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第八話:庭師の正体

朝の庭を、男が早足で進んでいた。


木々の間を抜け、砂利道を横切る。


「待て!」


莉央が声を上げる。


男は振り返らない。

ただ、歩く速度をわずかに上げた。


「逃げる気だな」


「後ろめたいことがあるんだろ」


庭は広い。

木立が多く、見通しも悪い。


「ちっ」


莉央が舌打ちした。


距離は思ったほど縮まらない。

男は慣れているのか、迷いなく庭の奥へ進んでいく。


そのとき。


伊織が急に声を張り上げた。


「あっ! 奥様!」


男の足が止まり、ほんの一瞬振り返った。


その瞬間、莉央が地面を強く蹴り、一直線に距離を詰める。


「もらった!」


男の腕を掴み、そのまま芝生へ押し倒した。


どさり、と草が揺れる。


剪定ばさみが手から離れ、ころころと転がった。


「ぐっ……!」


男が低く呻く。


伊織がゆっくり歩いてきた。


「いやー、お見事です」


「うるせえ」


莉央は男の腕をねじ上げる。


「動くな」


男は上がった息を噛み殺すようにして、黙っている。


伊織はしゃがみ込み、男の麦わら帽子を指先で持ち上げた。


「で?」


にこやかに首を傾げる。


「あなた、どこの誰ですか?」


男は短く言った。


「……離してください。私はこの家の庭師です」


「嘘つけ」


莉央が即答する。


だが男は引かない。


「何を根拠に」


「じゃあ、一緒に奥様のところへ行きましょうか」


伊織は穏やかな声で続ける。


「もし本当に庭師なら、こちらが非礼をお詫びしますよ」


「……っ」


男の表情がわずかに硬くなる。


「だいたい、庭師がそんな綺麗な靴履いて、おしゃれな香水つけて仕事します?」


男は状況を打開しようとしているのか、沈黙を保ったまま、ゆっくり周囲を見渡した。


呼吸を整えながら伊織を見たあと、男の視線が、ゆっくり莉央へ向く。


足元から顔まで、値踏みするような視線だった。


その無遠慮な視線に、莉央の眉がわずかに動く。


そして――


莉央が誰なのか分かったのだろう。


男の口元が、ほんのわずかに歪んだ。


見下すような視線。


(あー……なるほど)


莉央の中で、何かが繋がった。


宴の日、噴水の前にいたあの男と同じ目だ。


莉央が口を開く。


「お前」


男を見下ろす。


「鷹宮の人間だな?」


男の顔が、今までで一番はっきりと動揺した。


「ち、違う! 何を根拠に――」


「ええっ!」


伊織が大げさに声を上げる。


「まさかあの鷹宮様の関係者ですか?」


目を丸くする。


「雪乃様の婚約者の?」


伊織はさらに畳みかけた。


「景臣様って婚約者を調べるために間者まで送るんですか?」


わざとらしく首を傾げる。


「雪乃様に惚れすぎて、まさかストーカーに!?」


「な、なにを――!」


男の顔が真っ赤になる。


「いやー、お気持ちは分かりますけどね。ですがやはり、そういうことは正々堂々とお気持ちを打ち明けるところから始めな――」


「こんな女を調べていたわけではない!」


男が怒鳴った。


「景臣様を馬鹿にするな!」


その声が庭に響いた。


そして、ぴたりと空気が止まる。

風が木の葉を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえた。


伊織が小さく瞬きをする。


莉央は静かに言った。


「ほら、やっぱ鷹宮の人間じゃん」


男はしまったという顔をした。


一度、頭を振るようにして、再び口を閉ざす。


今度こそ、完全な黙秘だった。


伊織がゆっくりと立ち上がり、落ち着いた声で言った。


「無礼な物言いをして申し訳ありません。

私たちも別に、鷹宮家に喧嘩を売りたいわけではありません」


様子をうかがうように男を見る。


「理由によっては、ここだけで話を終わらせることも考えます」


しかし、男の表情は変わらない。


「何を調べていたんです? 何か分かったことは?」


「……」


沈黙。


莉央が腕を組む。


「話す気ないみたいだな」


三人の間を、朝の風が吹き抜けた。

木の葉がさらさらと揺れる。


伊織はしばらく考えたあと、軽く言った。


「そんなに何も言いたくないなら……。

もういっそ、私たちが鷹宮邸に乗り込んで、直接聞くしかないかなー」


ちらりと男の出方を見る。


もちろん、冗談だ。

こんな見え透いた陽動作戦に乗るほど、この男も甘くない。


男は顔色ひとつ変えず、黙って立っている。


(……まじでどうすっかな)


伊織が必死に次の手を考えていた、そのとき。


能天気な声が響いた。


「いいじゃん」


伊織が振り向くと、莉央は楽しそうに笑っていた。


「行こうぜ、鷹宮邸」


さらっと言う。


「え……ちょ、待ってください」


慌てる伊織を尻目に、莉央はもう踵を返していた。


「そうと決まれば準備だ!

