第二話:人生を入れ替えよう
川面はまだ揺れていて、濡れた着物の裾からは、水がぽたりと落ちた。
濡れた髪をかき上げながら、莉央は少女に問いかけた。
「この辺じゃ見ない顔だよな。ここで何してた?」
「……え、と……」
少女は帽子の縁に指をかけ、視線を落とす。
「……家、から……」
「家から?」
促すと、小さく頷いた。
「……逃げて、きました……」
言った途端、息が乱れる。
泣きそうで、泣かない。
泣き方を忘れてしまったみたいな顔だった。
「行くあては?」
「……」
「ある? ない?」
「……ない、です……」
消え入りそうな声に、莉央は肩をすくめた。
「じゃあうちの長屋来るか? 仕事多いしうるさいし、綺麗でもない。でも、こんなとこにいるよりはずっと安全だ」
少女は慌てて首を振る。
「だ、だめです……私が行ったら……そのご迷惑が……」
「迷惑?」
「……私、何もできないし……」
「何もできないんだ」
莉央が言うと、少女はこくんと頷いた。
頷き方が、やけに素直で、なんだか危なっかしい。
「……私……」
言葉を探すように視線を落とす。
「私、家にいたくないんです。でも、どこにも行けない……生きてても迷惑をかけるだけだって分かるから……もういっそ――」
その言葉に、莉央の表情が変わる。
「やめろ」
少女はびくっと肩を震わせ、慌てて口をつぐむ。
怒らせたと思ったのだろう。縮こまり方が、子どもみたいだった。
莉央はため息を一つつく。
「あんたさ、私を助けただろ」
少女が顔を上げる。
「見ず知らずの私を、迷いもせず川から引っ張り上げた。危ないって分かってたはずなのに」
「それは……」
「それなのに、なんで自分のことになると何も言えなくなるんだよ。なにがあんたをそうさせたんだよ」
腹を割って話そう、とでも言うように莉央が薄く笑うと、少女は黙ったまま困ったように視線を巡らせた。
「私もさ、あんたと似たようなもんだよ。行くとこなくて長屋に流れ着いただけ」
少女は目を丸くした。
「……あなたも?」
「長屋にはそういう人間、いっぱいいるよ。逃げてきたやつとか、家なくしたやつとか」
莉央は軽く笑う。
「だから一人増えたくらいじゃ誰も気にしないよ」
少女はしばらく考え込むように黙っていた。
それから、小さく口を開く。
「私は……家の中で、ずっといない人みたいに扱われてきました」
ぽつり、ぽつりと続ける。
「何年も、まともに誰とも顔を合わせていません。部屋に閉じこもったまま、話も……ほとんど」
息が揺れる。
莉央は遮らず、ただ待った。
「最近、急に婚約が決まりました。私に相談は一言もなく、扉の向こうから決定事項として一方的に告げられて……もう、無理だと思いました」
指先が、ぎゅっと着物を握る。
「このまま飼い殺しのように生きるくらいなら、逃げようって。でも……外に出てみたら、私には行く場所も、できることも、何もなくて」
「親は?」
「母は幼い頃に亡くなりました。その数年後に後妻が来ましたが、私のことをあまりよく思っていないようで……病に伏している父には、ほとんど会わせてもらえません」
声が細くなる。
「なんだそれ。むかつくな」
莉央は即座に言った。
「そんな家、さっさと出ろよ」
少女は俯いたまま、小さく言う。
「……でも、こんな私でもいなくなったら家が困るかもしれなくて」
「困らせとけよ」
「で、でも、家には父もいるし……」
「新しい奥さんが何とかするだろ」
「婚約先にも迷惑が……」
「だから?」
「で、でも……」
「じゃあどうしたいんだよ」
「……分かりません」
「は?」
「自分でも分からないんです。でも逃げたい。でも迷惑はかけたくない。でも――」
その瞬間、莉央の中で何かがぷつりと切れた。
「でもでもでもでもって、うるさい!! なんかあんたにも腹立ってきた!」
少女がびくりと跳ねる。
「え、わ、私……?」
「鳴き声みたいに“でも”しか出てこないじゃん!」
「わ、私は……!」
「逃げたいんだろ?」
「はい……」
「家は嫌なんだろ?」
「……はい」
「婚約も嫌なんだろ?」
「……はい……」
「じゃあ逃げろよ!」
「でも……」
「ほら出た!!」
