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水位上昇中  作者: 齋藤
3/7

30cm

■□□□□


 水位は、すでに膝下に達していた。


 先ほどまで足首を覆っていた冷たさは、今や容赦なく脛を包み込み、じわじわと上へと這い上がっている。数分ごとに確実に増していくその感覚は、時間そのものが迫ってくるようで、息苦しさを強めていた。


□■□□□


 ウミノは小さく身じろぎした。だが水が揺れるだけで、状況が変わるわけではない。


 水位は、およそ30cm。


 もう、無視できる高さではなかった。


「……寒いな」


 思わずこぼれた言葉に、返事はなかった。


 代わりに聞こえたのは、浅く速い呼吸音だった。


 ウミノは顔を上げる。


 ツキシマが、わずかに俯いていた。長い髪が顔にかかり、表情ははっきりとは見えない。ただ、肩の動きが不自然に小刻みであることに気づく。


「ツキシマ?」


 呼びかけると、反応が一拍遅れた。


「……なに」


 声が、いつもより低く、かすかに掠れている。


 その違和感に、ウミノの胸がざわついた。


 冷えのせいか、それとも――


「大丈夫か?」


「平気」


 即答だった。


 だが、その言葉とは裏腹に、ツキシマの足は水の中でわずかに後ずさっている。逃げ場などないはずなのに、無意識に距離を取ろうとしているようだった。


 ウミノは、そこでようやく気づく。


 ツキシマは、水面を見ていない。


 視線を、わずかに逸らしている。


「……あのさ」


 言いかけて、ウミノは言葉を選んだ。


「水、苦手?」


 沈黙が落ちた。


□□■□□


 数秒――いや、もっと長く感じられる時間のあとで、ツキシマは小さく息を吐いた。


「……別に」


 否定の形を取っているが、その声音には力がなかった。


 ウミノは一歩、いや半歩だけ距離を詰める。水が揺れ、冷たさがさらに広がる。


「無理すんなよ」


「無理はしてない」


「してるだろ」


 思わず強く言ってしまってから、ウミノはしまったと思った。だが、ツキシマは怒るでもなく、ただ静かに目を閉じた。


 やがて、観念したように口を開く。


「……昔、ちょっと」


 それだけで、十分だった。

 ウミノはそれ以上急かさず、ただ待つ。


 水音だけが響く中、ツキシマはゆっくりと言葉を紡いだ。


「子どもの頃、海に行ったことがあって」


 淡々とした語り口だったが、その奥にあるものは隠しきれていなかった。


「家族で……珍しく、全員揃ってた」


 ツキシマの家の事情を、ウミノは詳しくは知らない。ただ、あまり家庭の話をしない人間だということは知っていた。


「泳げないわけじゃなかったんだけど……調子に乗って、ちょっと沖まで行って」


 水面が、わずかに波打つ。


 それは水の流入のせいか、それとも――


「足がつかなくなった」


 短い一文だった。


 だが、その中に詰まっている恐怖は、容易に想像できた。


「パニックになって、沈んで……何も見えなくて」


 ツキシマの指先が、水の中でわずかに震えている。


「気づいたら引き上げられてた。……大したことなかったって、周りは言ってたけど」


 そこで言葉が途切れる。

 ウミノは、何も言えなかった。


「それから、あんまり好きじゃない」


 最後に、そう付け加えられる。


 あまりにも簡潔で、あまりにも軽く言われたその言葉が、逆に重かった。

 好きじゃない、というには、あまりにもはっきりとした拒絶の気配があった。


□□□■□


 ウミノはゆっくりと息を吐く。


 知らなかった。


 ツキシマがそんな過去を持っているなんて、考えたこともなかった。いつも通りの、落ち着いた、少し距離のある友人だと思っていた。


 だが今、目の前にいるのは、水から逃げられずにいるツキシマだ。


 しかも、水は増え続けている。


 最悪の状況だった。


「……そっか」


 それしか言えなかった。


 気の利いた言葉なんて浮かばない。

 励ますべきか、何も言わないべきか、そのどちらも正解には思えなかった。


 ただ――


「じゃあ、なおさらだな」


 気づけば、そんな言葉が口をついていた。


 ツキシマがわずかに顔を上げる。


「なにが」


「ここで終わるの、絶対嫌だろ」


 ウミノは水面を睨む。


 冷たさは、すでに膝に近づいていた。


「こんなとこで、水で終わるとか、最悪すぎる」


 半ば自分に言い聞かせるように言う。

 ツキシマはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……そうだな」


 その声は、ほんの少しだけ、いつもに近かった。


 完全ではない。それでも、さっきまでの不安定さよりは確かに戻っている。


 ウミノはわずかに肩の力を抜いた。


 水は止まらない。

 状況は何も好転していない。

 それでも――


 隣にいる相手のことを、少しだけ深く知った。


 それだけが、この閉ざされた空間の中で、わずかな意味を持っていた。

 水面は、確実に上がり続ける。


 冷たさと恐怖を抱えながら、ふたりは次に何をすべきかを探していた。


□□□□■

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