第七話:白鷺邸を探れ!
嵐のような一日から、数日が過ぎていた。
白鷺邸の朝は、やけに静かだ。
広い庭に、霧がうっすらと降りている。
夜露を含んだ芝生が、朝の光を受けてきらきらと光っていた。
莉央は縁側に腰を下ろし、湯呑みを両手で包んでいる。
部屋の外へ出るだけで奇妙な目で見られたり、わざと聞こえるように悪口を言われたりもするが、面倒ごとと言えばそれくらいだ。
あとは拍子抜けするほど、平穏な毎日だった。
(……こんなもんか)
この家の柵をぶち壊すと決めたはいいものの、その柵がどこにあるのか分からなければ動きようもない。
湯気の向こうに庭を眺めながら、莉央は小さく息を吐く。
むしろ屋敷の空気は、妙に整いすぎている。
静かで、穏やかで――
どこか、不自然なほどに。
「いやー、いい天気だねえ」
背後から、のんびりした声がした。
振り返ると、伊織が廊下を歩いてくるところだった。
手には、なぜか盆を抱えている。
「何だそれ」
「台所から拝借してきた」
盆の上には、饅頭が二つ乗っている。
「おい」
「冗談だよ」
伊織はあっさり言って、ひょいと莉央の隣に腰を下ろした。
そして当然のように、饅頭を一つ差し出す。
莉央は一瞬だけ迷ったが、結局それを受け取った。
「……お前さ」
「ん?」
「使用人と仲良くなりすぎだろ」
伊織はおどけた表情をつくってみせる。
「そう?」
「そうだよ。昨日も台所でおばちゃんたちと笑ってたじゃん」
「お漬物の作り方を教わってたんだよ」
「なんでだよ」
「将来役に立つかもしれないだろ?」
莉央は呆れた顔で饅頭をかじる。
甘い。
思ったより、美味しい。
「それに、こういうのは下から攻めるのが一番なんだよ」
「……は?」
「情報を得るにはね」
伊織は、ひらりと指を振った。
「下の人間は、“隠さなきゃいけないこと”は教えられてても、“隠す理由”までは知らされない。だから、うっかり漏らしやすいんだ」
伊織は庭を眺めながら、ぽつりと言った。
「やっぱり、この家はきな臭い」
莉央は饅頭をかじる手を止めた。
「何が」
伊織は指を一本立てる。
「まず、使用人」
「うん」
「昔この屋敷にいた人、誰一人として残ってない」
莉央は眉をひそめた。
「誰も?」
「ああ。びっくりするくらい」
伊織は苦笑する。
「女中も、庭師も、台所も。みーんな、ここ数年で入れ替わってる」
「……あのオバサンの仕業か」
「十中八九」
伊織は頷いた。
「しかも、この屋敷、変な決まりが多いらしい」
「決まり?」
「近づくなって場所が、やたら多いんだ」
伊織は庭の奥を顎で示した。
「あの東屋とか」
霧の向こうに、小さな東屋が見える。
「それと、旦那様の部屋」
莉央の目が、わずかに細くなる。
「会える人が、かなり限られてる」
「……」
莉央はしばらく黙っていた。
静かな庭の奥で、鳥が一羽鳴く。
湯呑みの中の茶は、もう冷めていた。
ただ静かなだけじゃない。
やはりこの屋敷は、どこかが歪んでいる。
そして、その歪みを誰かが必死に隠している。
「なあ」
莉央は立ち上がった。
伊織が顔を上げる。
「こういうときってさ」
莉央は庭を見下ろしながら言った。
「向こうが隠してるなら、こっちから動くしかないよな」
伊織の口元が、ゆっくり持ち上がる。
「ようやく言ったな」
伊織は立ち上がり、軽く手を叩いた。
「じゃあ――」
その目が楽しそうに細くなる。
「楽しい散歩の始まりだ」
伊織は背伸びするように腕を上げ、ぐるりと庭を見回した。
