
「……っ」
息が漏れる。
同時に、指先の感覚がさらに遠のく。
それでも、離さない。
「ウミノ、やめろ」
「やめない」
短く、しかしはっきりとした拒絶だった。
ツキシマはその横顔を見る。
焦点の合っていない目。青ざめた顔。震えの止まらない体。
明らかに限界に近い。
それでも――
「お前……」
言いかけて、ツキシマは気づく。ウミノの動きが、どこか決定的におかしい。焦っているのとは違う。
何かを、諦めているような――
「……ツキシマ」
不意に、ウミノが名前を呼んだ。
「もしさ」
その声は、やけに穏やかだった。
「これ、ひとり分しか通れなかったらどうする」
□■□
空気が、止まった。
水音だけが、やけに大きく響く。
「……は?」
ツキシマは眉を寄せる。
「何言ってる」
「いや、可能性の話」
ウミノは笑った。
うまく笑えていない、歪な表情だった。
「こういうのってさ、そういうのあるじゃん。一人だけ助かるやつ」
「……ない」
即座に否定する。
「そんな前提で考えるな」
「でもさ」
ウミノは言葉を続ける。
「もしそうだったら、ツキシマが行けよ」
静かだった。
あまりにもあっさりとした口調で、そう言った。
ツキシマは一瞬、意味を理解できなかった。
「……何言ってる」
「だって」
ウミノは、まるで当たり前のことのように言う。
「ツキシマのほうが、ちゃんとしてるし」
「は?」
「俺よりさ、ちゃんと生きてるだろ」
その言葉は軽く聞こえるのに、どこか重かった。
ツキシマの表情が、はっきりと歪む。
「ふざけるな」
低く、押し殺した声。
「そんな話してる場合か」
「してるよ」
ウミノは、今度ははっきりと笑った。力のない笑みだった。
「だって、時間ないし」
その言葉に、ツキシマの胸が強く打たれる。
否定できない現実。
だが――
「ふたりで出る」
ツキシマは言った。
一歩、ウミノに詰め寄る。
水が大きく揺れた。
「どっちかだけなんて、選ばない」
「……でも」
「でもじゃない」
言い切る。
その目は、はっきりとウミノを捉えていた。
「ふたりで助かる」
短い言葉だったが、揺るぎがなかった。
ウミノは一瞬だけ言葉を失う。その間にも、水位は確実に上がっていく。
冷たさが、さらに深く食い込む。
「……無理だろ」
ぽつりと、ウミノが呟く。
「無理じゃない」
ツキシマは即答する。
「まだ、終わってない」
その声は、強かった。さっきまでの不安定さは、もうほとんど残っていない。
代わりにあるのは、はっきりとした意志だった。
ウミノは、その目を見返す。
数秒。やがて、小さく息を吐いた。
「……ほんと、そういうとこ」
「何」
「ずるい」
苦笑のようなものが浮かぶ。
完全ではないが、それでもさっきまでよりは少しだけ、生気が戻っていた。
「……わかったよ」
ウミノは、もう一度隙間に手をかける。
「じゃあ、ふたりで開ける」
「ああ」
ツキシマも手を添える。冷たい水の中で、ふたりの指が重なる。
力は弱い。それでも、ひとりよりは確かだった。
水は、容赦なく増え続けている。
時間は、もうほとんど残されていない。それでもふたりは、同じ方向を見ていた。
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