第九話:長屋での生活
玄関前の白い石畳が、昼過ぎの陽を照り返していた。
空は高く、雲は薄い。
さっきまでのやり取りが嘘みたいに、穏やかな陽気だった。
「じゃ、帰るか」
玄関前に停まった馬車を見て、莉央は当然のように伊織に告げる。
「はいはい。どうぞどうぞ」
伊織は軽く手を振った。
「え?」
莉央が振り返ると、伊織はにこにこした顔のまま続けた。
「お二人で帰ってくださいね。私、ちょっと寄るところがあるので」
「は? あれ本気だったのか?」
思わず声が出る。
「お前も帰るんじゃねえの?」
「帰りますよー。
ただ、少し遠回りするだけです」
そして御者に向かって軽く手を上げた。
「雪乃お嬢様を、白鷺邸まで」
御者が無言で一礼する。
「おい」
莉央が一歩踏み出す。
「ちょっと待てって」
伊織はほんの少しだけ身を寄せて、莉央にだけ聞こえる声で言った。
「これを機に、ちょっとは仲良くなってくれよ」
それだけ言って、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
そして、すぐに背を向ける。
「ではでは」
振り返りもせずに言い、そのまま手を振って去っていった。
「……」
玄関前に、妙な沈黙が落ちる。
風が芝生を揺らし、どこかで鳥が鳴いた。
莉央はゆっくり振り返る。
すぐ後ろに、無表情の景臣が立っていた。
莉央は少しだけ顔をしかめる。
(……まじかよ)
「さっさと乗ってください」
景臣の言葉に、莉央は小さく息を吐くと、観念したように馬車へ向かった。
御者が扉を開ける。
「どうぞ」
莉央は無言で乗り込んだ。
革張りの座席が、きし、と小さく鳴る。
その向かいに景臣が静かに座り、扉が閉まった。
外の音が、少し遠くなる。
御者の合図と同時に、馬車が動き出した。
窓の外の景色がゆっくり流れ始めるのを、莉央は黙って見守った。
(……なんだこれ)
会話のない馬車は、行きの道よりもずっと進むのが遅い気がする。
まるでこの沈黙ごと、引き延ばされているみたいだった。
莉央たちと別れたあと、伊織は帝都の裏通りを歩いていた。
鷹宮邸のある表通りは相変わらず賑やかで、人と荷車が絶えず行き交っている。
だが一本裏へ入ると、途端に道は細くなり、家々の壁が近く迫るような景色に変わった。
干された洗濯物が軒先で揺れ、遠くから味噌の匂いが流れてくる。
伊織はゆっくり歩きながら、周囲を見回した。
「……この辺りだったかな」
独り言のように呟き、記憶を辿る。
曲がり角、小さな祠、壊れかけた井戸。
目に入る景色を一つ一つ確かめながら、伊織は少し首を傾げた。
「……こっちか」
歩き出す。
曲がり角を一つ曲がり、さらにもう一つ。
すると、見覚えのある古い井戸が視界に入った。
伊織は小さく息を吐く。
「ああ……」
ばらばらだった記憶が、そこで一つに繋がった。
「ここだ」
道の先には、煤けた瓦屋根の古い長屋が並んでいる。
庭先では子どもたちが追いかけっこをして走り回り、女たちが井戸端で立ち話をしていた。
どこからか鍋をかき混ぜる音が聞こえ、昼下がりの長屋は穏やかな生活の気配に満ちている。
伊織はその光景を、しばらく黙って眺めていた。
そして、ふと視線を止める。
長屋の奥、井戸の近くに一人の少女が立っていた。
袖をまくり、桶を抱えている背中。
陽の光を受けて、淡い銀色の髪がやわらかく光っている。
その姿に、伊織は思わず足を止めた。
(……ああ)
胸の奥で、古い記憶がゆっくりと浮かび上がる。
今より、もう少し小さな背中。
それでも、ぴんと背筋を伸ばして立っていた姿。
風に揺れる銀色の髪と、どこか澄ました横顔。
