あの日、社畜は猫になり、そして……
「……あー、なんだかんだ苦労もあったけど、猫でよかった」
最高級の天鵞絨が敷き詰められた、私専用の天蓋付きベッドの上で、私は前足をぐーっと伸ばしながら、ふかふかのクッションに顔を埋めた。
前世で、栄養ドリンクの空き瓶と共に深夜のオフィスで「猫になりたい」と遺言を残してから、一体どれくらいの月日が流れただろうか。
あの頃の私に教えてあげたい。
あなたの願いは叶ったわよ、と。しかも、ただの猫じゃない。国宝級のイケメン公爵に「下僕」として溺愛され、王様からは国賓扱いされ、最高評議会(という名の猫の集会)ではリーダーとして君臨し、時には犬派の公爵夫人と暗闘を繰り広げる……控えめに言って「波乱万丈すぎる猫生」を手に入れたのだと。
「おはよう、私の愛しいステラ。今日も君の毛並みは、朝露に濡れた真珠よりも美しいね」
ガチャリ、と重厚な扉が開く音と共に、朝陽を背負って現れたのは、私の飼い主……いや、自称・永遠の下僕であるレオヴィルだった。
銀色の髪は完璧に整えられ、軍服のような騎士服はシワ一つない。相変わらず、世界遺産に登録すべき「顔面国宝」である。だが、その完璧な美貌は、私を見るなりだらしなく蕩け、頬はほんのりと赤く染まっている。
(……おはよう、レオヴィル。今日も朝から顔が良いわね。そして相変わらず重いわね)
「にゃーん(おはよう)」と短く鳴いてベッドから降りると、レオヴィルは床に膝をつき、両手を広げて私を受け止めた。
「ああ……! この胸に飛び込んでくる君の重み、体温、そして香り……。私の魂が浄化されていく……!」
レオヴィルは私の腹部に顔を埋め、深々と、それはもう深々と息を吸い込んだ。
(……『腹を吸い』を受け入れる。最初は悶えてたっけ)
「ステラ。今日は、君にどうしても付き合ってほしい場所があるんだ」
腹から顔を上げたレオヴィルが、ふと真剣な表情に戻った。その切れ長の瞳には、いつになく深い光が宿っている。
「今日は私に特別休暇を取らせてほしい。騎士団の公務も、領地の政務も、すべてセドリックに任せてきた。……君と私、二人きりで出かけよう」
(……二人きり?)
こんな真剣な顔をしたレオヴィルは珍しいことだった。
「実は、母上とカトリーナは、ガルムを連れて領地の『ドッグラン視察』に行っている。カトリーナは最近、犬のせいで動物愛に目覚めてしまってね。陛下は近隣諸国との猫に関する首脳会談で三日は動けない。つまり……今日だけは、誰も私たちの邪魔はできないんだ」
(……レオヴィル、あなた職権濫用とスケジュールの裏工作、完璧にこなしたわね? 前世の私のクソ上司よりよっぽど優秀なプロジェクトマネージャーじゃないの)
私は呆れつつも、たまにはこの、真面目な飼い主に付き合ってあげるのも悪くないかと思い、コクリと頷いた。
────
用意されたのは、公爵家の紋章……ではなく、私のドヤ顔がデカデカと刻印された豪奢な馬車だった。車輪も肉球にカスタムマイズされていた。
揺れを一切感じさせない魔導サスペンションが効いた車内で、私はレオヴィルの膝の上に乗り、流れる外の景色を眺めていた。
「どうだい、ステラ。今日の外の風はいつもに増して心地よいだろう?」
レオヴィルは、私の背中を専用の銀のブラシでゆっくりと梳かしながら、甘い声で囁く。
窓の外には、豊かで平和な王都の街並みが広がっている。
この街には色々な思い出がある。猫耳フードの流行で貴族から、街中の人間が猫のコスプレをして歩いていた異常な光景や、ギル、ドン、モグ、ララ、プリシラといった仲間たちと、遊び、騙し、貶し、団子し、駆け回った語るも涙な冒険。ただの肩叩き棒を武器だと勘違いしたカトリーナのことを話した後に、アルテリスとお忍びで下町の蚤の市へ行き、王宮と街中の兵士達を大騒ぎさせたこと。
