12.(Case3)侯爵家長男は婚約破棄を告げたい(5)(sideフィリア)
その日のうちに、ユリウスはランゼル侯爵家を出た。
必要な荷物をてきぱきまとめると、鞄を肩に下げて家を出て、街の安宿に一晩泊まった。――そして翌日、河を下る船が出る船着き場へ向かった。
あたしも酒場の『リア』の姿のまま、彼を見送りに来た。
この街を流れる大きな河を下っていけば、海へ出る。
そこにある大きな港からなら、もっと大きな船に乗り換えて、外国へだって行ける。
ユリウスはまず、その港まで行く船に乗ることにしたのだ。
「荷物、それだけ?」
「ああ」
ユリウスが肩から提げた鞄を軽く叩く。
「着替えと薬と、少しの金。それから――」
鞄の中を探って、一本の瓶を取り出した。
「これ。君への《対価》だ」
深い赤色の葡萄酒が入った瓶だった。
「約束しただろう。うちの領地の葡萄酒」
最初にユリウスと契約した夜のことを思い出した。
あたしが対価に珍しいお菓子やお茶が欲しいと言ったら、ユリウスが「葡萄酒は飲むか?」と聞いたのだ。
「ありがとう!」
「契約だからね。甘いのがいいと言っていたから、甘口を選んだよ」
ユリウスが笑った。
あたしは船着き場の時計を見た。
船が出るまでもう少しある。
「お酒、飲んでいいかしら」
「今、飲むのか?」
「ええ。もらったらすぐ飲みたい方で」
「――そうか。じゃあ、どうぞ」
あたしは魔法で栓を抜いた。
「そのまま飲むのか?」
「だってグラスがないから」
ちょっと驚いているユリウスに向かって苦笑すると、そのまま瓶に口をつけた。
ごくりと飲むと、甘い味が口の中に広がった。
「甘くて、おいしいわ」
そう言うと、ユリウスは笑った。
「――そうか。よかった。――じゃあ、俺は行くよ。世話になったな」
あたしは魔法で瓶に栓をし直すと、立ち上がった。
「ねえ。あたしも港まで行くわ」
「見送りはここまでじゃないのか?」
「気が変わったの」
あたしは当然のように船へ向かう。
ユリウスは頭を掻くと、あたしの後を追ってきた。
やがて船が河岸を離れた。
ゆっくりと街が遠ざかっていく。
朝の光を受けた水面がきらきらと輝き、河沿いに並ぶ家々が少しずつ小さくなっていく。
ユリウスは船縁に立って、ずっとそれを眺めていた。
「寂しい?」
隣に座って聞いてみる。
「……どうだろう」
ユリウスは少し考えた。
「まだ、よくわからないな」
「そう」
「ただ――」
ユリウスが遠ざかっていく街を見る。
「本当に出てきたんだな、とは思う」
生まれてからずっと暮らしてきた家も、侯爵家の跡取りという立場も、婚約者も。
ユリウスは全部、あの街に置いてきた。
あたしは何も言わず、その横顔を見た。
ユリウスはアデーレとの婚約を破棄した。
あたしは、その手伝いをした。
そして今、対価の葡萄酒も確かに受け取った。
――これで契約はおしまい。
そう思ったら、なんだか少し変な気分だった。
河を下る船は、どんどん街から離れていく。
やがて家々は見えなくなり、代わりに河幅が広がっていった。
風の匂いも少しずつ変わっていく。
「この先が海か」
ユリウスが船の進む先を見つめた。
「まだ先よ」
「楽しみだな」
青い瞳が輝いている。
鯨は本当にいるのか、海の水は全部塩辛いのかと聞いてきたときと同じ顔だった。
――やっぱり。
この人は、死にたい人の顔なんかしていない。
◇◇◇
港へ着いたのは、昼を少し過ぎたころだった。
街の河岸とは比べものにならないほど大きな船が、何隻も停泊している。
荷物を積み込む人夫。出航の準備をする船乗り。魚を売る女たち。大きな声で客を呼ぶ商人。
「すごいな」
船を降りたユリウスが立ち止まった。
「こんなに大きな船を見るのは初めてだ」
「乗るんでしょう?」
「ああ」
ユリウスは眩しそうに目を細めた。
そして、少し離れた掲示板を指さす。
紙が何枚も貼りつけられている。
その中に、大きな文字で書かれた一枚があった。
『船員募集 ※身分問いません』
「昨日話していただろう。今はどこも人手が足りないらしい。貴族だろうが平民だろうが、働けるなら雇うってさ」
「……あなた、働けるの?」
「そこはこれから相談する」
「船員って、荷物を運んだり、帆を張ったりするのよ?」
「知ってる」
「嵐になったら夜中でも働くのよ?」
「それも知ってる」
「食事だって大したものは出ないし、何か月も陸に戻れないこともあるし、病気になってもすぐお医者さんに診てもらえないわよ」
「ずいぶん詳しいな」
「長く生きてるもの」
あたしはユリウスを上から下まで見た。
昨日よりは顔色がいいけれど、細い。
こんな身体で船に乗って、健康な男たちと同じように働けるとは思えない。
