第三話:白鷺邸へ
川沿いの道を離れ、二人はゆっくりと長屋の方へ歩いていた。
その道中、雪乃の声はずっと途切れない。
「私の部屋は西棟の奥にあります。そこの二階です。窓から入るには――」
「うん」
莉央は適当に相槌を打つ。
「あと、女中頭の名前はお春といって――」
「うん」
「それから、庭には東屋があって、そこにはあまり近づかない方がよくて――」
「うん」
雪乃は歩きながらも、必死に思い出すように言葉を重ねていく。
一つでも多く伝えなければ、と焦っているのが分かった。
やがて、長屋の屋根が見えてきた。
煤けた瓦屋根が、ぎゅうぎゅうに並んでいる。
莉央は足を止めた。
「ここまでだな」
雪乃も、はっと足を止める。
「え……?」
「この先は長屋だ。宗次ってやつがいるから、そいつを頼れ」
「宗次……」
「でかくて、怖い顔してるけど、まあ大丈夫なやつだ」
莉央は肩をすくめた。
「私まで行くと面倒なんだよ。見つかったら、あいつうるせーんだ」
雪乃は、言葉を失ったまま立ち尽くしている。
「で、えっと、それから……」
また何か思い出したらしい。
「父の書斎には古い柱時計があって、毎時――」
「もういい」
莉央が笑った。
「十分聞いた」
「で、でも――」
「それ以上は覚えらんないよ。あとは向こうでなんとかするさ」
雪乃はまだ不安そうな顔をしていた。
「でも……」
「大丈夫だって」
莉央は軽く手を振った。
「なんとかなる。たぶん」
その「たぶん」が妙に軽くて、雪乃は少しだけ目を丸くする。
しばらく沈黙が落ちた。
風が吹き、雪乃の銀色の髪が揺れる。
やがて、雪乃は足元に目を落とした。
道端に生えている草をそっと摘み取り、繊細なレースのハンカチにくるんだ。
「……これ」
ハンカチごと莉央は受け取った。
「なんだこれ」
「揉んで、足に塗ると疲れが取れます。あと、傷にも少し効きます」
「へえ」
くるくると指で回して眺める。
「そういうの分かるんだ」
雪乃は小さく頷いた。
「父が……昔、教えてくれて……」
少しだけ懐かしそうな顔だった。
莉央はふっと笑う。
「なあ」
雪乃が顔を上げる。
「さっきさ、何もできないって言ってたろ」
手の中の薬草をひらひら振る。
「直ってやつがいるんだ。長屋の子でさ、母ちゃんが咳ひどくて」
雪乃の目が少し大きくなる。
「あとで訪ねてやってくれ」
莉央は軽く笑った。
「あんた、何もできないなんてことないよ」
長屋の屋根の方を顎で指す。
「少なくとも、ここではな」
雪乃はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
莉央はくるりと背を向けた。
「じゃ、行ってこい」
その声は、いつもと同じ軽さだった。
いったいどれくらい歩いただろう。
あたりはすっかり暗くなっていた。
ようやく見えてきた屋敷を前に、莉央は思わず足を止めた。
「……でっか」
思わず声が漏れる。
闇の中に、巨大な屋敷が浮かび上がっていた。
瓦屋根の重なりと、西洋風の白い外壁が混ざり合った、不思議な造りだ。
和館の奥に洋館がつながり、庭を囲むように長い回廊が続いている。
灯りがぽつぽつと窓に灯っていて、まるで小さな町みたいだった。
「これが……白鷺邸、か」
長屋とは、別の世界だ。
莉央はしばらく見上げていたが、やがて小さく息を吐いた。
歩きすぎで足がじんじんと痛む。
こんな距離を、あの雪乃が一人で歩いてきたのか。
(……あのお嬢様がな)
歩くたび、疲れがにじむ。
けれど、それはただの疲れじゃない気がした。
雪乃が抱えていたもの。
逃げてくるまでの恐怖や絶望。
それが、足の重さになって残っているみたいだった。
「……やめやめ」
頭を振る。
今は考えても仕方ない。
莉央は屋敷の裏手へ回った。
(確か、ここを通って……)
雪乃が何度も説明していた言葉を思い出す。
裏庭の植え込みの間を抜ける。
石灯籠の影を使って、壁際へ寄る。
誰もいない。
莉央は壁を見上げた。
「……高っ」
思わず小さく呟く。
屋敷の外壁は、長屋の塀とは比べ物にならない高さだった。
しかもつるりとしていて、足をかける場所がほとんどない。
(本当にここか……?)
