第六話:鳥羽伊織という男
「――あんた、誰?」
空気を切り裂くように、真っ直ぐな声が落ちた。
さっきまでの軽い調子とはまるで違う。
怒っているわけでも、声を荒げているわけでもない。
それでも、こちらの動きを拘束するには十分な重さがあった。
莉央は言葉を探す。だが、どれを選んでも弱い気がして、喉の奥で止まったままだ。
「ねえ、聞こえてるー?」
伊織がひらひらと手を振る。
まるで居眠りしているやつを起こすみたいな、気の抜けた調子だった。
(やべえ)
胸の奥で警鐘が鳴る。
「何言ってんだよ。雪乃だろ」
平静を装って答えると、伊織はすぐには何も言わなかった。
しばらくこちらを眺めてから、ふっと笑う。
「ああ、そうでした」
ゆっくり頷く。
「雪乃様でしたね」
妙に素直にそう言うと、思い出したように続けた。
「そういえば昔、一緒に庭で球蹴りして遊んだことありましたよね。懐かしいなあ」
莉央の心臓が一瞬止まる。
伊織は楽しそうに話し続ける。
「転んで大怪我して、旦那様にものすごく怒られたじゃないですか」
にこにこしたまま首を傾げた。
「そのときの足の傷は、もう治りました?」
莉央は一拍だけ考え、すぐに笑う。
「ああ、すっかり」
軽く足踏みしてみせる。
「もうどこにでも走っていけるよ」
伊織は「なるほど」と頷いた。
それから、少しだけ目を細める。
「ああ、そうでしたね」
穏やかな声で言った。
「怪我したの、腕でしたよね」
一瞬、間を置く。
「で、足がなんだって?」
莉央の笑顔の端がわずかに引きつる。
(……こいつ)
「昔のことなんて覚えてねえよ」
「そうですか? 僕は結構覚えてますけどね」
少しだけ身を乗り出す。
「この家でお世話になってた頃、とても楽しかったんですよ。こんな素敵な家族がいるんだなって思ってました! ……まあ、今じゃだいぶ様子が違うみたいですが」
「何が言いたい」
「旦那様の趣味とか、この家の隠し通路とか、お菓子の隠し場所とか、全部覚えてますよ」
指折り数えるように並べていく。
そして、ふっと視線を上げた。
月明かりの中で、その目がまっすぐ莉央を捕える。
「あと、雪乃様の瞳の色とかね」
静かな間が流れる。
やっぱり、あのとき見られていた。
莉央は小さく息を吐いた。
「……お前、底意地悪いな」
伊織は肩を揺らして笑う。
「ハハハ、それほどでも」
褒めてねえよ、と小さく毒づきながら、莉央はもう隠す気を失っていた。
「で?」
腕を組む。
「お前は何が言いてえんだよ。私をあのおばさんに突き出すか?」
伊織はすぐには答えない。
それから、少しだけ声の調子を落とした。
「その前に、一つだけ聞かせてください」
さっきまでと同じ笑顔のまま。
けれど、その視線だけは、莉央をこのまま逃がすつもりはないと物語っていた。
「雪乃様は、無事なんですよね?」
莉央は少し黙った。
自分の正体より先に、それを聞くのか。
「……生きてるよ」
短く答える。
伊織の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「そうですか」
小さく息を吐く。
「なら、今はそれでいい」
声が静かになる。
「雪乃様が無事なら、それで」
だが次の瞬間、もういつもの調子に戻っていた。
「さて、じゃあ改めて」
にこりと笑う。
「あんた誰?」
伊織の問いに、莉央はしばらく黙っていた。
逃げる理由はもうない。
ここまで見抜かれて、今さら取り繕うのも馬鹿らしかった。
「……莉央。帝都の外れにある長屋の人間だ」
「へえ。華族のお嬢様とはずいぶん違うね」
「そりゃそうだろ」
少し間を置いて続けた。
「震災孤児だよ」
伊織の目が、ほんの少しだけ細くなる。
莉央はそれに構わず話を続けた。
「親も家も、あの時全部なくなった。で、その後もまあ、いろいろあって……今の長屋に流れ着いたってわけ」
莉央は事も無げに話を続ける。
「まあそんな感じ」
伊織はしばらく黙っていたが、やがて口を開く。
「……なるほど。
それで? どうして雪乃様と入れ替わるなんて話に? というか、どうして知り合いに?」
「あいつ、川に落ちてた私を助けたんだよ。
話してるうちにさ、家に帰りたくないけど、逃げるのも怖いって」
莉央は肩をすくめた。
「死にたいと思うほど、思いつめてた」
伊織は何も言わず、その先を待つ。
「でもあいつ、優しいんだよ。自分のことより家のことばっか気にしてるんだ。迷惑かけたくないとか、父親がとか、婚約がとか」
莉央は鼻で笑う。
「だったら私が代わればいいじゃんって思った」
あまりにあっさりした言い方に、伊織は思わず瞬きをした。
「……それで?」
「それで、入れ替わった」
「……は?」
「それだけ」
伊織はしばらく莉央を見つめ、やがてゆっくり首を傾げる。
「いや、それが分からないんだよ」
声は穏やかだが、本気で理解できないという響きだった。
「どうして、そんな簡単に自分の人生を差し出せる?
