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対価に「1日1回の腹モフ」を要求します!  作者: HAL


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1/19

1 ウサギ、現れる


 オフィス街の端っこにあるビルを出たとたんに目にするのは、学校帰りの学生でも、買い物帰りのマダムでも、仕事帰りの勤め人でもなく、駅に向かう足もとの覚束ない酔っ払いだ。

 ほとんどの店がシャッターを閉め、灯りは街灯と広告くらい。そんな夜道を最寄り駅まで歩き、酔っ払いの多い車内で眠って乗り過ごさないよう気を張りながら時間を過ごし、自宅最寄り駅から真っ暗な徒歩八分を思うと、一日の業務を終えて解放されたはずの体がずしりと重くなった。


「……帰るの、面倒くさい」


 会社に戻って休憩室で眠ってしまいたい誘惑に駆られた。だが、彼女は最後の力を振り絞って駅への道を一歩踏み出す。


「モフモフを……家に帰らないと、モフれない……モフりたい……モフる……帰る…………」


 通販で手に入れた限定品の、手触りそっくり猫ちゃんフェイクファーの毛布で作ったクッション、それに顔を埋め、思う存分に肌触りを堪能し、膝に抱えて夕食を食べて癒やされるためには、何としても帰らねはならないのだ。

 それに明日は土曜日、待ちに待った週末だ。完全週休二日なのに会社になんていたくない。


「……よし、帰るぞ」


 ズズズ、とあがらない踵をアスファルトにこすりつけながら、彼女は何とか駅に辿り着き、電車に乗り、かろうじて乗り過ごすことなく最寄り駅でおりた。駅からアパートまで徒歩八分。通行人は誰一人居ない暗い夜道を、泥のようにのったりと歩いて部屋に辿り着く。


「……あ、宅配ボックス」


 エレベーターに乗る前に思い出し、宅配ボックスから内容物にしては大きすぎる箱を回収した。

 部屋に入るとセンサーライトがついた。視界に現れた積み重ねられた段箱の上に新たな箱をのせ、転がっているペットボトルから目を逸らせつつ、鍵を閉める。

 靴を脱いだとたん膝が崩れた。鞄を玄関に放置して短い廊下の照明をつけ、這う。転がっていたペットボトルの中から、未開封の物を探し出し、テレビの前のローテーブルに置きっぱなしの電気ケトルを満たしてスイッチを入れた。つぎはご飯だと、そこかしこに積み重なっている段箱に手を突っ込んだ。


「……ヤキソバは湯切り面倒……、豚骨……胃にクルからダメ、出汁香るキツネ……これにしよ」


 廊下から漏れる明かりで判別し、ペリペリとパッケージを剥がして、湧いた湯を注ぐ。

 テレビをつけて時間を確かめ、待ち時間の間にメイクを雑に落とす。

 さあこれから至福の時間だ、と本物そっくりな手触りのファーを求めて手を伸ばしたが、ない。


「灰色ちゃん、どこ?」


 テレビ前のローテーブルと座椅子の脇が、美しい灰色の、手触り最高なフェイクファークッションの定位置だ。なのに見あたらない。

 億劫で着けていなかった部屋の照明を入れたことで、見るに堪えない散らかり具合の部屋が視界を占めた。転がる空きペットボトル、一週間分の仕事着の投げ入れられた洗濯籠、何もかけられていない室内物干しとハンガー、開封済・未開封のまじる通販の段ボール箱、未読の本のタワー。


「う……どこにまぎれちゃったんだろう」


 段箱の間に挟まれているか、間違って箱に入れてしまったか、脱いだブラウスを被せてしまったのか。まさかゴミ袋には入れていないはず、と思い当たる場所を探したが見つからない。その間にも、出汁香るキツネうどんがどんどん伸びてゆく。

 疲労と焦りと絶望とで半泣きの耳に、異音が聞こえた。

 ゴト、ゴト、と。

 隣の寝室で物音がするのだ。

 ここは一人暮らしの2Kだ、合鍵を渡している相手もいないため、不在時に部屋に来る者はいない。


「窓から、侵入者?」


 110番か、とスマホを取ろうとして、鞄を玄関に放り出したままなのを思い出す。音を立てないように苦労して玄関に戻り、鞄からスマホを取り出した。右手はすぐダイヤルできるように構え、空いた左手に水の入ったペットボトルを棍棒のように握る。

