10.(Case3)侯爵家長男は婚約破棄を告げたい(3)(sideフィリア)
ユリウスは肩をすくめると、あたしを見た。
「リア、君のことも教えてくれよ。君はいろんな国に行ったことがあるのか? 海の向こうも? 箒で空を飛んで?」
「この辺りの国は、大体行ったことはあるけど。海の向こうはないわ。……行こうと思ったことも」
「何故?」
「だって、言葉が通じないと、『契約』できないし……」
あたしは口元に指を置いて、つぶやいた。
「あたしは、人間と『契約』しないと消えちゃうの。だから、外国に行って、仕事ができないと、たぶん消えちゃうわ」
「魔女っていうのは、そういうものなのか?」
ユリウスは目を見開いた。
あたしは「そう」と頷いた。
――正確には、全部の魔女がそういうものじゃないだろうけれど。
あたしは人間ではないから。
「そう。『契約』して、何か『対価』をもらう。そのやりとりが大事なの」
「じゃあ、今までずっと、誰かと契約しながら生きてきたのか?」
「まあね。昔は師匠がいたから、あんまり困らなかったけど」
「師匠?」
「お医者さんをしてた人よ。変な人だったわ。森の中に住んでて、行き場をなくしたばかりのあたしを拾って、育てたの」
「拾って?」
ユリウスが驚いた顔をした。
「……そう。最初は珍しい生き物を見つけた、みたいな感じで。あたしの世話をして、観察したりしてたわ」
「変な人みたいだな」
ユリウスの言葉にあたしは笑った。
「――でも、優しい人だったわ」
「もういないのか?」
「……ええ。ずいぶん前に死んじゃった」
人間だもの、と続けて、あたしはベッドに手をついた。
窓の外から酒場の喧騒がかすかに聞こえてくる。もうずいぶん夜も更けたのに、階下ではまだ誰かが笑っていた。
「人間って、本当にすぐ死んじゃうのよね」
「……君から見たら、そうなんだろうな」
「そうよ。師匠なんて、最後の方はすっかりおばあちゃんになっちゃって――最初に会ったときは、今のあたしみたいな姿だったのに」
あたしは目を閉じた。
今のあたしの姿は、出会った頃の師匠の姿に似せている。
「それは――寂しかっただろう」
思いがけない言葉に、あたしはユリウスを見た。
「……そうかしら」
「寂しかったんじゃないか?」
「さあ。もう昔のことだもの」
あたしは肩をすくめた。
師匠が死んでからも、別に困ることはなかった。
一人で暮らせるし、あたしは人間じゃないから食べなくても死ぬわけじゃない。たまに人里に出て、誰かの落とし物を探すとかそんな小さな契約をして、魔法を使って、気が向いたらお茶会に紛れ込む。
――そうして、長い間生きてきた。
「でも、師匠もあなたみたいな人だったわ」
「俺みたいな?」
「自分のことはどうでもいいみたいな顔をして、人のことばっかり気にするの」
「それは褒めてるのか?」
「褒めてるわよ」
あたしは笑って、ユリウスの頬を指でつついた。
「あなたみたいに優しい人、結構好きよ」
「……それは光栄だな」
ユリウスは少し困ったように笑った。
それから、しばらく二人で話をした。
ユリウスは海を見たことがないらしい。
この街には大きな河があって、その河を下っていけば海に出られる。港からはさらに大きな船に乗り換えて、外国へ行ける。
そんな話を、本や船乗りから聞いて、子どものころから憧れていたそうだ。
「海って、本当に向こう岸が見えないのかな」
「見えないところもあるわよ」
「嵐の日は、山みたいな波が来る?」
「来るわね」
「鯨は?」
「見たことあるわ」
「本当に?」
ユリウスの青い瞳が輝いた。
さっきまで自分のことを『役立たず』だなんて言っていた人と同じとは思えない。
「海の水は、本当に全部塩辛いのか?」
「……口に入ったら塩辛かったわ」
「海で泳いだのか?」
「泳いではいないわ。水に入ろうなんて思わないわ」
「なんで?」
「あなた、冷たい水に入りたいと思う?」
「ああ。一度飛び込んでみたいと思っている」
「たぶん、心臓が止まると思うから、やめたほうがいいと思うわ」
「ははっ、そうかな」
ユリウスは楽しそうに笑った。
――なんだ。
ちゃんと、やりたいことがあるんじゃない。
死んでも構わないなんて言っていたけれど。
――この人はたぶん、死にたいんじゃない。
今までできなかったことを、一度くらい自分で選んでみたいだけなんだわ。
「船に乗れたら、どこへ行きたい?」
「どこでもいい」
「何それ」
「行ったことのないところなら、どこでも。港に着いたら街を歩いて、知らない食べ物を食べて、知らない人と話して……。そういうことをしてみたい」
「たくさんやりたいことがあるじゃない」
「ずっと寝台の上にいたからね。やりたいことだけは、たくさんあるんだ」
ユリウスはぼんやりと遠くを見るように、窓の方を見た。
あたしは彼の背中をたたいた。
「あたし、あなたがどこまで行けるのか、ちょっと見てみたいわ」
「魔女に期待されるとは、責任重大だな」
「そうよ――だから、婚約破棄して家を出ても、頑張って長生きしてよ」
ユリウスはしばらくあたしを見つめていたけれど、やがて小さく笑った。
「努力するよ」
「そうして」
それからも話は続いた。
ユリウスが船に乗ってみたいという話をアデーレにしたら、エドガーが船の絵を持ってきて部屋に飾ったこと。
そこでユリウスは、アデーレが弟に何でも話していることに気づいたそうだ。
……病気で部屋からなかなか出られないユリウスにとって、エドガーとアデーレが唯一の話し相手ということ。
ずっと話していたら、だんだんとユリウスの口数が減ってきて、ゆらりゆらりと横に揺れるようになった。眠たそうだ。
「おやすみなさい」
あたしはそう呟くと、ユリウスの顔を覗き込んだ。
目を合わせて、眠るようにユリウスの意識に呼びかけた。
ぱたりと倒れたユリウスをベッドに横たえると、自分も背中合わせに寝転んだ。
目を閉じると、背中越しに人の温かさが伝わってきた。
師匠のことを思い出す。
拾われた最初のころは、ねだれば一緒に寝てくれたっけ。
それからしばらくそうやって横たわっていると、空が白み始めた。
あたしは寝ているユリウスを揺さぶって起こした。
「おはよう。朝よ」
ユリウスはがばっと起き上がると、目を擦った。
「……寝てた?」
「ええ。――寝ないと、身体に悪いでしょうから」
「……悪いな」
「別にいいわよ」
肩をすくめると、ユリウスは立ち上がった。
「そろそろ、出ていいかな」
「そうね。朝帰りするところを、しっかり見てもらわないと」
ユリウスはあたしを見つめた。
「――実は、朝帰りは初めてだ」
あたしは笑って、ユリウスの外套を渡した。
「それじゃあ、旦那様。お父様に叱られてきて」
“リア”の口調でそう言うと、ユリウスは噴き出した。
外套を羽織ったユリウスを扉へ送る。
扉を開けると、あたしは周囲の気配を探った。
――昨夜と同じ、二人。
あたしの部屋を通りの向こうから見ている。
あたしはまた、その見張りの彼らに声を届けるように魔法の風を起こした。
それからユリウスの首元に抱き着いた。
「おい、おい……」
少し驚いたようなユリウスに向かって”リア”の声で囁いた。
「旦那様、昨晩は楽しかったわ」
……本当に、楽しかったわ。