莉央は少し離れて、壁の形を見直した。
「……なんとかいけるか」
小さく息を吐く。
助走をつけ、壁の装飾に足をかけた。
そして雨樋を掴み、さらに体を引き上げると、指先に石のざらつきが食い込んだ。
「っ……」
なんとか最後の出っ張りに足をかけ、ようやく窓枠に手が届く。
「……ふう」
小さく息を吐き、そっと窓を押す。
きぃ、と小さく軋む。
莉央は一瞬息を止めた。
……静かだ。
ゆっくりと体を滑り込ませる。
床に降り立つと、靴底に柔らかな絨毯の感触が伝わった。
(……すげえ)
部屋は広かった。
厚い絨毯、重い机、背の高い棚。
壁には絵画がかかっている。
長屋の部屋が、そのまま三つは入りそうだった。
(ここか……?)
莉央は辺りを見回す。
雪乃の部屋は、もっと静かで、人の気配がないと言っていた。
ここは違う気がする。
そのときだった。
――ごほっ。
かすかな咳が聞こえた。
莉央の体がぴたりと止まる。
……人がいる。
奥の寝台の方からだ。
もう一度、咳。
今度は長く続いた。
莉央はゆっくり視線を向ける。
薄い天蓋越しに、人影が見えた。
灯りの下で、男が体を起こしている。
痩せた肩に細い腕。
自分を支えるのもやっとな様子だった。
(……やば)
莉央は音を立てないよう、そっと一歩下がる。
(部屋、間違えたか?)
そっと入ってきた窓から身を乗り出し、外を見回す。
暗闇の向こうに、もう一つ小さな塔が見えた。
(……あっちが雪乃の)
外から見た屋敷の大きさを思い出す。
似たような棟がいくつも並んでいた。
どうやら、一つ手前の塔に入り込んでしまったらしい。
そう考えた、そのとき――
「……雪乃」
低く、掠れた声だった。
莉央の心臓が一瞬止まる。
だが男の視線は、こちらを見ていない。
気づいたわけではないようだった。
男は虚空を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「……すまない」
ぽつりと落ちる声。
「父親なのに……何もしてやれん」
咳が混じる。
痩せた肩が小さく揺れた。
「家のことも、使用人のことも……もう私の手にはない」
また、同じ言葉が落ちる。
「すまない」
「雪乃」
「すまない」
まるで、許しを請うように。
それでいて――
誰かに届くことを期待していない声だった。
莉央は息を潜めたまま聞いていた。
男の声は、誰にも届かない場所に落ちていく。
「雪乃」
もう一度、名前を呼ぶ。
今度は、少しだけ柔らかかった。
「元気でやっているか」
「なにか苦しんではいないか」
男は胸を押さえながら、ゆっくりと息を整えた。
「雪乃」
「お前の顔が見たいよ」
長い沈黙が落ちる。
男は体を横にし、やがて呼吸が静かになっていく。
眠ったらしい。
莉央は、しばらく動けなかった。
やがて、音を立てないように窓枠へ足をかける。
そっと外へ出た。
夜の空気がひやりと頬を撫でる。
廊下の影を伝って、奥の塔へ向かった。
さっき窓から見えた、小さな塔。
雪乃の部屋がある場所。
(……なんだよ)
胸の奥が、妙に重い。
(ちゃんといるじゃん)
雪乃はきっと知らないのだろう。
雪乃を思ってくれる家族が、ちゃんとこの家にいることを。
莉央は小さく息を吐いた。
(帰ってきていい場所、あるじゃん)
あの父親は、まだそこにいる。
だったら――
(ちゃんと守らないとな)
この入れ替わりが、絶対にバレないように。
一年。
一年だけ、何事もなく平穏にやり過ごす。
雪乃が、いつでも帰ってこられるように。
そう決めて、莉央は塔の扉を開け、奥へと進んでいく。
雪乃の部屋を見つけると、部屋の前の廊下に膳が置かれていた。
その横にあった紙を、莉央は拾い上げる。
『明日、宴を開きます
鷹宮景臣様もお見えになります
くれぐれも恥をかくような振る舞いはなさらぬよう』
それだけ。
差出人もない。
莉央は紙を見つめたまま、ふと膳に目を落とす。
広い廊下に取り残されたその膳からは、もう、少しのぬくもりも感じられなかった。