 ゴト、ゴト。

 何かを押しているような、こじ開けようとしているような音だ。

 まだ侵入されていないのかもしれない。ここは三階だ、ベランダから侵入しようとしているのなら、叩き落としてやろう。


「大丈夫、立派な正当防衛だし」


 一人暮らしの女性が侵入者から身を守ろうとしての行動だ、手加減など必要はない。

 気合いを入れ、引き戸を小さく開けて、寝室をのぞき込んだ。

 レースのカーテンはピクリとも動いておおらず、侵入者とおぼしき影もない。

 ゴト、ゴトゴト。

 音のした場所を見る。

 クローゼットだ。

 まさか隠れているのか。

 ペットボトルを握る手に力がこもる。

 指が1を二度タップした。

 最後の数字に指がかかるよりも早く、バアン、とクローゼット扉が内側から勢いよく開いた。


「ひいっ」


 指が間違った数字をタップした。

 何かがクローゼットから転がり出る。


「……え?」


 暗がりでよく見えないが、人間にしては小さい。


「まさか、子ども?」


 小学生くらいの大きさの物体が、雪崩れ出た彼女の服の上で昏倒しているように見える。

 別の意味で通報案件になりかねないと慌てた。

 いったいどこから侵入したのか。しかも小学生のくせに女性のクローゼットに入り込むなんて将来が怖すぎる。通報は致し方ないが、こちらに非がないとどう証明したものだろう。110にすべきか119にすべきか迷っている間も、侵入者は動かない。


「し、死んでないよね?」


 死体の場合は110だろうか?

 慌てて部屋の照明をつける。

 振り返った彼女が見たのは、小学生でもなければ、小柄な成人でもなかった。


「……モフモフ?」


 段ボール箱とベッドの間で倒れているのは、真っ白な毛皮だった。


「白いファーの服なんて持ってなかったはず……」


 ペットボトルを置いて、そろりと手を伸ばした。

 触れた毛皮は艶があり、灰色ちゃんよりもしっとりとした手触りだ。


「あったかい……なにこのモフモフ」


 手に力が入った。スマホも放り出し、両手で毛皮の流れに沿って撫で、指先を毛の中に埋めて揉んだ。


「むっちりしてるけど、意外に硬い。中身があるのか……」


 両腕でしっかりと抱ける大きさで、見た目通りの重さだ。

 抱き上げ、ひっくり返す。


「ウサギ?!」


 着ぐるみではなかった。

 まっ白な、耳の長い、あのウサギだ。動物園のふれあいコーナーで撫でていたあのウサギが、子どもサイズの大きさで目の前にいた。

 硬く目を閉じたウサギの鼻が、ぷすぷすと小さく動き、髭がかわいらしく揺れる。


「――これは、夢だね」


 無意識のうちに両手がウサギの耳に触れ、背を撫で、足の弾力を楽しみ、腹を揉んでいた。


「クローゼットからウサギが転がり出てくるなんて、最高の夢だ」


 夢なら存分に味わなくてはもったいない。

 このなめらかでやわらかな手触りの毛皮を、見失った灰色ちゃんの代わりに存分に堪能してやろうではないか。


「裏切りじゃないよ。灰色ちゃんは癒やしだけど、これは癒やしのボーナスなんだから、堪能しなきゃもったいないんだから!」


 夢から覚めるまでの短い間だけだとクッションに言い訳しつつ、彼女は白ウサギの腹に顔を埋めた。


「腹モフ……最高っ」


 抱きしめた毛皮のなめらかさと、ずしりとした心地良い重み、押しつけた鼻で嗅ぐ乾いた草のような香り、そしてトクントクンと伝わってくる心音に抗える者などいない。

 昏倒した巨大白ウサギを強く抱きしめ、腹に顔を埋めたまま、彼女は眠りに吸い込まれていった。



毎日お昼に更新します。

完結しています。

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