10cm
■□□□
水は、想像していたよりもはるかに速く、容赦なく満ちていった。
気づけば足元は完全に浸かり、数分もしないうちに水位は足首を越えていた。冷たい感触がじわじわと這い上がってくる。測るまでもなく、すでに10cmは超えている。
それでもなお、水は止まらない。
□■□□
「は? え? なにこれ」
ウミノの声は裏返っていた。理解が追いつかない現実を前に、言葉だけが空回りする。
「……さあ」
対照的に、ツキシマは低く短く答えた。落ち着いている、というよりは、感情を押し殺しているようにも見える。その横顔を見て、ウミノは一瞬だけ救われた気がしたが――すぐに足元の冷たさが現実へと引き戻した。
水面が揺れる。小さな波紋が、ふたりの動きに応じて広がっては消えていく。その静けさが、かえって不気味だった。
ウミノはたまらずガラスに手をついた。ひやりとした感触が掌に張りつく。
次の瞬間、拳を振り上げていた。
「なあ、誰かいないか!! 助けてくれ!!」
鈍い音が響く。もう一度、さらに強く打ちつける。
だが、ガラスは微動だにしない。外の部屋も変わらず無機質なままだ。人の気配どころか、物音ひとつ返ってこない。
何度叩いても、何度叫んでも、応答はない。
当たり前だ、と頭のどこかで冷静な声がした。
この厚さだ。見た目からして、ただのガラスではない。水槽だとすれば、10cmどころか、それ以上の強度があるだろう。人の力でどうにかできるものではない。
それでも、やめられなかった。
叩くたびに拳に鈍い痛みが走る。皮膚の奥でじんじんと広がるその感覚が、逆に現実感を強めていく。
閉じ込められている。
逃げられない。
その事実が、遅れて恐怖として押し寄せてきた。
「くそっ……!」
吐き捨てるように呟き、今度は水面を強く叩いた。
ばしゃり、と音を立てて水が跳ねる。冷たい飛沫が顔や腕にかかり、思わず息を呑んだ。
「やめて。変に動かないで」
ツキシマの声が飛ぶ。
「寒くなる」
その言葉は、淡々としているのにやけに重かった。
「……すまん」
ウミノは力を抜いた。荒くなっていた呼吸を整えようとするが、うまくいかない。
そう、この水は――異様に冷たい。
ただの冷水ではない。皮膚に触れた瞬間、刺すような感覚が走る。まるで冬の川に突き落とされたような、あの容赦のない冷たさだ。
足先はすでに感覚が曖昧になり始めている。水に浸かっていない膝の上との温度差が、かえって不快だった。
このまま水位が上がり続ければ、どうなるかは考えるまでもない。
溺れるか、それより前に低体温で意識を失うか。
どちらにせよ、助からない。
□□■□
ウミノは必死に頭を働かせる。
さっきの増え方――数分で10cm。単純に計算すれば、この水槽が1m程度だとして、30分もあれば満水になる。
いや、それより前に限界が来る。
この冷たさだ。体温は確実に奪われている。震えが止まらないのは恐怖のせいだけじゃない。
心臓がうるさいほどに脈打つ。耳の奥で、自分の鼓動が反響しているようだった。
「……ウミノ」
静かな声に顔を上げる。
ツキシマがこちらを見ていた。相変わらず落ち着いた表情だが、その指先はわずかに震えている。
「動かないほうがいい。体力も、熱も、無駄にする」
「でも、このままだと……」
「わかってる」
言葉を遮るように、短く返される。
その一言に、逆に焦りが滲んでいる気がした。
ツキシマだって、状況を理解していないわけがない。
ただ、取り乱さないようにしているだけだ。
それがわかって、ウミノは歯を食いしばった。
自分だけが騒いでどうする。
ふたりとも冷静でいなければ、本当に終わる。
水は、容赦なく増え続けている。
足首だった水位は、いつの間にか脛に届いていた。服の裾が完全に濡れ、肌に張りつく。そこからじわじわと熱が奪われていくのがわかる。
逃げ場はない。
手を伸ばしても届くのは冷たい壁だけ。頭上には、水を吐き出し続ける穴。
外には、何もない部屋。
まるで観察されているかのような配置に、背筋がぞくりとした。
だが、見ている者がいるのだとしても、助ける気はないのだろう。
ウミノは唇を噛んだ。
血の味が、かすかに広がる。
それすらも、すぐに冷たい空気にかき消されていった。
ふたりは、何もできないまま、水面を睨みつける。
わずかに揺れるその境界線が、確実に上へ上へと迫ってくる。
時間だけが、静かに削られていった。
□□□■




