2 ウサギ、しゃべる
「は……なせ、離せ」
耳元で低音のイケオジボイスに囁かれたような気がした。
「離せ、離さぬかっ」
もぞりと腕の中で何かが身もだえ、頬を毛皮が乱暴に撫でる。
「……モフモフ、さいこう」
「ええい、離さぬか! 神聖なる我の体毛をヨダレで汚しおって、無礼であるぞ!!」
「あぁ……?」
イケオジボイスに叱責され、ゆっくりと意識が浮上した。
薄目を開け、毛皮からゆっくり顔を上げる。窓の外からさんさんと降り注ぐ陽の光で室内は眩しく、つけっぱなしだった天井の照明の存在感が薄い。
「やっと起きたか。いい加減に我を離さぬか。聖獣を縛りつけるなぞ、不敬にも程があるぞ」
「……」
毛皮が喋った。
「疲れてんのか……そうだよね、疲れてるよね私」
「何をブツブツと、これ、いい加減に離さぬか」
白ウサギのかわいらしい顔からはかけ離れた、低音イケオジボイスは眠りを誘う。
「おい、やめろ! つまむな、揉むでない!」
「疲れを癒やすためにも、夢の続きはじっくり堪能しないと」
「顔を離せ、吸うな――っ」
パアーン。
毛を纏った棒に頬を叩かれた。
反射的にジンと感じた痛みを手で押さえる、その隙に白いモフモフはするりと彼女の腕から抜け逃げた。
「……痛い」
夢ではないらしい。
「痛いのは我だ! 雄獣の腹に顔を埋め、しかも揉みし抱くなど、異世界のおなごは皆このような破廉恥なのか?」
「……ウサギが、喋ってる」
爪が引っ込められたパンチの痛みはすぐに消えた。
そして現実から目が離せなくなる。
大型犬サイズのウサギがいる。しかも低音イケオジボイスで喋るのだ。
叩かれた頬を己の指でもつまんだ。
「現実……なんで? どうしてウサギ?!」
「叫くでない。何やら臭うぞが」
「あ、キツネ食べずにほっといたんだっけ」
「こ、こちらの世界ではキツネを食するのか? なんと恐ろしい」
ウサギが立った。後ろの二本足で立ち、食われてなるものかと後ずさりする。追いかけると距離をあけられた。おもしろくなって追い回したら、悲壮感で赤い目を潤ませ睨まれた。罪悪感に足を止め、ひとまずカーペットに座って、もう追いかけないと態度で示す。
「ええと、どちらさまです?」
「我はクニークルス。神の使徒にて聖女アレシアの守護獣であるぞ!」
胸を張ってふんぞり返るウサギの姿に、「頭が高い、控えろ」というナレーションが聞こえたような気がした。
「異世界の女、名を名乗るが良い」
「いせかい……ええと、安岡由奈……表向きホワイトな零細でブラックな働き方してる社畜。そっちは?」
「世界の創造神であられるダルダドーダが使わし守護聖獣である」
「ふうん、ファンタジー世界か。守護聖獣って特別っぽいよね」
「うむ、聖なる力を持って生まれた者に、神が相応しい聖獣を選んで授けておる」
「なるほど。異世界から私を迎えに来たってワケか……死んでないから、異世界転移だね」
一週間の社畜労働で思考が変調していたせいか、あるいは心の底からの逃避願望があったからか、由奈はノリノリでウサギに迫った。
「いくよ、異世界。聖女でもなんでもやってやろうじゃない。あ、でも地雷設定は回避したいなぁ。そのへんは守護獣のウサギが助けてくれるよね? ウサギが……もうちょっと強そうな守護獣にチェンジとか……いやいや、このモフモフからは離れがたいし、よし、頑張るよ私!」
パン、パーン。
両頬を張られた。
痛くはないが、ちょっと傷ついた。
「意味の分からぬことを叫ぶでない」
「私が聖女で、ウサギが迎えに来たんでしょ」
「違う! 我の聖女はアレシアただ一人であるぞ」
ああ、なるほど。聖女を救済する人材としての異世界転移なのか。それでもいいか、と由奈は頷いた。
「てことは、アレシアって子が選ばれしヒロインちゃんか!」
「理解が早くて助かるな。ヤスオカユウナよ、我に異世界の知見もたらすがよい」
「何言ってんの?」
「だから異世界の知見である。この世界にはあるはずだ、我が世界でチートとやらになれる素晴らしき知見が!」
「私がそっちに行くんじゃないの?」
「おぬしのような破廉恥者は我の世界にはいらぬ!」
ウサギに断言されて、由奈は落胆した。
チラリと、由奈の視線がベッドサイドに山積みされている本を見る。webで読んで気に入った異世界転生チート覇権系ラノベの紙の本だ。
