11 ウサギ、労る
空からの光を全く感じられなくなると、クニークルスはカーテンを閉めた。部屋の照明をつけようとして、己の存在を外部に知られてはならぬのだからと思いとどまる。暗闇にテレビの明るさが際立つが、カーテンを閉めているのだから外部にはわからぬだろう。
日が暮れてずいぶんと立つのに、家主は戻らない。
テレビ画面の隅にある時刻の表示は、この世界でいう夜中である。
カーテンの隙間から見える外は、確かに夜であるのに、小さな昼があちこちに見える。己の世界からは考えられない明るさだ。
「簡単に昼間のようにしてしまえるから、この世界の者は夜を忘れて働くのだろうな」
クニークルスは暗闇の中でテレビ画面の光だけを伴に由奈の帰りを待ち続けた。
時刻表示が変わってゆく。
あと数分で日付が変わるというころ、ガチャガチャと鍵を開ける音がして扉が開いた。
ドスン、ドスン、と落とすように荷物を置く音がする。
「帰ったのか。遅かったな」
家主が帰還したのだ、もう灯りをつけても良かろうとスイッチを押す。
由奈を迎えようと玄関に向かおうとしたクニークルスは、引き戸を開けた瞬間、腹に重くて強い衝撃を受けた。
「ぐふぅっ」
「腹モフ!!」
「ひいっ」
帰宅と同時に由奈は鞄と通販の箱を放り出し、靴を脱ぎ散らかした。電気ケトルをセットしたところで居間の灯りがともり、磨りガラス越しに見える二足歩行のシルエットを見た瞬間、彼女は理性を忘れていた。
「ああぁぁー、もふもふぅ」
「うおぉぉー、掴むなぁ、揉むなぁぁぁ」
「癒やされるぅ――土日に休んでなんで文句言われなきゃならないのよ! ウチの会社は土日休みの完全週休二日じゃない。みんな仕事してるって? はんっ、あんたら営業は平日に代休取るんでしょ! 私の休みは土日なの! カレンダーの赤字できっちり休むために平日に遅くまで仕事してんの! サービス残業がんばってんのっ!! サボってなんかないっつーの!!!!!!」
「腹で叫ぶなぁぁぁ」
ピー、と湯沸かしから音が鳴って、由奈が正気に戻った。
「あ、うるさかったよね。ごめん」
「耳が……耳が」
クニークルはウサギの聖獣だ、長い耳が音を拾う精度は高く、耳元で叫ばれるのは苦痛でしかない。
ウサギの苦情にボリュームを落とした由奈だが、しかしまだしっかりとクニークルスを抱えたままだ。肉球がぺちぺちと彼女の頬を叩き、「離せ」と怒りを抑えた声が要求する。
「まだ一時間経ってないし、離したら今日の分が終わっちゃうでしょ」
「顔を埋めるのは約束違反だ、破廉恥な行為は控えよというておるのに」
「もう、細かいなぁ」
由奈は毛皮を味わっていた腹から顔はあげたが、クニークルスは離さなかった。抱っこしたままインスタントスープを作り、冷凍弁当をあたためた。そして抱きかかえたまま食事がはじまる。
「クルスはさ、今日何してた? アレシアちゃんによさそうな知見っての、見つけられた?」
「こちらには有用な物がありすぎるのだ。しかも我が世界で、アレシアに役立てるかわからず困っておる。ヤスオカユウナの見解を聞きたいのだが」
「ふわぁ……うん、いいよ。何がわかんなかった?」
「それなのだが……」
欠伸をこらえる由奈の顔を見て、クニークルスは口を閉じた。
朝の由奈は、表情はともかく、血色のよい明るい顔色をしていた。なのに帰宅した彼女の顔色は血の気がない。クニークルスの腹を揉んで楽しんでいるせいか、表情に悲壮感がないのが救いか。そのギャップが気にかかった。レンチンの夕食もあまりすすんでする様子がない。
「いや、またでよい。それより食事を最後まで食べよ。この世界は美味いものが安価に手に入るようだが、だからといって無駄にしてよいわけではないぞ」
半分ほど残ったままの冷食弁当を指して促すと、由奈は面倒くさそうに箸を持つ。
残せば生ゴミになるだけだし、後始末の面倒さを考えれば完食する方が楽なのは自覚している。だがどうにも箸がすすまないのだ。胸のあたりが重くて、食べる気になれない。惣菜を小さくほぐしてのろのろと口に運ぶ由奈に、クニークルスの諦めたような声がかかる。
「せめて汁物は飲め」
「……うん」
フリーズドライのインスタントスープは、やさしい味付けの卵スープだ。少し冷めたそれをグイッと飲み干す。
「明日も朝と同じ時間に出かけるのだろう? そろそろ寝所で休んだほうが良いぞ」
「まだ一時間経ってないもん」
一日一回なのだから、しっかり堪能しなくてはもったいない。由奈はそれを楽しみに一日を耐えたのだから、一秒たりとも無駄にはしないと決めていた。
「……わかった、一時中断を認める。おぬしが戻ってからこちらの数え方で三十分が経っておる。残る三十分を保証するから、寝支度をととのえるが良い」
「一日二回になっちゃうけど、いいの?」
「今日だけだ。明日からは中断は認めんから、帰宅して飛びつくのはやめよ」