「さて、と」
莉央も縁側から庭へ降りる。
「で、どこから攻める?」
「候補はいくつかあるが……」
伊織は指を折り始めた。
「まだ勝手が分からない部分も多いし、派手な動きをして怪しまれたくない」
「なるほど。じゃあ東屋とか、あのオバサンの部屋とかは……」
「ああ、無理だな。見つかった瞬間、即オサラバだ」
二人の間に、少し沈黙が落ちる。
「じゃあ……」
鳥が庭木から飛び立ち、枝が小さく揺れた。
二人は屋敷の裏手へ回った。
まだほとんど足を踏み入れたことのない東棟。
そこを探ることにした二人は、人通りの少ない廊下を選びながら、ゆっくり歩いていく。
似たような廊下がいくつも続き、曲がるたびに景色が変わる。
歩いているうちに、方向感覚が少しずつ狂ってくる。
「なあ」
莉央が壁を軽く叩いた。
「この家、無駄に広すぎだろ」
「華族の屋敷って大体こんなもんだよ」
伊織は柱の装飾を指でなぞる。
そして、ふと立ち止まった。
「……あれ」
「どうした」
伊織は壁をじっと見ている。
「いや」
柱の横の板を押す。
かすかに、ぎ、と音がした。
「やっぱり」
「何だ?」
伊織が軽く板を引く。
すると、壁の一部がわずかにずれた。
「お」
莉央が目を丸くする。
「隠し戸?」
「昔、この屋敷で遊んでた頃に見つけたんだよ」
伊織は少し楽しそうに言う。
「子どもの秘密基地ってやつ」
「お前、そんなことしてたのか」
「今と変わらずお茶目だろ?」
伊織は隠し戸をさらに押し開いた。
中には細い通路が続いている。
暗くて、ひんやりしていた。
「抜け道か?」
「たぶんな」
「たぶん?」
「屋敷のどこかには出るよ」
伊織は肩をすくめる。
「さすがに全部は覚えてない」
莉央はにやりと笑った。
「面白そうじゃん」
「……だろ?」
二人は顔を見合わせる。
そして、迷いなく中へ入った。
通路は思ったより長かった。
足音が小さく反響する。
木の匂いと、少し湿った空気。
「……暗いな」
「まあ、隠し通路だからな」
伊織が前を歩く。
「今でも通れるだけ御の字だろ」
やがて、前方に小さな光が見えた。
「出口だ」
伊織が扉に手をかける。
ゆっくり押す。
扉がわずかに開いた。
その瞬間――
「もう信じられない!」
甲高い声が聞こえた。
二人は同時に固まる。
「あの女、本当にむかつく!」
少女の声だ。
怒りで少し震えている。
伊織が困ったように苦笑いして莉央を見る。
莉央は心底面倒くさそうにため息をついた。
「今、一番顔合わせたくないやつだな」
癇癪を起こしている声の主は、麗子。
美代子の連れ子で、雪乃の義妹にあたる少女だ。
宴の日以降、顔を合わせるたびに嫌味や小さな嫌がらせを仕掛けてくる。
どれも子どもの意地悪みたいなものばかりで、実害はない。
莉央は基本、無視していた。
だがそれが逆に癪に触ったらしい。
麗子はしつこく、最悪のラブコールを送り続けてくる。
扉の隙間から、室内を少しだけ覗く。
豪華な部屋の中央。
立派な椅子に麗子がふんぞり返って座っていた。
それを囲むように、数人の女中が立っている。
机の上には菓子。
どうやら、おやつの時間らしい。
艶のある黒髪。
派手な着物。
そして、いかにも高慢そうな顔。
「急に調子に乗りやがって! あのババア!」
莉央の眉がぴくりと動く。
伊織が小さく笑った。
「だいぶ好かれてるな」
「面白がってんなよ」
莉央が小声で睨む。
伊織は肩を揺らした。
「いやあ、想像以上でさ」
莉央は小さく舌打ちする。