他人の人生を背負うなんて、普通は誰もやらない」
月明かりが部屋を静かに照らしている。
莉央はその淡い光をぼんやり見つめながら言った。
「私の人生さ、さっき言ったみたいに、次から次へと不幸ごとが降りかかってくるんだ。最初からずっとハズレなんだよ」
莉央は笑った。
楽しくもないのに、つい笑ってしまう。
「だからさ、今さら多少の良いことがあっても、たかが知れてるんだ。元なんか取れやしねえ」
黙って聞いている伊織を横目に、莉央は続けた。
「だったら潔く諦めた方が楽だろ。私みたいなハズレくじが、いい目見る必要ないなって」
少し首を傾ける。
「その分、他のやつに回した方が得だろ? 全体としてな」
まるで帳簿でもつけているみたいな言い方だった。
薄暗い部屋の中で、その言葉は妙に静かに響いた。
伊織はしばらく何も言わなかった。
やがて小さく息を吐く。
「……変な理屈だな」
「そうか?」
「あんたの人生なのに、自分で生きてないみたいだ」
それだけ言う。
莉央はその言葉に何も返せない。
誰にも受け取ってもらえないままの言葉が、空中で静かに溶けていった。
しばらく沈黙が落ちる。
やがて、その空気を払うように伊織が口を開いた。
「まあ、それは今はどうでもいいか」
そう言って姿勢を変える。畳に片手をつき、ゆっくり立ち上がった。
背中に月明かりが落ちる。
「とりあえず、一つだけはっきりしてることがある」
伊織と莉央の視線がはっきりと重なった。
「あんたは雪乃様を助けた。それは事実だ。
それだけで、俺があんたを捕まえる理由はなくなった」
一呼吸おく。
「むしろ感謝してるくらいだ」
莉央は眉をひそめる。
「……感謝?」
「恥ずかしいことに、なーんにも気づかなかったんだよ、俺」
視線が畳に落ちる。
「この家があんな空気になってるのも、雪乃様が、そこまで追い詰められてたことも、全部」
莉央は何も言うことが出来ず、部屋に短い沈黙が落ちる。
やがて、伊織がゆっくりと息を吐いた。
「……まあ、今はどうでもいいか」
軽く伸びをして、態勢を整える。
「というわけで、俺、あんたのこと黙っとくわ」
莉央が顔を上げる。
「……は?」
「あんたの正体、入れ替わり、全部」
伊織は指を折りながら数える。
「今のところは、な」
莉央は腕を組んだ。
「信用していいのか?」
伊織はすぐ答える。
「どうかな」
楽しそうに笑う。
「信用しない方がいいよ。俺、割と気分屋だから。
でも、あんたが雪乃様を守るつもりなら、俺も協力する」
莉央は思わず目を見開く。
「ただし」
指を一本立てる。
「一つ条件がある」
「なんだよ」
「絶対にバレるなよ」
冗談みたいな調子だった。
けれど、その目だけは本気だった。
「この家の奥様にバレたら、たぶん、全部終わる」
莉央は小さく鼻で笑う。
「上等だよ。最初からそのつもりだ」
伊織は天井を見上げ、楽しそうに笑った。
「面白くなってきたなあ」
伊織はそう言って、ゆっくりと立ち上がり、莉央に向かって手を差し出した。
握手というより、確かめるみたいな仕草だった。
莉央は一瞬だけその手を見て、それから迷いなく叩きつけるように自分の手を重ねる。
ぱしん、と乾いた音が静かな部屋に響いた。
伊織の口元が、わずかに持ち上がる。
何を考えているのか、底がまったく見えない男だ。
正直、信用できる相手じゃない。
けれど――
一人で動くよりは、ずっとましだろう。
莉央は小さく息を吐いた。
この日、自分に共犯者ができた。
灯りの落ちた廊下を、美代子が静かに歩いていた。
とある部屋の前で足を止める。
「……旦那様」
中から、少しかすれた声が返る。
「……どうした」
美代子は扉を開けた。
部屋の中には、薄い灯りだけが残っている。
寝台の上で、白鷺伯爵は半身を起こしていた。
美代子は部屋の中へ入り、静かに座った。
「少し、お聞きしたいことがありまして」
伯爵はゆっくりと視線を向ける。
「……なんだ」
美代子は穏やかな声で言った。
「今日、誰か訪ねてきました?」
「……いや」
短い返事だった。
「誰も来ていない」
美代子はにこりと笑う。
「そうですか」
一呼吸おいて、続けた。
「鳥羽伊織という者が、この家に来たと名乗っていたものですから」
その瞬間、伯爵の目がわずかに細くなった。
そして、ほんの一拍だけ考えるように沈黙する。
やがて、小さく息を吐いた。
「ああ」
静かな声で言う。
「それは今日のことだったか」
美代子の目がわずかに動く。
伯爵は続けた。
「来たよ。寝てばかりいるから、いつのことだか分からなくなってしまったよ」
それだけ言う。
美代子はしばらく伯爵を見つめていた。
何かを測るように。
その時、廊下の方で控えめな足音が止まった。
部屋の外から、女中の声がする。
「奥様」
美代子は振り向く。
「何?」
女中は小さく扉を開け、顔を寄せて耳元で何かを囁いた。
その瞬間、美代子の目の奥がわずかに光る。
「……そう」
短く返す。
そしてゆっくり立ち上がった。
「旦那様、お休みください」
伯爵は何も答えない。
美代子は扉を閉め、廊下へ出た。
そのまま歩き出す。
廊下の先、暗がりの向こうに、一人の男が立っていた。
書生風の格好。
細い体。
眼鏡の奥の目が、灯りを受けてわずかに光る。
男は軽く頭を下げた。
「お待ちしておりました」
美代子はゆっくり近づく。
その口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「遅くなってごめんなさい」
男は静かに答える。
「いえ」
ほんの一瞬、視線が屋敷の奥へ向く。
「面白いことが起きているようですね」
美代子の目が細くなる。
「ええ」
静かな声で言った。
「どうやら、そうみたい」
夜の廊下に、二人の影が長く伸びていた。