「……死ぬと思うわよ、その身体じゃ」
はっきり言うと、ユリウスは停泊している船を見た。
「それはそれで構わないよ」
やっぱり――投げやりだ。
「最期くらい、好きなことをして死にたい」
「…………」
あたしは黙った。
昨日も聞いた言葉。
でも、やっぱり気に入らない。
「嫌よ」
「え?」
「それじゃあ、嫌」
ユリウスが目を丸くした。
「だって、あたし、あなたの婚約破棄を成功させたのよ?」
あたしはユリウスを睨んだ。
「なのに、その直後に船に乗って死なれたら、後味が悪いじゃない」
「それは……申し訳ない」
「謝られても困るわ」
この人の最初の願いは、アデーレとの婚約を破棄すること。
それは叶えた。
さっき葡萄酒も受け取った。
だから、契約はもう終わっている。
本当ならここでさよなら。
あとはユリウスがどう生きようが、あたしには関係ない。
――関係ないはずなんだけど。
「ちょっと待ってて」
あたしは近くの店をいくつか覗いて回った。
糸や布を扱っている店を見つけて、丈夫そうな糸を何色か買う。
ユリウスのところに戻ると、木箱に腰掛けて、糸を束ねた。
「何をしてるんだ?」
「お守りを作るの」
「君が?」
「何よ、その顔」
「いや。魔女のお守りというから、もっとこう……魔法陣とか、宝石とか、怪しげな骨とかを使うのかと思って」
「骨なんか持ち歩きたくないわよ」
何本かの糸を束ね、編んでいく。
こういう細かい作業は、別に得意じゃない。
でも昔、師匠に教えてもらったことがあった。
旅に出る人間に渡す、簡単な組紐。
師匠は、これを誰に渡したんだったか。
もうずいぶん昔のことで、思い出せない。
編み終わった紐を手のひらに載せる。
「手、出して」
ユリウスが素直に手を差し出した。
その手首に組紐を巻きつける。
「これは運気が上がるお守りよ。危ないときに、ちょっとだけあなたを助けてくれるわ」
「そんなものまで作れるのか」
「あたしを何だと思ってるの?」
あたしはユリウスの手首を掴んだまま、その青い瞳を見つめた。
「ユリウス。あなたの『船乗りになって、世界を見たい』という願いと契約してあげるわ」
「……契約?」
「そう」
人間の願いと、対価。
その二つがあれば、あたしはいろいろな魔法を使える。
「でも、契約はここまでじゃないのか?」
「婚約破棄の契約はね。これは別契約で」
「対価は?」
あたしは考えた。
「どこかで珍しい甘いものを見つけて」
「甘いもの?」
「そう。あたしが食べたことのないようなもの。外国のお菓子でもいいし、果物でもいいわ」
「それだけ?」
ユリウスは瞬いて頷いた。
「いいよ。何か持って帰ってくるよ」
ユリウスの手首に巻いた組紐が、ほんの一瞬だけ淡く光った。
あたしは笑った。
「《契約》成立ね。無事に帰ってきてよ」
ユリウスが黙った。
あたしは胸を張った。
「……魔女との契約を踏み倒すなんて許さないわよ」
ユリウスはしばらくぽかんとしてから、笑い声をあげた。
しばらく笑ってから、手首の組紐を大切そうに撫でた。
「それじゃあ、死ぬわけにはいかないな」
「そうよ」
「困ったな。さっきまで、死んでも構わないと思っていたのに」
「考え直しなさい」
「善処するよ」
「善処じゃ駄目。契約なんだから」
「厳しい魔女だ」
「当然よ」
ユリウスは笑って、それから手を差し出した。
あたしはその手を握る。
「――そうだね。ありがとう、フィリア」
「ええ」
「珍しい甘いものを見つけて、必ず帰ってくるよ」
「楽しみにしてる」
握った手を離した。
ちょうどその時、港の方から鐘の音が響いた。
船員を募集している船の前に、人が集まり始めている。
「じゃあ、行くよ」
「いってらっしゃい」
ユリウスは数歩歩いて、それから振り返った。
「フィリア!」
「何?」
「もし俺が海の向こうで、婚約破棄したい人を見つけたら、紹介していいか?」
「言葉が通じる人にして!」
「わかった!」
笑いながら手を振って、ユリウスは人混みの中へ入っていった。
細くて、青白くて、船乗りになるには、どう考えても頼りない背中だった。
でも、寝台の上に横たわっていたときより、ずっと生きている人間らしく見えた。
あたしは手を振り返した。
婚約破棄は成功。
依頼人は家を追い出され、跡取りの地位も婚約者も失った。
今までの二件みたいな、わかりやすい大成功とは全然違う。
それでも。
遠ざかっていくユリウスの背中を見ながら、今度は少しだけ、「これでよかった」と思えた。
――さて。
いつかあの人が持って帰ってくる、珍しい甘いものを楽しみにしておこう。
契約は、きちんと守ってもらわなくちゃいけないものね。