「……クソガキ」
「まあ、あの奥様の娘ならこんなもんだろ」
「バレたら面倒だな」
「ああ」
二人は顔を見合わせる。
「戻るか」
「いや」
伊織が通路の奥を指した。
「まだ先がある」
暗闇の向こうに、もう一つ扉が見える。
莉央が眉を上げた。
「出口か?」
「さあ」
伊織が小声で言う。
「試してみるか?」
莉央はにやりと笑った。
「行くしかないだろ」
二人は足音を殺し、通路の奥へ進んだ。
伊織が扉に手をかけ、ゆっくり押す。
ぎ、と小さく音を立てて扉が開いた。
眩しい光が差し込む。
二人は思わず目を細めた。
外だった。
木々の間から朝の光が落ちている。
湿った土の匂いと、草の青い匂い。
どの木も枝が好き勝手に伸びていた。
庭だ。
「……出れたな」
莉央が小さく言う。
「どこだここ」
伊織が周囲を見回す。
少し離れた場所に、小さな屋根が見えた。
霧の中にぽつんと立つ、古い東屋。
「……あ」
莉央が呟く。
「東屋の近くだ」
「マジかよ」
伊織が低く笑う。
「いきなり当たり引いたな」
だがそのとき。
背後で枝がぱき、と鳴った。
二人は同時に振り返る。
そこに、一人の男が立っていた。
作業着に、麦わら帽子。
手には剪定ばさみ。
湿った土の上に、まっさらな草履がやけに映えていた。
どうやら庭師らしい。
莉央と伊織は一瞬、固まった。
(やばい)
この場所は本来、莉央たちが来るような場所じゃない。
どう言い訳するか――
そう考えるより早く、男は軽く頭を下げた。
「おはようございます」
拍子抜けするほど普通の声だった。
「……おはようございます」
伊織が反射的に返す。
庭師の男は、二人をちらりと見ただけだった。
それ以上気にする様子もなく、二人の横を通り過ぎる。
そのとき。
ふわりと、甘い香りが風に乗った。
ジャスミンの匂いだった。
庭師の肩をかすめた風が、莉央の髪をわずかに揺らす。
そして男は、そのまま庭の奥へ歩いていった。
しばらく沈黙が落ちる。
風が葉を揺らす音だけが聞こえた。
やがて伊織が小さく息を吐く。
「……助かった」
莉央も肩の力を抜いた。
「心臓止まるかと思った」
二人は同時に苦笑する。
「見逃してくれたみたいだな」
「だな」
少しの間、庭を眺める。
霧はもうほとんど晴れていた。
東屋の屋根がはっきり見える。
静かな庭だ。
人の気配は、もうない。
莉央がぽつりと言った。
「それにしても、今の季節でもジャスミンって咲くんだな」
「ん?」
「さっきのおっさんとすれ違う時、香ってきただろ?」
伊織が振り向く。
そして、何かを考える顔になった。
「どうした」
「……いや」
伊織は周囲を見回す。
「ここ、東屋しかないよな」
「……ああ、そうだけど」
莉央もゆっくり周囲を見渡した。
庭。
木々。
そして、東屋。
それだけだ。
「……」
莉央の眉がわずかに動く。
「さっきのやつ」
伊織が静かに言った。
「どこから来た? 何をしていた?」
二人の視線が同時に合う。
次の瞬間。
莉央が笑った。
「なるほど」
その笑みは、完全に獲物を見つけた顔だった。
伊織も口の端を上げる。
「まだ遠くに行ってない」
木々の向こうに、男の背中が小さく見えた。
「どうする?」
伊織が聞く。
莉央は一瞬も迷わなかった。
「決まってる」
踵を返す。
「追うぞ」
伊織の目が楽しそうに細くなる。
「了解」
二人は同時に走り出した。
朝の静かな庭に、足音が弾ける。
白鷺邸の奥に隠された何かへ、まっすぐ踏み込むように。