「私が向こうに行くんじゃなくて、向こうからこっちに来るパターンかぁ」
どうせなら異世界に行きたかった、と由奈がぼやく。
クニークルスとか言うウサギは、ラノベのお約束的なチート知識を求めているらしい。
由奈は首を捻った。
「守護する聖獣の力でヒロインちゃんを守ったり助けたりするんじゃないの?」
神が授けた守りの聖獣なんてご大層な存在なのだから、チート知識なんて奇跡の力で蹴り飛ばしてヒロインを幸せにするものではないのか。
そのあたりを突っ込んで聞こうとした由奈だが、室内のキラキラとした眩しさを無視できなくなっていた。
窓から注ぎ込む陽の光を受けて輝く埃で、愉快でない現実を思い出す。居間で洗濯籠に溜まっている仕事着や、積み重ねられた段ボール箱や転がる空きペットボトル、作ったまま一晩放置された出汁香るキツネ。これらをどうにかせねば、異世界のウサギとの会話を楽しめない。
「おい、ヤスオカユウナ、聞こえておるのか?!」
「ええと、クニークルスだっけ。あんたすぐ帰るんじゃなさそうだし、ちょっと待ってて。お風呂入って、洗濯して、ちゃちゃっと掃除するからさ」
「我は神の使いぞ、話を聞かぬか」
「だから腰据えて話を聞くために時間と場所を作るからさ、そのへんで待っててってば」
開けっぱなしになっているクローゼットに、なだれ落ちていた衣類を戻して扉を閉めた。空の段ボール箱を選んで、空きペットボトルを放り込む。窓を開けて換気をし、汚れ物の入った洗濯籠と着替えを持って脱衣所に向かう。洗濯機が動いている間に自分の体も洗った。
「汚れたまま腹モフしてただなんて、不覚っ」
あんな美しくて心地の良い毛皮に汚れをなすりつけたのかと思うと、昨夜の己をしばき倒したくなる。
「ウサギってシャンプーして良かったんだけっ?」
あとで調べておこう。
風呂から上がり、髪を乾かし終えた直後に洗濯機の仕事も終わった。
一週間分の汚れ物を、日当たりの良い窓際にある室内物干しに乾してゆく。アイロン不要素材の仕事用のブラウスが五枚、下着が五セット、ストッキングやタイツを干す。
「着たまま寝ちゃったからなぁ……」
金曜日に着ていたスーツは酷い皺ができていた。これはしばらく浴室にぶら下げておこう。ジャケットは辛うじてハンガーに掛けてあったが、スカートとパンツは床に落ちており、型崩れとシワが酷い。これも浴室行きにする。
次は部屋の掃除にかかろうとして、遠くで腹が鳴った。
「私の腹の音じゃないよね?」
金曜の昼は忙しくてスープを流し込んだだけだったし、夜は食べないまま寝ていた。朝も目覚めてから食べていないのに、由奈の腹の虫は沈黙を守ったまま。
「ウサギもお腹が鳴るのか。う……じゃない、クニークルスって、草食?」
寝室をのぞき込むとと、毛の薄い耳の先を真っ赤にしたウサギが、顔を隠すように床に伏せっていた。
「お腹減ったよね? 朝ご飯作るけど、植物以外に食べられる? 生じゃないとダメ?」
「わ、我は、聖獣だ。動物ではない」
「人と同じ物を食べられるってことでいい?」
「……供物は何でもありがたく頂く」
「それはすごく助かるよ~」
何しろ由奈の部屋にある食料はとてつもなく偏っているのだ。
「何でも大丈夫っていっても、いきなり豚骨ラーメンとかは不安だから、お粥にしとこ」
居間に積み重なった段箱の中から、レトルトのお粥を選んだ。空腹なようなのでウサギには三パックを、自分にも二パックを器に移し、ラップをして電子レンジに放り込む。温めている間に昨夜のキツネうどんを片付けた。ローテーブルを拭き、座椅子の向かいに詰んである本を壁際に寄せ、空箱を潰してまとめ、クニークルスの場所を作る。
「あ……ウサギって、スプーン持てるのかな」
自分と同じ大きめのスープボウルでお粥を用意してしまった。
「神の使いなら何とかするよね?」
動物の手がどのようにして握るか、好奇心に負けて自分と同じスプーンを添える。
「ふむ、地味だが美味いな」
ウサギは器用にスプーンを握り、熱々の粥で舌を焼かぬよう、ゆっくりと食べた。
「これほど白い米は珍しい。さすがは異世界だ」
「クニークルスの世界にお米あるの?」
「あるぞ。煮たり炊いたりして食している」
お米を探して奮闘するラノベ世界ではないらしい。
由奈は少しばかりがっかりした。




