6.(Case2)医学研究所の助手令嬢の案件(2)(sideフィリア)
一週間後。王立医学研究所による『症例発表会』が開かれた。
研究所自体は王都の外れにあるけれど、会場は中心部の中央広場に面した大学の講堂だ。
講堂は、石造りの荘厳な建物だった。半円形の会場に並ぶ木製の長椅子は、既に学者や貴族、資産家の後援者たちで埋め尽くされている。
壇上には大きな黒板、後方には標本を並べた棚。ここで優れた研究を示せば、研究者として大きな評価を得られるらしい。
――今日の発表者は、ギルベルト・ハインツ博士。
そしてその影に、助手であり婚約者でもあるクラリッサが控えている。
あたしは一番前の席に座って、壇上の二人を見上げていた――研究所所長のエルマー博士の姿で。本物の博士には、大学の一室のソファで眠ってもらっている。
――前回のカロリーヌと同じで、姿が見えない魔法をかけてるから、気づかれる心配はないと思う。
小さく「あ、あ、こほん」と声を出した。
いかにも年配の博士らしい少ししゃがれた低めの声だ。
おじいさんのエルマー博士に化けるには、見かけの姿だけ変えるんじゃなくて骨格から身体を変えなきゃいけないから、ちょっと手間だったけど。
壇上に立つクラリッサの背筋はまっすぐで、深藍のドレスの上に羽織った白衣がよく映えていた。彼女の灰色の瞳には緊張の色が宿るが、それ以上に確かな自信も輝いている。
「本日の演題は――『蒼光草軟膏による竜化症患者の治療経過』」
ギルベルトが朗々とした声で演題を告げると、会場から小さなどよめきが起こった。竜化症――皮膚が竜の鱗のように硬化し、ひび割れから膿が滲む恐ろしい病。貴族でも庶民でも等しく罹患するため、人々の関心は高い。
ギルベルトは胸を張り、資料を掲げながら続けた。
「患者十二名を対象とし、私の開発した蒼光草軟膏を四週間塗布。その結果、初期段階の症状であれば、ほぼ完治させることに成功しました」
「私の開発した」という言葉に、壇上の横に立つクラリッサの眉がわずかに動いた。だが彼女は言葉を飲み込み、唇を固く結んだ。
ギルベルトは黒板に貼られた図を指し示す。
「ご覧ください。発赤が消えるまで平均十四日。鱗状の皮膚が剥がれ落ち、柔らかな新皮が現れるまで平均三週間。初期症状でこの薬を塗布すれば、痕を残さず、治療が可能です」
客席から感嘆の声と拍手が起こる。
だがあたしは、彼の声にほんの少しの上ずりを感じ取った。これは、全部クラリッサがやった研究。彼は彼女の記録を奪い、自分のものとして語っているにすぎない。
――さて。舞台は整ったわね。
壇上で得意満面に語るギルベルト。その背後でクラリッサは緊張に震えながらも、冷たい視線を彼の背に突き刺していた。
やがて発表が終わり、司会者が告げる。
「それでは、質疑応答に入ります」
あたしは手を挙げた。ざわめく会場。
「エルマー博士……ご質問ですか?」
司会者が困惑した様子で壇上に呼びかける。
所長であるエルマー博士自身が直接質問することは、普段はそんなにないのかもしれない。ゆっくり立ち上がると、周囲が一斉に注目した。
「……実に興味深い研究だ」
低く響く声で言う。聴衆の誰も疑わない。
「ハインツ博士、一つお聞きしたい。蒼光草の薬効を損なわず軟膏にするため、どのような処理をしたのか? 煮沸すれば有効成分が失われるはずだが、どのように処理したのだ?」
会場が静まり返った。
ギルベルトは一瞬まばたきを繰り返し、視線を泳がせる。
「そ、それは……ええと、乾燥させて……煮てから……いや、粉にして……」
ぎこちない問答に会場がざわめいた。
ギルベルトの口は半開きのまま固まり、言葉が出てこない。
代わりに横に立っていたクラリッサが、一歩前に出た。
「日陰で七日間干し、粉末にすり潰した後、竜脂油に直接練り込みました。火を使うと揮発してしまう成分があるためです」
明瞭な声。会場に再びどよめきが走る。
ギルベルトは顔を赤くした。
「くっ……助手が細部を担当しているので、つい、ね……」
苦しい言い訳だ。
あたしはさらに追撃した。
「では次に――竜化症による硬化した皮膚の剥離過程について。最初に柔らかくなった部位はどこか? 背部か、四肢か?」
ギルベルトはまた沈黙した。額に汗が滲み、口をぱくぱくと動かすばかりだった。
クラリッサが即座に答える。
「関節部です。肘や膝が先に柔らかくなり、動きやすさが回復しました。その後、背部の鱗が剥がれ始めます」
客席から「ほう」と感心の声があがった。
聴衆の視線が、完全にクラリッサへと移った。
ギルベルトの呼吸が荒くなる。
「し、しかし、臨床の細部は助手に任せていただけだ! 研究の構想は私が――」
「最後にもう一つ」
あたしは声を重ね、彼の言葉を遮った。