どれもこれも、前世の「自宅と会社の往復」だけの灰色の人生では、絶対に味わえなかった、色鮮やかで、騒がしくて、愛おしい日々だ。
(……思えば遠くへ来たものだわ。物理的にも。最初はただ『餓死したくない』『一生寝て暮らしたい』ってだけの不純な動機だったのにね)
今や私は、この国を(精神的に)支える聖獣としての自覚すら芽生えつつある。社畜根性とは恐ろしいもので、与えられたポジションで無意識に「最適化」と「業務改善(猫の地位向上)」を図ってしまうのだ。
「……着いたよ、ステラ」
ボーッとしていたら、馬車が静かに停車した。
レオヴィルに抱き上げられ、馬車の外へと降り立つ。
そこに広がっていたのは、王都の喧騒から遠く離れた、静かで鬱蒼とした深い森だった。
木々の隙間から木漏れ日が差し込み、足元には柔らかな緑の草の絨毯が広がっている。そして、森の中心には、こんこんと湧き出る清らかな泉があった。
(……ここは)
私は息を呑んだ。
忘れるはずがない。
前世で過労死し、異世界で「ステラ・キャット」として目を覚ました、まさにその場所だった。
あの時、私は空腹で倒れかけ、泉の水面に映る自分の「ピンク色の肉球」と「白い毛並み」を見て絶叫していたっけ。
レオヴィルは私をそっと草の上に降ろすと、自身も泉のほとりに片膝をついた。
「覚えているかい、ステラ。……あの日、ここで君と偶然出会った時の事を」
レオヴィルは、泉の水面を見つめながら、静かに語り始めた。
「あの頃の私は、ただ国のために剣を振るうだけの、感情のない機械のような男だった。母上の教育の影響もあっただろう。規律、義務、責任……それだけが私の世界のすべてだった。だが」
彼の手が、優しく私の頭を撫でる。
「この森に気晴らしに訪れた時、草むらの中で震える小さな白い塊を見つけた。幻の魔獣。……だけど、私の目に映った君は、ただの『お腹を空かせて、必死に生きようとしている、愛おしい命』だった」
(……レオヴィル)
「君をこの腕に抱き上げた瞬間、私の中で、氷のように固まっていた何かが一気に溶け出したんだ。君の温もり、君の匂い、君のその宝石のような瞳……。そしてモフモフな毛並み。君が『にゃふ?』と首を傾げたあの瞬間、私の人生のすべては、君を守り、君を愛するためにあるのだと悟った」
レオヴィルの声が、微かに震えていた。
彼の顔を見上げると、その美しい切れ長の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「ステラ。君は我が公爵家、そして国に、数え切れないほどの笑顔と奇跡、そして騒動と代え難い温かい光をもたらしてくれた。カトリーナも、セドリックも、犬派で頑固だった母上でさえも、君の魅力には勝てなかった。陛下に至ってはタカが外れてしまったが……ともかく、君はこの国の中心だ」
彼は私の小さな前足を、自分の両手でそっと包み込んだ。
まるで、神に祈りを捧げるように。
「私のもとへ来てくれて、本当にありがとう。……私を、君の下僕にしてくれて、ありがとう。これからも、私の命に代えても君を守り抜く。我が公爵家のすべてを賭して、君を世界一、いや、宇宙一幸せな猫にしてみせる」
あの時の「重すぎる変態の猫吸いの戯言」とは違う。数々の騒動を共に乗り越えてきた、彼からの偽りない、心からの「真実の愛(重め)」の誓いだった。
(……もう。泣かせる気なの?)
