30cm
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水位は、すでに膝下に達していた。
先ほどまで足首を覆っていた冷たさは、今や容赦なく脛を包み込み、じわじわと上へと這い上がっている。数分ごとに確実に増していくその感覚は、時間そのものが迫ってくるようで、息苦しさを強めていた。
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ウミノは小さく身じろぎした。だが水が揺れるだけで、状況が変わるわけではない。
水位は、およそ30cm。
もう、無視できる高さではなかった。
「……寒いな」
思わずこぼれた言葉に、返事はなかった。
代わりに聞こえたのは、浅く速い呼吸音だった。
ウミノは顔を上げる。
ツキシマが、わずかに俯いていた。長い髪が顔にかかり、表情ははっきりとは見えない。ただ、肩の動きが不自然に小刻みであることに気づく。
「ツキシマ?」
呼びかけると、反応が一拍遅れた。
「……なに」
声が、いつもより低く、かすかに掠れている。
その違和感に、ウミノの胸がざわついた。
冷えのせいか、それとも――
「大丈夫か?」
「平気」
即答だった。
だが、その言葉とは裏腹に、ツキシマの足は水の中でわずかに後ずさっている。逃げ場などないはずなのに、無意識に距離を取ろうとしているようだった。
ウミノは、そこでようやく気づく。
ツキシマは、水面を見ていない。
視線を、わずかに逸らしている。
「……あのさ」
言いかけて、ウミノは言葉を選んだ。
「水、苦手?」
沈黙が落ちた。
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数秒――いや、もっと長く感じられる時間のあとで、ツキシマは小さく息を吐いた。
「……別に」
否定の形を取っているが、その声音には力がなかった。
ウミノは一歩、いや半歩だけ距離を詰める。水が揺れ、冷たさがさらに広がる。
「無理すんなよ」
「無理はしてない」
「してるだろ」
思わず強く言ってしまってから、ウミノはしまったと思った。だが、ツキシマは怒るでもなく、ただ静かに目を閉じた。
やがて、観念したように口を開く。
「……昔、ちょっと」
それだけで、十分だった。
ウミノはそれ以上急かさず、ただ待つ。
水音だけが響く中、ツキシマはゆっくりと言葉を紡いだ。
「子どもの頃、海に行ったことがあって」
淡々とした語り口だったが、その奥にあるものは隠しきれていなかった。
「家族で……珍しく、全員揃ってた」
ツキシマの家の事情を、ウミノは詳しくは知らない。ただ、あまり家庭の話をしない人間だということは知っていた。
「泳げないわけじゃなかったんだけど……調子に乗って、ちょっと沖まで行って」
水面が、わずかに波打つ。
それは水の流入のせいか、それとも――
「足がつかなくなった」
短い一文だった。
だが、その中に詰まっている恐怖は、容易に想像できた。
「パニックになって、沈んで……何も見えなくて」
ツキシマの指先が、水の中でわずかに震えている。
「気づいたら引き上げられてた。……大したことなかったって、周りは言ってたけど」
そこで言葉が途切れる。
ウミノは、何も言えなかった。
「それから、あんまり好きじゃない」
最後に、そう付け加えられる。
あまりにも簡潔で、あまりにも軽く言われたその言葉が、逆に重かった。
好きじゃない、というには、あまりにもはっきりとした拒絶の気配があった。
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ウミノはゆっくりと息を吐く。
知らなかった。
ツキシマがそんな過去を持っているなんて、考えたこともなかった。いつも通りの、落ち着いた、少し距離のある友人だと思っていた。
だが今、目の前にいるのは、水から逃げられずにいるツキシマだ。
しかも、水は増え続けている。
最悪の状況だった。
「……そっか」
それしか言えなかった。
気の利いた言葉なんて浮かばない。
励ますべきか、何も言わないべきか、そのどちらも正解には思えなかった。
ただ――
「じゃあ、なおさらだな」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
ツキシマがわずかに顔を上げる。
「なにが」
「ここで終わるの、絶対嫌だろ」
ウミノは水面を睨む。
冷たさは、すでに膝に近づいていた。
「こんなとこで、水で終わるとか、最悪すぎる」
半ば自分に言い聞かせるように言う。
ツキシマはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……そうだな」
その声は、ほんの少しだけ、いつもに近かった。
完全ではない。それでも、さっきまでの不安定さよりは確かに戻っている。
ウミノはわずかに肩の力を抜いた。
水は止まらない。
状況は何も好転していない。
それでも――
隣にいる相手のことを、少しだけ深く知った。
それだけが、この閉ざされた空間の中で、わずかな意味を持っていた。
水面は、確実に上がり続ける。
冷たさと恐怖を抱えながら、ふたりは次に何をすべきかを探していた。
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