45cm
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水位は、膝を越えた。
冷たさはもはや「不快」ではなく、明確な脅威として体を蝕んでいる。濡れた衣服は重く、肌に張りついて熱を奪い続ける。じっとしていても震えが止まらず、動けば余計に体温が逃げていく。
45cm。
その数字が、頭の中でやけに重く響いていた。
ウミノは息を吸おうとして、うまくいかないことに気づく。肺に入る空気が薄いわけではないのに、うまく取り込めない。呼吸が浅く、速くなっている。
寒さのせいだと、理解はしている。
だが、理解していてもどうにもならない。
「……ツキシマ」
声をかけると、自分の声が思ったよりも弱々しいことに気づいた。
ツキシマはすぐ隣にいるはずなのに、その距離が妙に遠く感じる。
「……なに」
返事はあった。
だがそれもまた、どこか遠い。
ツキシマは壁に背を預けるようにして、わずかに体を丸めていた。長い髪が濡れて頬に張りつき、いつもの整った印象を崩している。
顔色が悪い。
それは照明のせいだけではないと、ウミノはすぐにわかった。
「……大丈夫か」
「……平気」
そのやり取りは、もはや形だけのものだった。
平気なわけがない。
足先の感覚はほとんど消え、膝から下は自分のものではないように重い。指先もかじかみ、思うように動かない。歯がぶつかる音が、止めようとしても止まらなかった。
時間が、確実に削られている。あとどれくらい持つのか、考えたくもない。それでも考えてしまう。
ウミノはゆっくりと視線を落とした。
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水面が、揺れている。
だが、その揺れ方が、これまでと少し違っていることに気づいた。
「……?」
水流に、何かが混じっている。
細い流れに押されるようにして、小さな影がふわりと漂っていた。
最初は気のせいかと思った。視界がぼやけているせいで、何かがあるように見えているだけだと。
だが、それは確かに存在していた。
ゆっくりと、水の流れに乗ってこちらへ近づいてくる。
「ツキシマ……あれ」
ウミノは震える指でそれを示した。
ツキシマもわずかに顔を上げ、目を細める。
「……なに、あれ」
声に、ほんのわずかだが警戒が混じる。
それは、手のひらに収まるほどの大きさだった。
透明な袋のようなものに包まれ、中に何かが入っている。光を反射して、ゆらゆらと不安定に揺れている。
水流に押されて、やがてふたりの間にたどり着いた。
ウミノは反射的に手を伸ばす。
指先が水を切る感覚すら鈍い。それでも、なんとかそれを掴んだ。
「……っ、冷た……」
袋は水と同じくらい冷えていた。だが、そんなことを気にしている余裕はない。
ウミノは震える手でそれを持ち上げる。
透明な表面の向こうに、はっきりと中身が見えた。
「……これ」
小さな懐中電灯と、折りたたまれた紙。
それだけだった。
「……お助けアイテム、ってやつか」
ツキシマが、かすかに皮肉めいた声で言う。
だが、その言葉に完全な否定はなかった。
こんな状況で、偶然流れてくるにはあまりにも都合がいい。
誰かが用意したものだと考えるほうが自然だった。
「……なら、使うしかないだろ」
ウミノは頷く。
指先の感覚はほとんどない。それでも必死に袋を開こうとする。
だが、うまくいかない。
力が入らない。滑る。何度やっても、端をつまむことすら難しい。
「……貸せ」
ツキシマが手を伸ばした。
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その手もまた、震えている。ふたりでどうにか袋の端をつまみ、引き裂く。わずかな抵抗のあと、袋が開いた。
中から取り出した懐中電灯は、小さいがしっかりとした作りだった。スイッチを押すと、弱々しいが確かな光が灯る。
その光が、水の中で揺れながら広がった。
そして、折りたたまれた紙。
ウミノはそれを慎重に開く。
濡れないように加工されているのか、紙は水の中でも形を保っていた。
そこには、短い文章が書かれていた。
『残り時間に注意せよ』
それだけだった。
「……は?」
思わず声が漏れる。
説明も、指示もない。
ただ、その一文だけ。だが、その意味は明白だった。
時間制限がある。それも、すでにかなり削られている。
ウミノは無意識に天井を見上げた。
水は、止まっていない。
むしろ、ほんのわずかに流れが強くなっているようにすら感じる。
「……残り時間、って」
ツキシマが呟く。
「どれくらいだと思う」
その問いに、ウミノは答えられなかった。
答えたくなかった。
だが、答えは体が理解している。
寒さで意識がぼやけていく。このままでは、長くは持たない。
水位も、確実に上がっている。
もう45cm。
半分までは、そう遠くない。
「……急がないと」
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ウミノは小さく言った。
声に力はなかったが、その言葉だけははっきりとしていた。
ツキシマも、静かに頷く。
ふたりの間に、先ほどまでとは違う緊張が生まれていた。
ただ耐えるだけでは、もう間に合わない。何かを見つけなければならない。この状況を変える手がかりを。
水の冷たさが、さらに深く体に食い込む。
意識の輪郭が、少しずつ曖昧になっていく。それでも、目を逸らすわけにはいかなかった。
揺れる水面の向こうに、残されたわずかな時間が迫っている。
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