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第五話:食卓をはさんで

庭園の宴から戻ってきて、どれくらい時間が経っただろう。


莉央は重たいドレスと視線を引きずるように部屋へと戻った。


窓の外は、もう日が傾きかけている。

空の色は薄く夜に溶けはじめ、屋敷の庭にも静かな影が落ちていた。


莉央はソファに沈み込み、何度目かの大きなため息をつく。


「……はー」


肩から力が抜ける。


視線と、笑い声。噴水の冷たい水。


思い出すだけで胃が重くなる。


(やっちまったなあ)


莉央は苦笑した。


あんな啖呵を切るつもりはなかった。

静かにやり過ごすはずだったのに。


(ま、後悔はしてねえけど)


むしろ、少しだけ胸がすっとしていた。


雪乃はきっと、ああやってずっと笑われていた。


だったら。


(少しくらい、言い返してやってもいいだろ)


このままこの暮らしを雪乃に返して、元通りにするだけじゃ意味がない。

あの宴に出て、それを思い知らされた。


継母の冷たい笑み。

婚約者の見下げた視線。


そのどれもが莉央の頭にこびりついて離れない。


もう誰にも笑わせない。

この家を、雪乃が生きやすいような環境にして返す。


そのためなら、多少揉めたって構わない。


莉央は自分の中で何かがカチッと定まったような気がして、どこか晴れ晴れとした気持ちさえしていた。


――そのとき。


「……雪乃様」


襖の向こうから女中の声が響いた。


莉央は顔を上げた。


「奥様がお呼びです」


思いがけない呼び出しに、莉央の喉に一瞬言葉が詰まる。


「……今?」


「はい。奥様がお待ちです」


莉央はゆっくり立ち上がった。


机の上に置いてあったレースを手に取り、目元に巻く。


鏡をちらりと見る。


(早速かよ)


さっきまでの決意が、少しだけ遠くなる。


けれど逃げるわけにはいかない。


「……行くよ」


襖を開けると、女中が静かに頭を下げた。


「こちらへ」


廊下は静けさに包まれている。


昼間は人の出入りが多かったはずなのに、

今は足音だけがやけに響いた。


白鷺邸の夜は広くて、少し寒い。


女中の後ろを歩きながら、莉央は内心で小さく身構える。


宴であんなことがあったばかりだ。

どう考えても、良い話じゃない。


一対一の喧嘩なら負ける気はしないが、多勢に無勢だとさすがに分が悪い。


(逃げ道だけは考えておかないとな)


そんなことを考えているうちに、女中が足を止めた。


「奥様」


襖の向こうへ声をかける。


「雪乃様をお連れしました」


中から、やわらかな声が返ってくる。


「どうぞ」


襖が開いた。


部屋の中は明るかった。


広い和室の中央に、低い食卓。

料理が並び、湯気が立っている。


そして、その向こうに――


雪乃の継母、白鷺美代子が座っていた。


美代子は莉央を見ると、穏やかな声で言った。


「いらっしゃい、雪乃。せっかくだもの。今日は一緒に夕食にしましょう」


莉央は一瞬、言葉を失った。


予想していた空気とあまりにも違うので、思わず面食らう。


「久しぶりね」


美代子は嬉しそうに続けた。


「こうしてあなたと食事をするの」


そして静かに席を示す。


「そこに座りなさい」


「……失礼します」


莉央は警戒したまま腰を下ろした。


食卓を挟んで、正面。

湯気の立つ料理の匂いが漂う。


二人きりの夕食は、静かに始まった。


器の触れ合う小さな音だけが、広い部屋に響く。


美代子はゆっくりと箸を取った。


「味はどう?」


「……美味しいです」


「そう。よかった」


それから美代子は、体調のことや最近の生活のことなど、当たり障りのない話題をいくつか口にした。


莉央はそれに無難に答え続ける。


やがて話が途切れると、短い沈黙が落ちた。


美代子は穏やかな表情のまま、ゆっくり料理を口に運んでいる。


(……どういうつもりだ?)


動揺を悟られないよう、莉央は何食わぬ顔で味噌汁をすすった。


しばらくして、美代子が口を開く。


「先ほどの宴、どうだった?」


「……どう、とは?」


「久しぶりに人前に出たでしょう?」


にこやかな声。


「疲れたんじゃないかしら」


莉央は肩をすくめた。


「まあ……ちょっとは」


「でも、ずいぶん元気だったじゃない」


美代子はくすっと笑う。


「私、驚いたのよ。まさかあんなふうに人前で話すなんて」


箸が止まる。


「以前のあなたなら、俯いたままだったのに」


少し間を置き、


「私、あなたのこと誤解していたのかしらね」


莉央はゆっくり顔を上げた。


「……悪かったですか」


美代子は目を細める。


「いいえ? むしろ嬉しかったわ」


そう言いながら、楽しそうに続ける。


「人って、変わるものね」


美代子は箸を置いて、一呼吸おいてから言葉を吐き出した。


「ねえ――」


変わらず笑っているのに、部屋の温度がふっと下がった気がした。


「その目元のレース、とってもおしゃれね」


莉央の背中を、冷たいものが走る。


(……来たな)


直感が、はっきりとそう告げた。


焦りを悟られないよう、莉央はできるだけ平静な声で言葉を返す。


「ありがとうございます。目を少し……光を直接見ると痛むので」


「あらまあ、それは大変!」


美代子は大げさに眉を上げる。


だがその目の奥は、相変わらず冷たいままだった。


「でも、食事の席でもつけっぱなしというのは、少し無作法かしら」


軽く首を傾げる。


「下品、と言ってもいいわね」


「申し訳ないですが、それは――」


「外しなさい」


言葉が、静かに落ちた。


莉央は一瞬息を詰める。


「……いや、でも――」


「外しなさい」


さっきまでの笑顔は、もうそこになかった。


「今すぐに」


部屋の空気が張り詰める。


美代子はちらりと視線を動かした。

それだけで十分だった。


女中が静かに一礼し、莉央の方へ歩み寄ってくる。

足音はほとんどしない。

けれど、その距離がゆっくりと縮まっていく。


莉央は急いで身構える。


(やばい)


「や、やめてください」


「ねえ、あなたまさかその布切れ一つで、生まれ変わった気になれたの?