ちょっと着替えてくる!」


そして振り返りざま、男を指差す。


「そいつ逃げないように、ちゃんと見張っといてくれよ!」


そのまま走り去り、あっという間に屋敷の方へ消えていった。


残された二人の間に、妙な沈黙が落ちる。


「……まじで?」


取り残された男たちの情けない声が、二人分。

ぴたりと重なって、朝の光に溶けていった。



馬車が、大きな鉄門の前で止まった。


門の向こうに見えるのは、白い壁の巨大な洋館だった。

高い煉瓦塀の奥、左右対称に広がる建物。

柱の並ぶ車寄せ。手入れの行き届いた芝生。


温度を感じさせないほど、すべてがきれいに整えられている。


「おおー!」


莉央が窓から身を乗り出した。


「ついたぞ!」


馬車の中で、伊織が顔を覆う。


「……本当に来ちゃいましたね」


「来たな」


莉央は満足そうに頷く。


向かいに座っている庭師の男は、ずっと無言だった。


いや、正確にはずっと不機嫌だった。


「……」


しばらくして、男がぼそりと言う。


「普通、乗りませんよ」


「何が?」


莉央が振り向くと、男は顔をしかめた。


「他人の馬車にですよ! しかも断られているのに!」


あの後、莉央はこの男――田中良治の馬車に勝手に乗り込み、

何度降りるよう説得されても、引きずり降ろそうとしても、しがみついて離れなかった。


根負けした田中が渋々折れ、こうして三人は鷹宮邸までやって来たのだ。


伊織は我慢できず、吹き出した。


「いやあ、すみませんね」


そう言ってから、田中を見る。


「でも彼女、一度言ったことは曲げないんですよ。

昔からそうなんです」


田中は不貞腐れたように黙り込んだ。


莉央は窓の外を見ながら思う。


(最近知り合ったばっかのくせに、よく言うよ)


