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第一話:長屋に住む少女

池の青に、銀色の髪がほどけた。


水を吸ったドレスが重くまとわりつき、冷たい石畳に雫が落ちる。

庭園を満たすざわめきは、波紋のように広がっていた。


ゆっくりと、少女は体を起こす。


濡れた美しい銀色の髪が頬に貼りついているが、それを拭おうとはしない。


正面に立つ青年を、まっすぐに見上げた。


氷のような冷ややかな視線を返すのは、彼女の婚約者だ。


道端で、煩わしいゴミでも見つけたようなそんな顔。


それでも少女は、婚約者から視線を逸らさない。


青い水面が揺れる。

二人の間を、冷たい風が通り抜けた。


——これは、少女の人生を取り戻すための物語だ。



帝都の外れにある長屋の朝は、だいたいいつも騒がしい。

誰かが誰かを呼ぶ声と、子どもが走り回る足音と、生きるための荒い生活音が、狭い路地の中で遠慮なく混ざり合っている。


「ほら、こっちはもう終わり! 手が空いたやつは向こうを手伝いなー!」


莉央が声を張ると、子どもたちはぶうぶう文句を言いながらも、指さされた方へと散っていく。


ここは、身寄りのない人間や、行き場をなくした家族が流れ着く長屋だ。

戸籍よりも、家柄よりも、今日の仕事ができるかどうかがものを言う。


莉央はまだ若いが、手が早く、判断も早い。

面倒見もいい。


煤けた瓦屋根の下、灰色の埃をかぶってもなお目を引く淡い銀色の髪を揺らしながら、いつも子どもたちの真ん中にいる。


「莉央! こいつまた水汲みサボってる!」


「うるせー! ちょっと躓いてただけだ!」


「はいはい、ケガがないなら足は動くだろ。ほら、行った行った」


口論しかけた片方の襟首をつまみ、軽く井戸の方へと押しやる。

一瞬むくれた顔をしたが、すぐに笑って駆け出していった。


毎日こんな調子だ。


文句を言いながら、ぶつかりながら、それでも皆で手を動かし、足を動かし、今日をどうにかやり過ごしている。



昼時が近づき、長屋のあちこちから湯気が立ちのぼり始めた頃だった。


長屋の出口へ向かって、小柄な少年が足早に歩いていく。


長屋の角に住む漬物屋の次男坊、直だ。

肩には、くたびれた布袋を提げている。


「どこ行くんだ?」


背後から声をかけると、直は振り向いた。


「莉央か! ちょっとな」


「“ちょっと”って顔じゃないだろ」


直はむっとして胸を張る。


「母ちゃんの咳、昨日よりひどいんだ。土手の向こうに効く草があるって聞いた。俺が取ってくる」


「やめとけ。昨日、雨だったろ」


「今日なら平気だ!」


言い切るが、足元がわずかに揺れる。


「あの辺、濡れてたら滑るぞ。お前が怪我したら、そっちのが母ちゃん苦しむだろ」


「うるさい! 大丈夫だ!」


怖さを押し隠すように強がる直を見て、莉央は小さく息を吐き、そしてひょいと布袋を奪った。


「じゃ、私が行こう」


「な、なんでだよ! 俺が――」


「うるさい。子どもよりは足腰に自信あるぞ」


軽く笑って見せた、そのとき。


「どこ行くつもりだ」


低い声が落ちた。


長屋でリーダーのような存在の青年――宗次が、腕を組んで立っている。


直の顔はさっと青ざめるが、莉央は何でもない顔で振り向いた。


「散歩」


「……は?」


「ちょっと土手まで。腹ごなしだ」


宗次の目が細まる。


「昨日の雨で足場悪いぞ」


「知ってる知ってる」


ひらりと手を振る。


その隙に、直へ小さく目配せした。


——任せとけ。


直が息を呑む。


「莉央」


呼び止める声を背に、莉央はもう歩き出していた。


「すぐ戻る」


「待て」という声が風に混ざって追いかけてくる。


聞こえないふりをして、路地を抜けた。


長屋の外へ出ると、風が強くなる。

銀色の髪がふわりと広がり、陽の光を受けてきらめいた。


(あぶねえあぶねえ)


莉央は一人で小さく笑う。


宗次に勘づかれたら面倒だ。

どうせまた言われる。


自分を大事にしろ、とか。

危ない橋を渡るな、とか。


(そんな大層な話じゃないのにな)


別に、胸が痛むわけでもない。

自分だけが我慢しているつもりもない。


ただ、単純な話だ。


自分にいいことがあっても、どこか無駄に思えてしまう。

それなら、いいことは他の子に回した方がいい。


その方が全体として得だし、無駄がない。


だから、繰り返される宗次のあの手のお説教には、いまだにどういう顔をすればいいのか分からないでいる。


少しだけもつれた考えを振り払うように、莉央は歩みを早めた。



しばらく歩くと、川沿いの道に出た。

昨夜の雨で、土手は黒く湿っていて、水の流れは思ったより速い。


さっきまで青かった空は、いつの間にか重たい雲に覆われている。

川沿いの風も、どこか湿り気を帯びていた。


土手の向こうの斜面に、目当ての薬草が群れているのが見える。

雨に濡れた葉が、鈍く光っていた。


「よし」


ぬかるんだ斜面に足を取られないよう踏みしめながら、莉央は草の生える方へと身を乗り出す。


昨日の雨で、土は柔らかく崩れやすい。


それでも構わず、慎重に足を運ぶ。


手を伸ばせば届きそうなところに、ひときわ青々とした株があった。


「これなら文句ないだろ」


指先が薬草に触れた、その瞬間。


――ズルッ。


嫌な感触が足元から抜けた。


踏んでいた土が崩れる。


空と土手と川が、ぐるりと反転する。


次の瞬間、冷たい衝撃が全身を打った。


「――っ」


水だ、と理解するより早く、身体は流れに持っていかれていた。


見た目よりも、水量がある。


息を吸おうとして、水を飲む。


苦しい。


腕を伸ばすが、掴めるものは何もない。


手から離れた薬草が、水の中で揺れて流れていった。


沈む視界の向こうに、光が揺らぐ。


――そのとき。


影が、落ちた。


次の瞬間、強く手首を掴まれる。


「――!」


ぐい、と乱暴なほどの力で引き寄せられ、岸へと引き上げられる。


土の上に叩きつけられ、莉央は激しく咳き込んだ。


「……っ、げほ……」


肺の奥の水を吐き出し、荒い息を繰り返す。


まだ滲む視界のまま、顔を上げた。


そこにいたのは、同じ年頃の少女だった。


淡い色の着物に、薄手の羽織。

繊細なつくりの洋帽を載せたその姿は、川縁には不釣り合いなほど品があった。


少女は濡れるのも構わず膝をつき、こちらを覗き込んでいる。


翡翠のような美しい瞳が、真剣にこちらを見つめていた。


「……大丈夫、ですか?」


澄んだ声だった。

鈴の音のように、かすかに震えている。


「……ああ、多分。助かった。ありがと」


礼を言うと、少女は小さく首を振った。


「い、いえ……落ちていらしたので……つい……」


その言い回しに、莉央は思わず笑った。


「そっか。じゃあ、仕方ないな」


軽く息を整え、顔を上げる。


その瞬間、風が吹いた。


帽子の影が揺れ、少女の髪がこぼれる。


光を受けて揺れたそれは、

莉央の髪と同じ、やわらかな銀色だった。


(私と、同じ色――)



川面に映る銀がひとつに重なって、どちらのものか分からなくなった。


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