何者かにでもなれたつもりなの?」


「そんなつもりは――」


頭の中で、警鐘が鳴る。


考えろ。

考えろ。考えろ。


でも、この距離じゃ――


女中の手が、莉央の目元へ伸びた。

レースの端に触れる。


(終わった)


その瞬間。


「――失礼いたします」


落ち着いた男の声が、襖の向こうから響いた。


ぴたり、と女中の動きが止まる。


襖が開いた。

背の高い男が、すっと部屋に入ってくる。

羽織を軽く払うように整えながら、にこやかに頭を下げた。


「突然お邪魔して申し訳ありません」


その顔を見て、美代子の眉がわずかに動く。


「……どなた?」


男は軽く胸に手を当てた。


「鳥羽伊織と申します」


人懐っこい柔らかな笑み。


何がそんなに嬉しいのか、目をきらきらさせながら言葉を続ける。


「昔、このお屋敷でお世話になっておりまして。この度、他家での修行から戻ってきたのですが……」


そして、ぱっと顔を上げた。


「新しい奥様がこんなにもお美しい方だとは思いませんでした! お会いできて光栄です」


あまりに自然な調子で言うものだから、一瞬誰も言葉を挟めない。


伊織はそのまま部屋を見渡し、ふと、莉央を見つけた。


「……あれ?」


目を見開き、大げさに声を上げる。


「雪乃様!?」


ぱっと近づいてくる。


「お久しぶりです! いやあ、あんなに小さかったのに……」


莉央を見上げて、しみじみと頷く。


「こんなに大きくなられて!」


感極まったように胸を押さえた。


「涙出そうですよ……!」


勢いのまま、莉央と女中の間にすっと入り込む。


ちょうど、レースを取ろうとしていた女中の手を遮る位置に。


その瞬間――


伊織と莉央の目が、ばっちり合った。


(……やべえ)


背筋に冷たい汗が流れる。


だが伊織は、まるで何も気づいていないかのように、のんきに笑っていた。


「いやあ、すっかりご立派になられまして。時が経つのは早いなあ」


そして、ふと思い出したように美代子へ振り向く。


「そうそう、これから雪乃様専属のお世話係を仰せつかることになりまして」


にこりと笑うと美代子の目がわずかに細くなる。


「誰がそんなことを?」


「先ほど、旦那様からそう伺ったのですが……」


「……そう」


美代子は一瞬だけ考え、冷たく返した。


だが伊織はまったく気にする様子もない。

むしろ楽しそうに続ける。


「それで、私の部屋なんですが……雪乃様の隣を使えと言われたのですが、どこだか分からなくて」


ちらりと莉央を見る。


「雪乃様、案内していただけます?」


美代子はしばらく伊織を見ていた。


それから、ふっと笑う。


「……そう。あなたが鳥羽家の」


伊織は軽く頭を下げる。


「ええ、まだまだ未熟者ですが」


美代子はゆっくり頷いた。


「いいわ。雪乃、案内して差し上げなさい」


莉央は一瞬だけ美代子を見る。

その視線は、さっきまでよりもずっと冷たかった。


けれど、今は何も言わない。


「……はい」


莉央は立ち上がった。

伊織は満足そうに笑う。


「助かります」


二人は部屋を出た。


襖が閉まる。


廊下に出た瞬間、莉央は小さく息を吐いた。


(助かった……)


雪乃の部屋の前まで戻り、隣の部屋の襖を開ける。


「わあ!」


伊織が楽しそうに声を上げた。


「こんな立派な部屋、私が使っちゃっていいんですかね」


遠慮の欠片もなく中へ入り、荷物を置く。

あまりに毒気のない様子に、莉央も思わず笑みがこぼれた。


(いいヤツそうだな)


少し抜けてそうで、なんか憎めない。


ビックリはしたけど――

まあ、こいつならうまくやっていけそうだ。


伊織は床に膝をつき、さっそく荷解きを始めている。


莉央はくるりと背を向けた。


「それじゃ、私は行くな」


部屋を出ようとした、そのとき。

荷解きの手を止めないまま、伊織が声をかけた。


「あの――最後に、もう一つ聞いていいですか?」


莉央は振り返らないまま答える。


「んー? なんだ?」


さっきまでの緊張がほどけ、つい気が緩んでいる。

軽く笑って返した、その瞬間。



「――あんた、誰?」



その言葉で一瞬にして爪先まで体温が消えた。


ゆっくりと振り向く。


時間が妙に長く伸びた気がした。


窓から差し込む月明かりが、静かに部屋を照らしている。

障子を透かした淡い光が、伊織の横顔を白く浮かび上がらせていた。


さっきまでの軽い笑顔は、もうない。

荷物の横に座ったまま、伊織は真っすぐ莉央を見つめていた。


その目だけが妙に静かで、逃げ場なんて、最初からなかったみたいだった。


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