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水位上昇中  作者: 齋藤
2/7

10cm

■□□□


 水は、想像していたよりもはるかに速く、容赦なく満ちていった。


 気づけば足元は完全に浸かり、数分もしないうちに水位は足首を越えていた。冷たい感触がじわじわと這い上がってくる。測るまでもなく、すでに10cmは超えている。


 それでもなお、水は止まらない。


□■□□


「は? え? なにこれ」


 ウミノの声は裏返っていた。理解が追いつかない現実を前に、言葉だけが空回りする。


「……さあ」


 対照的に、ツキシマは低く短く答えた。落ち着いている、というよりは、感情を押し殺しているようにも見える。その横顔を見て、ウミノは一瞬だけ救われた気がしたが――すぐに足元の冷たさが現実へと引き戻した。


 水面が揺れる。小さな波紋が、ふたりの動きに応じて広がっては消えていく。その静けさが、かえって不気味だった。


 ウミノはたまらずガラスに手をついた。ひやりとした感触が掌に張りつく。


 次の瞬間、拳を振り上げていた。


「なあ、誰かいないか!! 助けてくれ!!」


 鈍い音が響く。もう一度、さらに強く打ちつける。


 だが、ガラスは微動だにしない。外の部屋も変わらず無機質なままだ。人の気配どころか、物音ひとつ返ってこない。


 何度叩いても、何度叫んでも、応答はない。


 当たり前だ、と頭のどこかで冷静な声がした。


 この厚さだ。見た目からして、ただのガラスではない。水槽だとすれば、10cmどころか、それ以上の強度があるだろう。人の力でどうにかできるものではない。


 それでも、やめられなかった。


 叩くたびに拳に鈍い痛みが走る。皮膚の奥でじんじんと広がるその感覚が、逆に現実感を強めていく。


 閉じ込められている。


 逃げられない。


 その事実が、遅れて恐怖として押し寄せてきた。


「くそっ……!」


 吐き捨てるように呟き、今度は水面を強く叩いた。


 ばしゃり、と音を立てて水が跳ねる。冷たい飛沫が顔や腕にかかり、思わず息を呑んだ。


「やめて。変に動かないで」


 ツキシマの声が飛ぶ。


「寒くなる」


 その言葉は、淡々としているのにやけに重かった。


「……すまん」


 ウミノは力を抜いた。荒くなっていた呼吸を整えようとするが、うまくいかない。


 そう、この水は――異様に冷たい。


 ただの冷水ではない。皮膚に触れた瞬間、刺すような感覚が走る。まるで冬の川に突き落とされたような、あの容赦のない冷たさだ。


 足先はすでに感覚が曖昧になり始めている。水に浸かっていない膝の上との温度差が、かえって不快だった。


 このまま水位が上がり続ければ、どうなるかは考えるまでもない。


 溺れるか、それより前に低体温で意識を失うか。


 どちらにせよ、助からない。


□□■□


 ウミノは必死に頭を働かせる。


 さっきの増え方――数分で10cm。単純に計算すれば、この水槽が1m程度だとして、30分もあれば満水になる。


 いや、それより前に限界が来る。


 この冷たさだ。体温は確実に奪われている。震えが止まらないのは恐怖のせいだけじゃない。


 心臓がうるさいほどに脈打つ。耳の奥で、自分の鼓動が反響しているようだった。


「……ウミノ」


 静かな声に顔を上げる。


 ツキシマがこちらを見ていた。相変わらず落ち着いた表情だが、その指先はわずかに震えている。


「動かないほうがいい。体力も、熱も、無駄にする」


「でも、このままだと……」


「わかってる」


 言葉を遮るように、短く返される。


 その一言に、逆に焦りが滲んでいる気がした。


 ツキシマだって、状況を理解していないわけがない。


 ただ、取り乱さないようにしているだけだ。


 それがわかって、ウミノは歯を食いしばった。


 自分だけが騒いでどうする。


 ふたりとも冷静でいなければ、本当に終わる。


 水は、容赦なく増え続けている。


 足首だった水位は、いつの間にか脛に届いていた。服の裾が完全に濡れ、肌に張りつく。そこからじわじわと熱が奪われていくのがわかる。


 逃げ場はない。


 手を伸ばしても届くのは冷たい壁だけ。頭上には、水を吐き出し続ける穴。


 外には、何もない部屋。


 まるで観察されているかのような配置に、背筋がぞくりとした。


 だが、見ている者がいるのだとしても、助ける気はないのだろう。


 ウミノは唇を噛んだ。


 血の味が、かすかに広がる。


 それすらも、すぐに冷たい空気にかき消されていった。


 ふたりは、何もできないまま、水面を睨みつける。


 わずかに揺れるその境界線が、確実に上へ上へと迫ってくる。


 時間だけが、静かに削られていった。


□□□■

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