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水位上昇中  作者: 齋藤
4/7

45cm

■□□□□


 水位は、膝を越えた。


 冷たさはもはや「不快」ではなく、明確な脅威として体を蝕んでいる。濡れた衣服は重く、肌に張りついて熱を奪い続ける。じっとしていても震えが止まらず、動けば余計に体温が逃げていく。


 45cm。


 その数字が、頭の中でやけに重く響いていた。


 ウミノは息を吸おうとして、うまくいかないことに気づく。肺に入る空気が薄いわけではないのに、うまく取り込めない。呼吸が浅く、速くなっている。


 寒さのせいだと、理解はしている。


 だが、理解していてもどうにもならない。


「……ツキシマ」


 声をかけると、自分の声が思ったよりも弱々しいことに気づいた。


 ツキシマはすぐ隣にいるはずなのに、その距離が妙に遠く感じる。


「……なに」


 返事はあった。

 だがそれもまた、どこか遠い。


 ツキシマは壁に背を預けるようにして、わずかに体を丸めていた。長い髪が濡れて頬に張りつき、いつもの整った印象を崩している。


 顔色が悪い。


 それは照明のせいだけではないと、ウミノはすぐにわかった。


「……大丈夫か」


「……平気」


 そのやり取りは、もはや形だけのものだった。


 平気なわけがない。


 足先の感覚はほとんど消え、膝から下は自分のものではないように重い。指先もかじかみ、思うように動かない。歯がぶつかる音が、止めようとしても止まらなかった。


 時間が、確実に削られている。あとどれくらい持つのか、考えたくもない。それでも考えてしまう。


 ウミノはゆっくりと視線を落とした。


□■□□□


 水面が、揺れている。


 だが、その揺れ方が、これまでと少し違っていることに気づいた。


「……?」


 水流に、何かが混じっている。


 細い流れに押されるようにして、小さな影がふわりと漂っていた。


 最初は気のせいかと思った。視界がぼやけているせいで、何かがあるように見えているだけだと。


 だが、それは確かに存在していた。


 ゆっくりと、水の流れに乗ってこちらへ近づいてくる。


「ツキシマ……あれ」


 ウミノは震える指でそれを示した。


 ツキシマもわずかに顔を上げ、目を細める。


「……なに、あれ」


 声に、ほんのわずかだが警戒が混じる。


 それは、手のひらに収まるほどの大きさだった。


 透明な袋のようなものに包まれ、中に何かが入っている。光を反射して、ゆらゆらと不安定に揺れている。


 水流に押されて、やがてふたりの間にたどり着いた。


 ウミノは反射的に手を伸ばす。


 指先が水を切る感覚すら鈍い。それでも、なんとかそれを掴んだ。


「……っ、冷た……」


 袋は水と同じくらい冷えていた。だが、そんなことを気にしている余裕はない。


 ウミノは震える手でそれを持ち上げる。


 透明な表面の向こうに、はっきりと中身が見えた。


「……これ」


 小さな懐中電灯と、折りたたまれた紙。


 それだけだった。


「……お助けアイテム、ってやつか」


 ツキシマが、かすかに皮肉めいた声で言う。


 だが、その言葉に完全な否定はなかった。


 こんな状況で、偶然流れてくるにはあまりにも都合がいい。


 誰かが用意したものだと考えるほうが自然だった。


「……なら、使うしかないだろ」


 ウミノは頷く。


 指先の感覚はほとんどない。それでも必死に袋を開こうとする。


 だが、うまくいかない。


 力が入らない。滑る。何度やっても、端をつまむことすら難しい。


「……貸せ」


 ツキシマが手を伸ばした。


□□■□□


 その手もまた、震えている。ふたりでどうにか袋の端をつまみ、引き裂く。わずかな抵抗のあと、袋が開いた。


 中から取り出した懐中電灯は、小さいがしっかりとした作りだった。スイッチを押すと、弱々しいが確かな光が灯る。


 その光が、水の中で揺れながら広がった。


 そして、折りたたまれた紙。


 ウミノはそれを慎重に開く。


 濡れないように加工されているのか、紙は水の中でも形を保っていた。


 そこには、短い文章が書かれていた。


『残り時間に注意せよ』


 それだけだった。


「……は?」


 思わず声が漏れる。


 説明も、指示もない。


 ただ、その一文だけ。だが、その意味は明白だった。


 時間制限がある。それも、すでにかなり削られている。


 ウミノは無意識に天井を見上げた。


 水は、止まっていない。


 むしろ、ほんのわずかに流れが強くなっているようにすら感じる。


「……残り時間、って」


 ツキシマが呟く。


「どれくらいだと思う」


 その問いに、ウミノは答えられなかった。


 答えたくなかった。


 だが、答えは体が理解している。


 寒さで意識がぼやけていく。このままでは、長くは持たない。


 水位も、確実に上がっている。


 もう45cm。


 半分までは、そう遠くない。


「……急がないと」


□□□■□


 ウミノは小さく言った。


 声に力はなかったが、その言葉だけははっきりとしていた。


 ツキシマも、静かに頷く。


 ふたりの間に、先ほどまでとは違う緊張が生まれていた。


 ただ耐えるだけでは、もう間に合わない。何かを見つけなければならない。この状況を変える手がかりを。


 水の冷たさが、さらに深く体に食い込む。

 意識の輪郭が、少しずつ曖昧になっていく。それでも、目を逸らすわけにはいかなかった。


 揺れる水面の向こうに、残されたわずかな時間が迫っている。


□□□□■

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