10 ウサギ、留守を守る
西に沈んだ太陽は、再び東から昇る。
月曜日が来た。
スマホのアラームを止めると、遠くに置いた目覚まし時計が鳴る。のっそりと起きあがって手を伸ばすが、当然届かない。
カーテンのスキマからやさしい朝の日差しが寝室にさしこんでいた。
ベッドからおりてOFFのボタンを押す。時計の時刻は六時十三分。
「……仕事、行きたくないぃ」
だが行かねばならない。週末に先送りした仕事が待っているのだ。
土日ですっかり軽くなっていた体が重かった。パジャマを脱ぎ捨てながら居間に行く。室内物干しに乾しっぱなしのブラウスを引きずり落として袖を通し、スカートを履く。
「お、おぬしは本当に慎みを知らぬ女性だな!」
狼狽と怒りで震えるイケオジボイスが耳に飛び込んできた。
毛皮をかすかなピンク色に染めたウサギが、足を踏みならして怒っている。寝ぼけた頭に土日の至福がよみがえり、目の前で「慎み!」と叱りつけるウサギの存在に、由奈の背中が少しだけ軽くなった。
「おはよう、クニークルス」
「朝の挨拶は良いが、着替えは寝室で済ませろ。慎みがなさ過ぎるぞ」
「一人暮らしだとこんなものだよ」
「我がいるのだぞ!」
「聖獣だし」
「だが、雄である!」
「はいはい。気をつけますって。朝ご飯どうする?」
冷凍食品にするか、レトルトの粥にするかと問うと、クニークルスは粥が良いと拗ねたように呟いた。
電子レンジが仕事をしている間に、顔を洗い髪を整える。
ホカホカと湯気の立つ粥を一緒に食べながら、クニークルスに留守中の注意事項を説明してゆく。
「電子レンジの使い方は……と、その前に文字読める?」
「おおよそは」
では食事については心配しなくても良さそうだ。テレビの使い方は教えてあるし、あとは。
「ペットボトル開けられそう?」
「むむ、握りづらいが、何とかなる」
「手を洗うのは水道でね。ここを操作して。ゴミはこの袋に入れるか、そのままにしといてくれたら帰ってきて片付けるよ」
「うむ、迷惑をかけぬように心がけよう」
鼻先についた粥をペロリとなめとる仕草を見て、由奈の手がワキワキと悶えた。髭を揺らせるクニークルスと、脇に置いたフェイクファークッションとの間で彷徨っていた由奈の手は、楽しみは帰宅後だとクッションを選ぶ。本物そっくりの毛皮を撫で、頬を押しつけて感触を楽しんでいると、スマホのアラームが鳴った。
会社までの通勤時間を逆算して設定してあるアラームだ。ゴミ出しもあり、月曜の朝は前倒しで行動しないと間に合わない。
「うう、行きたくないけど、行ってくるね……」
畳んだ段ボールを寄せてパンプスを履き、ゴミ袋二つを持って振り返る。
「戻ってきたら、覚悟しておいてちょうだい」
夜の腹モフへの期待を支えに、由奈は出勤していった。
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出がけの由奈の言葉が蘇り、腹を揉まれる夜を想像してクニークルスは震えた。
「どうしてあれほど我の毛皮に執着するのであろうか……異世界の女性はわからぬ」
由奈がスタンダードではないのはわかっている。テレビを通して知った知識では、毛皮に異常なまでの執着を見せる人間の割合はそれほどいないようなのに。どうして世界を超える魔術の出口がここであったのか、己の世界に戻ったときに神に問うてみたい。
「しかし……」
一人残された部屋を見渡したクニークルスは、乱雑だとぼやいた。
「まったく片付けられておらんではないか」
山積みの箱はなくなっているが、洗濯物は干しっぱなしだし、つうはんとやらで買った品々も雑にまとめられているだけだ。ホコリは払われており清潔ではあるが、とってつけた感が強い。
出かけてゆく由奈の強張った表情を思い出した。クニークルスと偽毛皮の間で迷い動く手は、彼女の疲労と覚悟の象徴のようだ。
「あの表情は、まるで死を覚悟した戦に出るようであった。この世界の商家務めとは、あれほどまでに厳しいものなのか。であれば奇行に走るのも致し方ないかも知れぬ……認めたくはないがな」
由奈が頬ずりしていたフェイクファークッションを拾い、日向に置く。座椅子をその横に移動させ、クニークルスは魔力充電の日向ぼっこをはじめた。
「あのような若き女性が、毎日戦に向かわねばならぬとは、こちらの世界は平穏のように見えて、修羅なのだな」
そのような世界で自分が居座っては迷惑だろう。一日でも早く魔力を回復させ、元の世界に戻らねばと思うが、そのためには異世界の知見を得ねばならない。
「音量とやらは、これか」
リモコンのボタンを押して、テレビをつけ音量を下げた。
日差しの心地よさに眠りに引きずられそうになっても、なんとか画面に集中して異世界の風俗を学んでゆく。
太陽の位置が高くなると、日向の場所も変わる。
座椅子を動かしていると、台所のインターホンが鳴った。
ピンポーン。
ピンポン、ピンポーン。
『留守か。あ、ここは宅配ボックスだった』
声がしてプツッと音が途切れた。
家主のいない部屋は意外に騒々しい。
換気のために開けている窓からは、子どもの甲高い声や、自転車とかいう乗り物がチリンチリンと忙しい音を立て通り過ぎる音が頻繁に聞こえてくる。それらが通り過ぎると、遠くでガタンゴトンと大きな物体が通り過ぎる気配がした。
「あれが電車というものだな」
クニークルスは五感に届く情報を、テレビ画面で得た知識で補完してゆく。
家主と共通した着衣の人間が出てくる番組が最も多い印象だ。男女が並んで情報を読み上げるものは、知見が得られそうな予感がするのだが、前提知識の必要性が高すぎて今のクニークルスには難易度が高かった。遠い地の風景を映し出すものは、見ていて飽きないが得らる知見は少ない。物語仕立てのものもあるが、こちらのほうが生活に密着しているせいか、ヒントは多そうだ。
物語仕立てと言えば、先日の若騎士のような風俗の者たちが多く揃ったものは面白かった。由奈によれば三百年以上も過去の風俗を再現し、当時の生活や暮らしをもとに物語に仕立てているのだとか。若騎士の時代はクニークルスの世界の生活と似通うところがあり、見ていて心が落ち着いた。
驚いたのは、異世界では絵が動き喋る点だ。こちらはクニークルスの世界に似たものも多く、懐かしいやら切ないやらの感情が湧いた。
「しかし、難しいの……」
テレビ画面を通じて知る異世界の知見は素晴らしく、自世界に上手く取り入れられれば人々の生活はずっと豊かになるだろう。だがそれをアレシアにさせると考えると、とたんに難しくなるのだ。
「宅配も郵便も、こちらの知見であったのだな。まだ取り入れていないものと言ったら、鉄道か。しかし交通網は、平民の、しかも個人では厳しすぎる。国に上申したとしても、アレシアの功績にはならぬであろうしな……やはりレンチン。いや、あれは一定の財と人脈を作ってからでなければ難しい」
目の前の画面からは知見が溢れているというのに、被守護者が安全にはじめられて利の大きいものとなると、とたんに精査が難しくなる。
もっと異世界の知識を学ばねばと、クニークルスはリモコンを操作するのだった。