莉央が両手を天に向ける。
「じゃあ戻れ!」
「それは……嫌です」
「じゃあ逃げろ!」
「でも……」
「どっちだよ!!」
川面に声が跳ねる。
少女はとうとう黙り込んだ。
沈黙を縫うように風が吹く。
莉央は額を押さえた。
「――もーっ! わかったわかった!」
勢いで立ち上がり、濡れた袖を振る。
「じゃあ私がやる! それでいいだろ!」
「……え?」
ぽかんとする少女を莉央は指をさした。
「あんためんどくさい! 私が代わりに全部やってやるからグダグダ言うのやめろ!」
「め、めんどくさい……?」
「そう! めんどくさい!」
言い切ってから、莉央は少しだけ黙った。
(……なんでわたしがそこまで)
自分でもよく分からない。乱暴だとも思う。
でもなぜか止められなかった。
「どうせ私の人生なんて、最初から戸籍も家族もない余り物なんだよ。今さら面倒ごとが一つ二つ増えたところで誤差みたいなもんだ」
少女は目を丸くして、口をぱくぱくさせる。
意味は分かっていない。
でも、とんでもないことを言われているのだけは理解している顔だ。
「代わるって……なにをする気ですか?」
「簡単なことだよ。あんたは逃げたい、でも家にばれたくない。だから逃げられない。――だろ?」
少女が小さく頷く。
「なら私が、あんたの代わりにあんたになって家に戻る」
少女の息が止まる。
「その間に、長屋で考えろ。自分がどう生きたいか」
「そ、そんなの無茶です!」
「あんた、何年も家の人間とまともに話してないんだろ?
私たち、よく見りゃ姿かたちも似てるし、この髪の色も同じだ」
銀色の髪が風に揺れる。
帽子の陰で、翡翠色の瞳がゆっくりと揺れた。
「……瞳の色。私は母親譲りの翡翠の瞳をしているんです。でも、あなたは……。だからやっぱり無理……」
莉央の瞳は、深い深い青色をしていた。
長屋の空より暗くて、川底みたいに静かな色だ。
「じゃあ顔に布でも当てて、髪垂らしとけばいけるな!」
軽い口調。けれど、そこに一切の迷いがない。
決めた目をしていた。
「ダメですよ、だってあなたが……」
「ダメって言うなら、代案出せ」
「……」
「出せない」
「……」
「出せないだろ」
少女は黙ったまま、莉央をじっと見た。
それからぽつりと言う。
「……あなた、怖くないんですか」
「何が」
「知らない家に乗り込むのが。バレたらどうなるか分からないのに」
莉央は一瞬だけ止まった。
「怖いけど」
「じゃあ、なんで」
「……さあ」
莉央が淡々と告げると、少女の目尻から、ふにゃ、と涙が落ちた。
「……どうして……そこまで……」
莉央は少し黙ってから、明るく笑った。
「だって、あんたお嬢様なんだろ? 私も死ぬ前に一回くらい、そんな体験してみたかったんだよ」
けらけら笑う莉央を見て、少女は首を振る。
「……嘘」
「……なんで」
「だってあなた、そんなものに興味ないでしょう?」
その言葉に、莉央はほんの一瞬だけ視線を逸らした。
何も返事を返せなかった。
川の水音だけが響く。
きっと自分は――この人生に意味を持たせたいだけなんだ。
ハズレだと思っていた。捨て人生だと割り切っていた。けれど、こんな人生にも使い道があるなら。
そんなことを心の中で思って、莉央は息を吐いた。
「……名前」
「……え?」
「名前。聞いてなかった」
「……白鷺雪乃……です」
その名を聞いた瞬間、莉央は一度だけ瞬いた。
「よし、雪乃」
短く頷く。
「心配するな。しばらくしたら私も戻ってくる。なにも一生入れ替わるつもりじゃないよ」
「……」
「そうだな、一年にしよう。一年だけ、この入れ替わりを続ける」
「一年……」
「そうだ。その間に雪乃は外で生きてみる。季節を一周してみて、もし大丈夫そうなら、そのまま外で生きてもいい。もし戻りたくなったら――」
戸惑いに揺れる雪乃を前に、莉央は一歩近づく。
「その時はまた、入れ替わろう。あんたの人生、ちゃんとあんたに返すよ」
濡れた手で、そっと彼女の手を握った。
「だから生きな。今は」
川の流れる音だけが、静かに響いていた。
その日、二人の運命は、誰にも知られないまま静かに入れ替わった。




