第6話『黒い娼婦』
渋谷駅のハチ公前。
腕時計に目をやりながら、男はそわそわと辺りを見回していた。約束の時間を、三十分も過ぎている。
生まれて初めて取れた、テレクラのアポイントメント。都内の高校に通う十七才だと言われ、のこのことこんなところまで出向いてしまったが、やはりからかわれたのだろうか。
「すいません。スギウラさんですか?」
諦めて帰ろうと思った矢先、背後から声をかけられる。声から察するに、若い女だ。
振り返ると、少女が杉浦に向かって微笑みかけていた。高校の制服に疎い杉浦にも解る、都内の有名女子高のセーラー服を着ている。
「スギウラさん、ですよね?」
「もしかして…チエコちゃん?」
「はい。すいません。授業が長引いちゃって…」
少女は、心から済まなそうに頭を下げた。想像していた以上に可愛らしい。杉浦は、密かに生唾を飲み込んだ。
「…い、いや…全然大丈夫だよ。実は、こっちも仕事でちょっとしたトラブルがあってね。ちょうどさっき着いたとこだったんだ」
本当は一時間も前から待機していたのだが、少女の気持ちを和らげたくて嘘をつく。
「スギウラさんって、優しいんですね」
「いや…別にそんなことは……」
「それより、早く行きません?」
「えっ!?」
あまりに性急な少女の誘いに、杉浦はさすがに面喰らった。
「実は…あたしこの後、予備校の授業があるんです。だから、あんまり時間がなくて……」
「あっ、あぁ…そうなんだ」
「それに…あたし、セックスが大好きなんですよね。だから早くスギウラさんに抱かれたくて、うずうずしてるんです」
うっすらと頬を染めながらそう言って、杉浦の腕へと自らの腕を絡ませる。
「ねぇ…早く、ベッドの上であたしをめちゃくちゃにして…」
だらしなく鼻の下を伸ばした杉浦にぴったりと密着して、少女は歌うように囁いた。
「知永子さん、お電話よ」
部屋で明日の予習に励んでいた知永子を、階下から澄江が呼ぶ。
「スギウラさんって、男の方」
澄江は、好奇心を露にした表情で受話器を差し出した。聞き覚えのない名前を不信に思いながら、知永子は電話を代わる。
「はい、もしもし。お電話代わりました」
「ごめんね。今のお母さんだよね?ちょっとまずかったかな」
馴れ馴れしい男の口調に戸惑う。
「あの…失礼ですけど、どなたですか?」
「またまたぁ、どなたですかとはご挨拶だな。さっき、あんなに激しく愛し合った仲じゃないか」
「はい?」
「君は最高だったよ。ぜひまた会いたいと思ってさ。だから別れたばっかりなのに、こうして電話しちゃったってわけ。ねぇ、お小遣いは弾むからさぁ…」
「人違いです!!」
知永子は声を荒げて、受話器を叩きつけた。何の間違いだか知らないが、あまりに不愉快過ぎる。
「どんなお知り合い?声から察するに、大人の方みたいだったけど」
「ひ、人違いです!」
「あら、そうなの?でも、おかしいわねぇ。ちゃんと知永子さんと代わるようにって言われたのよ」
澄江は、冷ややかに言った。
「…まぁね、知永子さんももう子供じゃないんだから、あんまりとやかくは言いたくないんだけど、余所様の耳に入って恥ずかしいようなことだけはしないで欲しいものだわ」
と皮肉たっぷりな口調でつけ加えた。
〈知永子は、何か自分の預り知らぬところで芽生え出した黒い悪意の気配に怯えていた。それが、まだほんのささやかな序章に過ぎないことに気づかずに。〉
「変な電話?」
「えぇ、そうなの…」
放課後、照矢のアパートに立ち寄った知永子は、昨夜の不審な電話の一件を彼に報告する。初めての口づけを交わしたあの時のように
「俺が守ってやるから」
という言葉と共に、安心させて欲しかったのだ。
しかし、知永子の期待に相反し、照矢は俯き、考え込んでしまった。
「……本当に、心当たりはないのかい?」
「えっ!?」
「例えばさ、ナンパされて軽くお茶したのを勘違いされたとか…」
「何を言ってるの?照矢は、あたしがそんな軽薄なことをするような女だって思ってるの?」
「もちろん、知永子に限ってそんなことないって信じたいけど…。でも、火のないところに煙は立たないって言うし……」
「そんな…ひどいわ」
知永子は、思わず涙ぐんだ。
照矢の言葉が哀しい。彼の口から、そんな言葉を聞きたくなどなかった。
「ごめん…。別に、そんなつもりじゃないんだ。ただ…」
気まずい沈黙が、ふたりを包む。知永子はいたたまれなくなり、照矢のアパートを飛び出した。
「お姉ちゃん、どうしたの?そんな思い詰めた顔をして」
知香子から声をかけられ、知永子は思わず身構えた。
「何よ、そんなに身構えなくたっていいじゃない」
知香子の口調は、いつになくやわらかい。
「…知香子?」
「本当にごめんなさい!」
ふいに、知香子が頭を下げてきた。
「知香子…」
「いくら何でもやり過ぎたって、あたし反省してるの。謝って許されるようなことじゃないってことは解ってるけど、せめて謝らせて欲しいの。ごめんなさい!!」
目尻に涙を溜めて、知香子はそう続けた。知永子の心の中、知香子への警戒心が一瞬にして解れていく。
「知香子…いいのよ」
「…じゃあ、許してくれるの?」
涙で頬を濡らした知香子が問いかけてきた。
「当たり前じゃない。それより…わたしの方こそごめんなさいね。結果的に、知香子から照矢さんを奪うような形に成ってしまって……。わたしも、ずっと知香子に謝りたいと思っていたの」
「ううん。別にお姉ちゃんは何も悪くないわ。もちろん照矢も。きっと、そうゆう運命だったのよ」
「知香子!!」
姉妹は、ひしと抱き合う。
知香子を胸に抱き、知永子は思った。たとえこの身に流れる血が半分しか繋がっていないのだとしても、やはりわたし達が姉妹であることに変わりはない。わたし達はこの世にふたりだけの永遠の姉妹なのだ、と。
まさか自分の胸の中の知香子が、笑いを堪えているとも知らずに。
翌日、学校帰りの知香子は、弾むような足取りで電話ボックスへと入り込んだ。テレホンカードを差し込み、慣れた手つきでダイヤルを押す。
コール音を待つまでもなく、相手に繋がった。
「あっ…もしもし…名前は?いくつかな?」
受話器から聞こえる、気弱そうな男の声。知香子は当たり前のようにこう答えた。
「知永子、都内の高校に通う十七才よ」
〈全ては、知香子の策略だった。愛する男を奪い去っていった憎き姉を貶めるために、彼女は黒い娼婦へと変貌した。
こうして血よりも濃い姉妹の愛憎劇は、更なる深みへと嵌まり込んでいくのである。〉
つづく