相変わらず、適当な奴だ。


馬車が門をくぐる。


制服姿の門衛が二人、直立したまま軽く頭を下げた。

庭を抜け、馬車が車寄せに止まる。


御者が扉を開けると、莉央が先に飛び降りた。


「でかいな」


近くで見ると、洋館はさらに大きい。


壁も柱も真っ白で、装飾は少ない。

だがその分、建物の輪郭がくっきりと際立っていた。


「なんかさ、病院みたいだな」


伊織が降りながら言う。


「それ褒めてます?」


「分からん」


田中も降りる。


そして不本意そうに短く言った。


「こちらへ」


三人は玄関へ向かう。


重厚な扉が開くと、中は驚くほど静かだった。


高い天井に磨き上げられた床。

奥まで続く長い廊下。


三人の不揃いな足音だけが、やけに響いた。


しばらく歩くと、廊下の途中で田中が足を止め、扉を開ける。


「こちらでお待ちください」


中は談話室のようだった。


「確認してきます」


「はいはい」


莉央はもうソファに座っていた。


田中は一瞬だけ眉をひそめたが、何も言わず部屋を出ていく。


「いやー」


大きく伸びをする。


「乗り込んじゃったな」


伊織はまだ立ったままだった。


「……乗り込んだな、侯爵家に」


莉央は笑う。


「なんとかなるだろ」


伊織はため息をついた。


窓の外を見ると、左右対称に広がる庭が、風を受けて少し揺れていた。


「……まあ」


伊織は小さく呟いた。


「ここまで来たら、もう帰れませんけど」


そのとき、廊下の奥で、足音がした。

伊織が顔を上げ、莉央も振り向いた。


足音は、まっすぐこちらへ近づいてくる。

やがて談話室の扉が静かに開き、一人の男が入ってきた。


黒に近い濃紺の洋装。背筋はまっすぐに伸び、歩き方に無駄がない。

ただ部屋に入ってきただけなのに、その場の空気がほんのわずかに引き締まる。


莉央はソファに座ったまま、相手を見上げた。


宴の日、噴水の前で見た男だ。


鷹宮景臣。


景臣は部屋に入ると、まず一度だけ室内を見渡した。

それから最後に、莉央へ視線を止める。


それだけで十分だった。

誰がここにいるのか、すでに理解しているようだった。


「……用件は」


低く抑えた声だった。


挨拶も名乗りもない。

ただ要件だけを求める声音。


莉央はソファの背にもたれたまま言う。


「話が早くて助かる」


腕を軽く組む。


「お前んとこの人間が、うちの屋敷に侵入してた」


景臣の表情は変わらない。


「知らないな」


即答だった。


莉央が眉を上げる。


「知らない?」


「聞いた通りだ」


景臣の声は淡々としていた。


「そのような命令は出していない。白鷺家の内情に、私が私的な興味を持つ理由はない」


伊織が横から口を挟む。


「いやいや、そんなわけないでしょう」


苦笑しながら続ける。


「別に、私たちも大事にしたくて来たわけじゃないんです。何をしていたのか教えてさえくれれば、家の者には言いません」


こっちとしても必死だった。

敵の敵は味方かもしれない。

何か掴んでいるなら、その情報が欲しい。


景臣は伊織を見る。


ほんの一瞬だけ。


それから視線を戻した。


「それで?」


「いや、それでって……」


伊織は言葉を探す。


「つまりあなたの部下が、あなたの指示でやったことですよね?」


「違う」


景臣は言った。


「私の命令ではない」


それだけだった。


莉央が腕を組む。


「いい加減にしろよ。そんな言い訳通用するかよ」


「だから?」


景臣の表情は動かない。


「関係者ではない」


そして、ほんのわずかに首を傾けた。


「そうなれば、満足か」


莉央の眉がぴくりと動く。


「……は?」


景臣は振り返る。


扉の外に立っていた田中を呼んだ。


「田中」


「はい」


田中が一歩前に出る。


景臣は淡々と言った。


「今この時点で、お前を解任する」


室内が一瞬、静まり返る。


「本日付けで、鷹宮家との雇用関係は終了だ」


あまりにもあっさりした言葉だった。


田中の顔が固まる。


伊織も思わず声を漏らした。


「え?」


景臣は莉央を見る。


「これで、鷹宮家の関係者ではない」


静かに続ける。


「満足か」


莉央は、景臣に鋭い視線を向けた。


(……こいつ)


宴の時も思ったが、今度こそはっきりと分かった。


こいつは、自分に不利益をもたらす人間は、躊躇なく切り捨てる。

それが、仲間だろうと、婚約者だろうと。


そういう男だ。


莉央の表情がわずかに歪む。


「お前……人を何だと思ってんだ」


談話室の空気が、ぴんと張り詰めた。


短い沈黙のあと、伊織が苦笑する。


「いやー……さすがにそれはちょっと」


「何か問題でも?」


景臣の声は相変わらず静かだった。


「いや、問題しかないんですが……」


伊織は言葉を繋ごうとするが、景臣の表情は変わらない。


ただ淡々と続ける。


「用件はそれだけか」


莉央が鼻で笑う。


「……帰れってか」


「そうだ」


即答だった。


「これ以上、話すことはない」


景臣は扉の方へ視線を向ける。


「送客を」


外の使用人が一礼した。


莉央は立ち上がる。


「収穫ゼロだな」


「まあ……」


伊織も立ち上がった。


「そうですね」


二人が出口へ向かいかけた、そのときだった。


廊下の奥から、一人の男が足早に現れる。

鷹宮家の補佐官らしい人物だった。


彼は景臣の傍まで来ると、二人に聞こえないほどの小声で耳打ちする。


「件の書類は、すべて回収済みです」


景臣はわずかに目を伏せ、それから静かに答える。


「そうか。では、田中に伝えろ」


補佐官を見る。


「予定通り、第二段階に取り掛かれ」


「承知しました」


景臣と補佐官のやり取りを終えるころには、二人はすでに扉の前に立っていた。


そして、伊織がふと思い出したように振り返る。


「そうだ」


景臣を見る。


「一つお願いしていいですか」


反応のない景臣に、伊織は続ける。


「雪乃様を白鷺邸まで送ってくださいね」


莉央が振り返る。


「は?」


伊織は真顔だった。


「あなたのところの人間が原因でここまで来たんです。

そのくらいの責任は取ってくださいよ」


景臣は黙っている。


「それとも」


少し口角を上げた。


「可愛い婚約者と二人きりだと、緊張しちゃいますか?」


部屋の空気がわずかに張る。


景臣と伊織の視線がぶつかった。


しばらくして、景臣が言った。


「……馬車を用意しろ」


外の使用人が動く。


伊織は小さく息を吐いた。


莉央はその様子を横目で見て、ぼそりと言う。


「お前さ」


「なんです?」


「今の、完全に喧嘩売ってたよな」


伊織は笑った。


「交渉だよ」


談話室の外では、馬車を準備する音が聞こえ始めていた。

誰も口を開かない。

ただ静かな空気の中で、景臣の視線だけが一度だけ莉央に触れて、すぐに離れた。


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