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第四話:宴の時間

鏡の前に立ち、莉央はしばらく自分を見ていた。


用意されていたドレスは、寸分の狂いもなく体に合っている。

淡い色の絹地に、控えめな刺繍。

装飾は多いのに、なぜか目立たない。


まるで――


「目立たないように」


そう整えられた服だった。


(……これで合ってんのか?)


人生で初めて身につけるものばかりだ。

それでも、誰も手伝いには来ない。


髪を整えるのも、装飾をつけるのも、すべて一人。


ノックの音もない。

急かされることもない。


ただ、静かだった。


莉央は机の上に置いてあったレースのハンカチを手に取る。

昨日、雪乃が薬草を包んで渡してくれたものだ。


「……これ、だったな」


雪乃が言っていた。

人前に出るときは、目元を隠すように、と。

莉央がレースを目元に巻くと、深い青が底に沈んだ。

家族の令嬢が体調を理由に薄布をまとうことは、この家では珍しくないらしい。


鏡の中の自分が、少しだけ雪乃に近づいた気がした。


(平穏に、無難にやり過ごす)


自分に言い聞かせるよう、心の中で呟く。


時間になり、莉央は部屋を出た。


廊下は静かで、足音だけがやけに響く。

案内役もいないまま、教えられた通路を辿る。


やがて、大きな扉が見えた。

その向こうから、ざわめきが聞こえる。


庭だ。


扉を開けた瞬間、空気が変わる。


色とりどりの花、整えられた芝生、音楽と笑い声。

華やかさの中に、視線だけが冷たかった。


莉央が一歩踏み出すと、淡い銀の髪が光に透ける。

その瞬間、空気がざわめいた。


そして――ひそひそと、声が広がる。


「あら……あれってもしかして」


「雪乃様?」


「初めて見たわ」


「部屋から出られないって聞いてたけど」


「奥様も、お気の毒よね」


使用人たちは目を伏せる。


必要以上に見ない。

近づかない。


それが、この家での正解らしい。


胸の奥がきゅっと締まる。


莉央はわざと背筋を伸ばした。


(なるほど)


ここが、雪乃の居場所だった場所。


視線の中に、一人の女がいた。

年齢はまだ若い。けれど、纏う空気ははっきりとこの家の人間のものだ。


雪乃の継母だと、すぐに分かった。


彼女は莉央を一瞥しただけで、興味を失ったように視線を逸らした。

心底どうでもいいものを見る目。


――気づかれなかった。

その事実に、ほっとするはずなのに、胸の中に違和感が残る。

仮にも家族だというのに、疑うことさえしない。


バレなくて良かったという気持ちと、腹の底がざらつく感覚が同時に残った。


ふと、庭の奥がざわついた。

人の流れがそちらに向かう。


背の高い男が、姿を現した。


姿勢がいい。動きに無駄がなく、周囲の視線を自然と集めている。


「ようこそいらっしゃいました。鷹宮様」


(……あの人か)


雪乃の婚約者――鷹宮景臣。

侯爵家次男にして、帝国陸軍少佐。


よく分からないが、とにかくなんだか偉い人らしい。


誰かが彼に声をかけると、男は短く応じる。

莉央に気づく様子もなく、視線が交わることもない。


莉央は庭の端に立ったまま動かなかった。

花と人に囲まれた場所で、彼女だけが浮いていた。


庭の奥には、白い石で縁取られた大きな噴水池があった。

水は澄んでいて、底までよく見える。


その周囲には人が集まっている。

談笑する声、杯の触れ合う音、軽やかな笑い


莉央は誰とも視線を合わせず、そこを通り過ぎようとした、その瞬間。


「――あ」


何者かに足をかすめられる感触があった。


次の瞬間、身体が前に傾く。

反射的に手を伸ばしたが、掴めなかった。


視界が白く弾ける。


ざぶん、と音がした。


冷たい水が一気に身体を包む。

ドレスが水を吸い、重く沈んだ。


池の青に、銀色の髪がほどけた。


水を吸ったドレスが重くまとわりつき、冷たい石畳に雫が落ちる。

庭園を満たすざわめきは、波紋のように広がっていた。


ゆっくりと、莉央は体を起こす。


濡れた銀色の髪が頬に貼りついている。

それを拭おうとはしない。


周囲が静まっていた。


――次に聞こえたのは、くすり、という笑い声。

ひとつではない。抑えきれなかった複数の音。


「まあ……」


「悲惨ね」


「見てられないわ」


招待客たちの声。

使用人は、視線を逸らしたまま動かない。


莉央は息を整えながら視線を上げた。

人の輪の向こうに継母がいる。口元に、わずかな笑み。


――ああ。


(これ、いつものやつだ)


そう理解した瞬間、沸騰しそうになる気持ちを堪え、莉央はなんとか自分に言い聞かせる。


(……平穏に無難にやり過ごす)


助けを求めるつもりはなかった。

けれど、無意識に、視線が一人の男を探す。


庭の中央。人に囲まれながら、変わらない姿勢で立っている男、鷹宮景臣。


視線が合った。


ほんの一瞬、彼の目が莉央を捉える。


次の瞬間、視線は逸らされた。


まるで、道端のゴミでも見るみたいに。


誰も動かない。

誰も声をかけない。


(……川のときは)


迷いなく伸びてきた手。理由も聞かず、引き上げてくれた力。


胸の奥で、何かがすっと冷える。

怒りではない。失望とも、少し違う。


ただ――冷たいマグマが腹の底で、静かに煮えたぎる。


莉央は噴水の縁に手をかけ、ゆっくり立ち上がる。

水を含んだドレスが足元に重くまとわりつく。


周囲の視線を、正面から受け止める。

そして、景臣を見る。


(平穏に、無難にって思ってたんだけどな)


声は思ったよりも落ち着いて出た。


「……景臣様って」


庭の空気が、ぴしりと張りつめる。


「婚約者が噴水に落ちてても、気づかないほど視野が狭いのね」


ざわり、と小さく波が立つ。


景臣はゆっくりこちらを見た。

感情の読めない目。


「失礼」


低く、はっきりした声だった。


「あなたに、ものを言える口があるとは思いませんでした」


冷たくそう言い放つと、彼は一歩前に出た。

形式的に、手を差し出す。濡れたままの莉央に向かって。


莉央は一瞬その手を見て、それから視線を上げた。


(なあ、雪乃……。優しいあんたは、ここでずっと一人だったんだな)


豪華な箱の中で。大勢の人間に囲まれて。

でももう、大丈夫。


あんたが戻ってこられるように、あんたの人生、私が取り戻す。誰にもバカにされないように、私が暴れてやる。


そして一年後、ちゃんとあんたに返すよ。


莉央は濡れた手で、景臣の手をぎゅっと握った。


「これからよろしく」


静かに、はっきりと。


噴水の水音が、再び庭に戻る。


もう、誰も笑っていなかった。


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