重たい荷物を誰にも頼らず抱え込みながら、それでも泣き言一つ言わず、自分の足で立とうとしていた――そんな少女の姿。
伊織は小さく苦笑した。
(昔からずっと、こうやって頭の中から出て行ってくれないんだよな)
そのときだった。
「小雪!」
少し離れたところから声が飛ぶ。
少女が振り向いた。
「あ、はーい!」
明るい声を返し、銀色の髪がふわりと揺れる。
その顔を見て、伊織は小さく瞬きをした。
(……雪乃様だ)
少しだけ驚いたが、すぐにそりゃそうかと納得した。
桶を抱えて駆けていく雪乃の背中を見送りながら、伊織はそっと柱の影へ身を寄せる。
長屋の人間が多い。
ここで声をかければ、余計な注目を集めてしまうだろう。
伊織はしばらく様子を見ていた。
雪乃は井戸の水を運び、誰かに声をかけられて笑い、また別の人に手を振っている。
その様子を見て、伊織は静かに息を吐いた。
(……とりあえず、元気そうだな)
しばらくして、人が散り始める。
雪乃が桶を置き、一人で裏手へ歩いていった。
伊織はその後を追う。
長屋の裏手にある人通りの少ない場所で、声をかけた。
「……小雪さん?」
雪乃が振り向く。
「はーい」
そして、目を丸くした。
「ええっと……あれ?」
伊織は軽く頭を下げる。
「お久しぶりです」
雪乃の表情がわずかにこわばり、一歩だけ後ずさった。
伊織はそれを見て、ふっと笑う。
「大丈夫ですよ。全部知ってます」
雪乃の肩が小さく揺れるのを見て、伊織は穏やかな声で続けた。
「心配しないで。俺は、何があろうとあなたの味方です」
二人は長屋の裏手に回り、人目のない場所で腰を下ろした。
古びた石が一つ転がっていて、腰掛けにちょうどいい高さだった。
向こうではまだ子どもたちの声が聞こえ、鍋を叩くような音や、井戸の水を汲む音がかすかに響いている。
「伊織……よね? 久しぶりすぎて、びっくりしたわ」
「私こそ驚きましたよ。いつの間にか、長屋に住む“小雪さん”になっているんですから」
雪乃は楽しそうにけらけらと笑った。
「ふふ、どこからバレるか分からないから念のためよ。自分でつけたけど、結構気に入っているの」
そう言ってから、少し首を傾けて伊織を見る。
「伊織も、そう呼んでいいわよ。それに、もうここでは昔みたいな主従関係なんてないんだから、もっと気楽に話していいの」
「それはいいですねえ」
伊織は軽く笑いながら、背中を少し後ろへ預けて空を見上げた。
濁りのない青空が、どこまでも広がっている。
そういえば、白鷺邸を離れる日も、こんな空だった。
旦那様に言われた言葉が、ふと蘇る。
『立派になって帰ってきてくれ。雪乃のことを頼むな』
一人前になって戻ってきたとき、屋敷はもう、あの頃の面影を残してはいなかった。
それでも――。
固い握手。
信頼と、希望に満ちた眼差し。
あの日の記憶が、胸の奥で静かに蘇る。
伊織はゆっくり視線を戻した。
「……いや」
少し笑う。
「私は、やっぱり雪乃様と呼ばせてください」
その言葉に、雪乃は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
それから、柔らかく微笑む。
「そう……分かったわ」
少しの間、沈黙が二人を包んだ。
やがて伊織がゆっくり身を起こし、頭を下げる。
「雪乃様」
雪乃が目を瞬く。
「やめてよ、急にどうしたの?」
「……すみませんでした」
「え?」
「一番大変な時に、そばにいられませんでした。
無事だとは信じていましたが……やっぱり、顔を見て安心したくて、連絡もせず来てしまいました」
雪乃は少し困った顔をして、それから小さく笑った。
「大丈夫よ。あなたは何も悪くない」
そう言って、手を軽く広げる。
袖の先には、少しだけ土の跡がついていた。