私は、前世を含めてもこんなに真っ直ぐに愛を伝えられたことなんてなかった。社畜時代は「君の代わりはいくらでもいる」と言われ続けた私だ。
「私のすべては君のためにある」なんて、そんな重すぎる言葉、普通なら引いてしまう。
でも、なぜだろう。今はそれが、不思議と心地よかった。
私はレオヴィルの手に自分の頭を擦り付け、そして、彼を見上げて、これまでで一番甘い声で鳴いた。
「にゃ〜ん……(ありがとう、レオヴィル。私も、あなたに出会えてよかったわ)」
私の思いが通じたのか、レオヴィルは「ああっ……! ステラ!」と感極まった声を上げ、私をきつく、それでいて壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
泉のせせらぎと、小鳥のさえずり。森の静寂の中、私とレオヴィルだけの、美しくも感動的な時間が流れていく。
「ステラ、君も泣いているのかい? ……ああ、ステラ。君の感動の涙も美しい。」
私は自らスタスタと馬車の方へ歩き出した。思い出すと、お腹が減ってきたからだ。
感動の余韻なんて、この体じゃ五分も保たない。これが、猫としての私の今の日常だ。
でも不思議と嫌な気はしない。
これからもきっと、猫耳騎士団は暴走し、カトリーナは勘違いで突き進み、アランダ様は犬派のプライドと猫愛の間で葛藤し、フェリクス王は公務を放り出して、我が家にくだらない用事で押しかけてくるだろう。
そして私は、その度に前世の社畜スキルをフル回転させて、肉球ひとつで問題を解決(あるいは更なる混沌へ導く)していくのだ。
熱苦しくて、わけが分からなくて、重すぎる愛に囲まれた日々。
でも私はもう、深夜のオフィスで「猫になりたい」と絶望していた孤独なOLではない。
(そうね。私は、聖獣ステラ。……この世界で一番、幸せな猫(人間)よ)
私は、馬車のステップに前足をかけ、最後に一度だけ、自分が目覚めたこの美しい泉の風景を目に焼き付けようと振り返った。
――ザッ、ザッ。
(……あら!?)
風の音ではない。
私がかつて倒れていた、泉のほとりの茂み。
そこから、草を踏みしめる小さな音がした。
レオヴィルもその音に気づき、鼻を押さえながら茂みの方を向いた。
「……ん? 野生のウサギか何かか……?」
カサカサと葉が揺れる。
そして、茂みの中から、ゆっくりと姿を現したものがあった。
「……ミャー、ミャー」
マシュマロに鈴を詰め込んで転がしたような、鼓膜に優しい可憐な高音。
白くて、ふわふわで、ピンク色の肉球がぷにっとついた、紛れもない「前足」。
宝石のような金色の瞳、雪のように真っ白な毛並み、そして額には小さな星の紋章。
ぬいぐるみよりも可愛い子猫――もとい、私と「瓜二つ」の、いや、完全にコピーしたかのようなもう一匹の『ステラ・キャット(幼体)』が、そこでお腹を空かせて震えていたのだ。ぶくぶく幸せ太りした私ではなく、最初のか細く小さな私のようだった。
「……なっ!?」
レオヴィルの顔から表情が抜け落ちた。世界遺産の顔面が、理解不能なバグを起こしてフリーズしている。無理もない。「世界に一匹しかいない奇跡の聖獣」といわれる猫が、もう一匹湧いて出たのだから。
(……え? ちょっと待って。嘘でしょ?)
私の背筋に、嫌な汗が流れた。
あのステラ・キャット……見た目は完全に私と同じ。
ということは、もしかして、あの毛玉の中身は。
(……まさか、また『どこかのブラック企業で過労死した別の社畜』が転生してきたんじゃないでしょうね!? それとも私の隠し子!? いや、そもそも私、魔獣の繁殖システムなんて知らないし!!)
「ミャー、ミャー(お腹空いたよ、お腹空いたよ」
ふらふらと倒れ込む、もう一匹の白い子猫。その呟き(猫語)を聞いて、私の前世の記憶が完全に確信に変わった。
(……一先ず、同類ではないみたいね。話がややこしくならなくて良かったわ)
「ス、ステラ!? 一体これはどういうことだ!? ステラが分裂した!? いや、二匹になったのか!? まさか隠し子!? どちらも愛せばいいのか!? 飼い主の責任として、私は公爵家を二つに割るべきか!?」
パニックに陥り、意味不明な決意を固め始めるレオヴィル。
私を見つめて助けを求めてくる、ステラキャット。
そして、頭を抱えて天を仰ぐ。
(……兄妹の争いが減りそうでいいかも)
平穏な森に、私の了承(にゃーん!)と、レオヴィルの歓喜と混乱の叫びが木霊する。
私の異世界転生・猫生ライフ。
どうやら新たな波乱が訪れそうだ。