「そもそも蒼光草を竜化症の治療に用いようと考えた理由は?」
再び沈黙。会場に冷たい空気が流れる。
クラリッサは落ち着いた声で答えた。
「きっかけは、農村で出会った、火傷の傷痕に悩む女性です。従来の治療では、傷が塞がればそれで終わりとされていました。けれど、結婚式を控えた彼女は、傷痕を少しでも目立たなくしたいと、蒼光草の軟膏を塗っていたのです」
クラリッサは聴衆を見回しながら、ゆっくりと言葉を重ねた。
その言葉は誠実で、彼女が事実を語っているという重みがあった。
「私が経過を観察したところ、硬くなっていた皮膚が柔らかくなっていました。そこで、竜化症の鱗状に硬化した皮膚にも応用できるのではないかと考え、私が研究計画を立てました。最初の試験では効果が得られませんでしたが、蒼光草を加熱せず竜脂油に練り込む方法に変えたところ、改善が見られたのです」
――完璧だ。
この瞬間、誰もが理解した。研究の真の担い手は、壇上で汗にまみれるギルベルトではなく、毅然と答えるクラリッサだと。
聴衆の視線に追い詰められ、ギルベルトは叫んだ。
「黙れ! 女の分際で! 研究に首を突っ込むなど、婚約者として恥を知れ! 僕に恥をかかせて、そんなに楽しいか!」
会場からどよめきが起こる。
クラリッサは唇を噛みしめながらも、真っ直ぐに彼を見返した。
そして、ついに。
ギルベルトは自分で自分の首を絞めるように叫んだ。
「クラリッサ! お前のように出しゃばる女は、婚約者にはふさわしくない! 僕は――お前との婚約を破棄する!」
凍り付いた会場に、その言葉が響き渡る。
クラリッサはしばらくギルベルトを見つめていた。
「……承知いたしました」
そして彼女は客席へ向き直り、深く一礼した。
そのとき、客席のどこかから拍手が起こった。
あたしは心の中で微笑む。
――よし。これで一件落着。
◇◇◇
症例発表会からひと月後。
ソフィアの家の広間では、こぢんまりとしたお茶会が開かれていた。参加者はソフィア、クラリッサ、そしてあたし。三人だけの、親密な会。
「クラリッサお姉様、正式に研究員になられるなんて、素晴らしいですわ」
ソフィアが目を輝かせながら言う。
あれから――本物のエルマー博士による調査が行われ、クラリッサの研究成果であることが正式に認められたそうだ。その結果、正式な研究員として採用され、自分の名で研究を続けられることになったという。
クラリッサは湯気の立つカップを両手で包みながら、静かに、穏やかに微笑んだ。
「……ありがとうございます。あの場で私が勇気を持てたのは、フィリア様のおかげです」
まっすぐにあたしを見るその灰色の瞳には、まだ少し熱が残っている。
あたしはにやりと笑った。
「まあ、いい舞台だったでしょ? 観客が息を呑んで、そして最後は喝采。あれ以上の婚約破棄劇は、なかなかないわ」
ソフィアがぱちぱちと拍手する。クラリッサが机の上に、木箱を出した。
……これは、おまちかねの。
「フィリア様。お礼の品です」
木箱の蓋を開けると、淡い琥珀色の砂糖菓子が並んでいた。小粒なのに香りが強く、薬草と花蜜を煮詰めた独特の匂いがふわりと広がる。
「香薬糖です」
クラリッサが説明してくれる。
「研究所の薬剤室でしか作れない特製のものです。甘みと共に体を温め、風邪や咳にもよく効きますよ」
あたしは指先で一粒つまむと、口に放り込んだ。舌の上でほろりと崩れ、強い甘さと薬草の清涼感が広がる。
「……ああ、懐かしい味!」
思わず目を細めた。
「師匠がよく作ってくれたのよ。これで冬は風邪知らずだって言ってね」
ソフィアがあたしを大きな瞳で見つめた。
「――魔女も、風邪をひくんですか?」
「――ひくわよ。あたしのことをお化けか何かだと思っていない?」
あたしが肩をすくめると、ソフィアは焦ったように手をわたわたとさせた。
「そんなことは思ってないです!」
その様子が可愛らしく、あたしは微笑んだ。
「いいわよ。まあ、お化けみたいなものといえば、そうだから」
「フィリア様、本当にありがとうございました」
クラリッサが深々と頭を下げた。
「私は、もう“影”ではありません。これからは自分の名で研究を続けていけます」
その姿は、発表会で毅然と答弁していた時と同じ。けれど今は、少し肩の力が抜けていて、穏やかな表情だ。あたしは香薬糖をもう一粒つまんで口に放り込んだ。
「こんな物がお礼で、本当にいいのでしょうか……」
不安そうなクラリッサにあたしは微笑んだ。
「十分よ」
窓の外では、初夏の光が庭園を照らしていた。
師匠がいなくなってから、ずっと一人で過ごしてきたけれど。
こうやってみんなでお茶会をしていると、こっそり忍び込んで一人で食べるお菓子より、とってもおいしい気がするわ。