「この生活もね、最初は本当に大変だったけど」
雪乃は肩をすくめる。
「私、全然使えなくて。
水を運ぶのも遅いし、掃除も下手だし。宗次さんって人がいるんだけど、最初は毎日のように怒られてたわ」
伊織は思わず笑った。
「想像できますね」
「でしょう?」
雪乃もくすっと笑う。
「でもね」
少しだけ胸を張る。
「お父様に教えてもらった薬草の知識は役に立ったの。
みんなに植え方を教えたり、一緒に山へ取りに行ったりして……最近は“先生”なんて呼ばれることもあるのよ」
嬉しそうにそう言う。
伊織はその横顔を見ながら、静かに頷いた。
「それはすごい」
雪乃はさらに続けた。
「直くんのお母さんの咳も、少し良くなったし。あと、この前は隣のおばあさんの腰が痛いって言うから、湿布みたいなの作ってあげたの」
話は止まらない。
誰が、どうして、どうなったのか。
雪乃は楽しそうに語る。
その様子を見ながら、伊織は静かに思った。
(……ちゃんと、ここで生きてるんだ)
ふと雪乃が言った。
「そうだ」
少し真面目な顔になる。
「莉央さんと伊織は、大丈夫?」
伊織が顔を上げる。
「あの家は、その……すごく大変でしょう?」
雪乃は少し眉を寄せた。
「莉央さん、無理していないかしら」
その言葉に、伊織は少し笑った。
「元気ですよ。相変わらず、無茶ばっかりしてますけどね」
雪乃はほっとしたように息を吐く。
「そう……よかった」
そして少し迷うように言った。
「私ね、ここでの生活、好きなの。ちゃんと生きてるって感じがするの」
長屋の方を振り返る。
子どもたちの笑い声が聞こえる。
「このまま、ここにずっと住んじゃってもいいかなって思うくらい」
伊織は黙って聞いていた。
雪乃は続ける。
「だから……入れ替わり、もうやめてもいいのかもしれないって思ってるの。
莉央さんたちも、もう逃げちゃっていいんじゃないかって」
その言葉に、伊織の胸の奥がほんの少しだけ揺れた。
莉央が言っていた言葉を思い出す。
『あいつの人生、ちゃんと返すよ』
そして、莉央から聞いた旦那様の言葉も。
伊織は一瞬だけ逡巡する。
だが、すぐには答えなかった。
それから穏やかな声で言う。
「……まだ、急がなくてもいいと思いますよ」
雪乃が顔を上げる。
「今すぐ決める必要はないでしょう。
もう少し、ゆっくり考えましょう」
それだけ言う。
雪乃は少し考えてから、小さく頷いた。
「そうね、そうするわ」
それからふと思い出したように言った。
「でも伊織、この場所よく分かったわね。
莉央さんが案内してくれたの?」
伊織は首を振る。
「いいえ。昔、修行で来ていた屋敷がこの近くだったんです」
雪乃は目を輝かせた。
「え、そうなの?
じゃあ、莉央さんともすれ違っていたかもしれないわね」
「それは……」
伊織が答えようとした、そのときだった。
遠くから声が飛ぶ。
「小雪ー! ばあさんがまた腰が痛いって言ってるぞー! 小雪―!」
雪乃がはっと立ち上がる。
「ごめんなさい、呼ばれてる! もう行かなきゃ!」
そう言って、ぱっと走り出した。
銀色の髪が揺れる。
長屋へ戻っていく後ろ姿を、伊織は黙って見送った。
その背中を見ながら、小さく呟く。
「……すれ違っていた、どころじゃないですよ」
風に揺れる銀色の髪。
少し前のめりに歩く癖。
どこか強情で、真っ直ぐな背中。
そのどれもが、鮮烈に焼き付いて、色褪せることはなかった。
もう会えないと思っていた。
会わないつもりでいた。
まさか――
あの日、雪乃様として白鷺邸にいたのが、あの子だったなんて。
伊織は小さく笑った。
「……生まれて初めて、惚れた女ですよ」
長屋の向こうで、誰かが笑った。
午後の光が、静かに街を包んでいた。