一時間を使い切れるよう準備してからにしろ、と釘を指された由奈は、名残惜しそうにクニークルスの後頭部に顔をこすりつけてから、由奈は物干しから下着とパジャマをとって風呂へと移動した。
風呂をあがり、食べ残しや容器を片付けて、クニークルスに手を伸ばす。
「待て、あちらでだ」
「ベッド? 何よ、破廉恥じゃないの?」
ニヤニヤする由奈の足を蹴りつつ、クニークルスはとある企みのためにぐっとこらえて彼女をベッドに連れて行った。布団に入った由奈に拘束され横たわる。
「ちゃんと三十分計ってるからね」
「……わかっておる」
枕元に置いたスマホの時刻表示をしっかり確認した由奈は、クニークルスを抱きしめる腕に力を込めた。
「あぁ、もふもふ……もっちり、あったかい……」
「くっ」
両手の指で腹を揉まれ、快も不快も定かでない奇妙な感覚に耐えるのはわずかな時間だった。
五分もしたところで由奈の指が動かなくなり、十分も経たずに腕の力が抜けた。
するりとベッドから滑り降りたクニークルスは、目論見通りになったと満足していいはずなのに、その表情は暗い。
「異世界の知見を託せば、アレシアもこのようになってしまうのだろうか」
それでは治癒魔法を強制する後見人と同じではないかと、眉間に苦悶のシワを寄せて眠る由奈を見守りながら、クニークルスはため息をついた。
+
家主の顔色が日に日に悪くなっている。
毎朝、戦場に向かうような気合いを入れて出かけ、毎夜のように巨大な重しを背負っているようなぎこちない動きで帰宅する。死んだ魚のような目でレンチンした食料を流し込み、儀式のように湯を浴び、クニークルスにしがみついて奉公先の愚痴をこぼし、気絶するように眠るのだ。
そんな家主の生活は、この世界の常識を知らぬクニークルスの目にも異常に映った。
「おぬしの奉公先は、何かしらの問題があるのではないか?」
彼の世界でも、ここまで雇い人を消耗させる商家はない。あったとしてもその評価は最低だろ。この世界でこれが標準というのなら、知見が真似できぬのも納得ではあるが。
「ウチは弱小だしね……去年営業事務が一人辞めたのに、補充がなくて。でも営業がバンバン新規案件決めてくるから売上は伸びててさ。営業資料の更新とか、契約後の事務手続きとか手が足りないから手伝えって言われてさ……てか、新しい企画とか報告書とかプレゼン資料は自分で作れよ! 作って欲しけりゃせめて資料を寄こせって! ぜんぶこっちでやれ? 売上実績の数字集めも、分析も、しかも明日まで? 私は一般事務だっての!! ふざけんなぁぁぁ。あいつら契約とる以外は俺の仕事じゃないとか抜かしやがるんだよ! てめえが押しつけてるのは私の仕事じゃないんだよっ!! 取引先に提示する資料も、上への報告書も、誰が下準備してると思ってんだ。てめぇらは私らが用意した材料で契約取るんだろ? 美味しいとこだけ持ってくじゃねぇ! 下ごしらえも手伝え――っ!!」
「叫ぶなと言っておるだろうが! それと後頭部に水鼻を擦り付けるでない!! 離せ!」
見えなくともわかるのだぞと後ろ足で蹴って抗議すると、腹に回された腕に力がこもった。
「ああん、唯一の癒やしぃぃ。一日に一回の約束でしよっ」
「約束に水鼻を擦り付ける行為は入っておらん!」
抱えられるのも、全身を揉みほぐされるのも、破廉恥だが契約だから仕方ないと呑み込んでいるが、毛皮を汚されるのだけは許せない。クニークルスは手を伸ばしてウエットティッシュを掴み取り、水鼻で汚された頭の毛を丁寧に拭いた。
「余計かもしれんが、おぬしはその商家以外の奉公先は望めんのか?」
「転職かぁ……ウチの会社、サービス残業無制限だけど、お給料は良いんだよねぇ」
生活費を考えずに散財しても余る給与が口座残高を増やしている。
「散財……しておるのか?」
「カップ麺大箱買いしても、冷凍弁当まとめ買いしても、アイロンいらずで洗濯機OKなブラウスまとめ買いしても、ぜんぜんお金減らないんだよ!」
「他の物は買っておらんのか?」
「他に何買うのよ……あ、本物そっくりにゃんこの手触りフェイクファーは買ったよ。お一人様の制限枚数上限をどーんと」
一枚をクッションにしたが、もう二枚は予備として大切に保管している。あれは良い買い物だった、と由奈は満足そうだ。
「他には?」
「本も買ってるよ。読めてないけど……睡眠時間削れば読めなくはないけど」
「そちらは急いで読まずともよい。他には?」
「他に……買いたい物、ないからなぁ」
その返答に、クニークルスは何とも言えぬ顔で、腹を締めつける腕をポンポンと撫でた。
「……クニークルスがやさしい」
「残り時間は三十分だ、黙って揉んでおれ」
ベッドに横になってから喋らせたせいで、由奈の眠気が遠ざけられてしまったようだ。由奈の睡眠時間の確保のためにも、己が早く解放されるためにも、できるだけ穏やかな時間を作らねばと、クニークルスは腹揉みに耐えたのだった。




