公爵夫人と肉球社畜のマウント紛争
早朝。私がいつものように「王者の風格」を漂わせ、廊下の真ん中を優雅にキャットウォークしていた時のことだ。
「……ちょっと、邪魔よ」
目の前に、巨大な「黒い壁」が立ち塞がっていた。ガルムだ。彼は悪気など微塵もなく、廊下のど真ん中で大の字(大の犬字)になって爆睡している。辺境育ちの彼は、ここが「廊下」ではなく「荒野」だとでも思っているらしい。
そこへ、アランダ夫人が紅茶を手に通りかかる。彼女は立ち往生する私を見て、口角を吊り上げた。
「あら、ステラ。通れないのかしら? ンフフ♪ 残念ね〜。いい? 辺境の掟はシンプルよ。『強い者が道を作る』。ガルムをどかせないのなら、あなたはそこから一歩も進めない……弱肉強食の世界では、それが真理なの。残念だったわね。猫ちゃん」
(……出たわね、辺境マウント。でもアランダ様、あなた忘れてるわよ。私が前世で、どれだけ過酷な『新宿駅の乗り換え』を生き抜いてきたかを!)
私は怯まない。ガルムが根は優しい「大型犬」だと知っているからこそ、恐怖などゼロだ。私は一度深く腰を落とすと、猫特有の跳躍力、そして満員電車の隙間を縫う「社畜のすり抜け術」を発動させた。
「フッ!!」
私はガルムの巨体を「踏み台」にして垂直ジャンプ。背中のモフモフした毛を足場に、一気に頭上を飛び越えて着地して見せた。
「……にゃーん(あ、今の? これ、最新のヨガ……踏み台昇降運動よ。健康管理も聖獣の務めだわ)」
私はアランダ夫人に、これ以上ないほどの「ドヤ顔」を向けた。アランダ夫人は、愛犬を文字通り踏み台にされたショックで、その美貌を苦悶に歪ませている。私は尻尾を高く掲げ、清々しくその場を去った。
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午後のティータイム。アランダ夫人は、私にある「挑戦状」を突きつけてきた。
「猫用のパテなんて、軟弱な食べ物だわ。公爵家の聖獣なら、顎を鍛え、野性を研ぎ澄まさなくては。……さあ、これをお食べなさい」
差し出されたのは、鉄よりも硬いと言われる「ドラゴンボーン(魔竜の骨)」のおやつだった。隣ではガルムが「待ってました!」と言わんばかりに、バリバリ、ゴリゴリと凄まじい音を立てて骨を粉砕している。
(……ガルム、あんたやっぱりモグと同類ね。胃袋が宇宙なの?)
アランダ夫人は、一向に手を出さない私を見て、クスクスと笑っていた。
「あら、聖獣様ともあろうお方が、これしきの骨も噛み砕けないのかしら? 案外、形だけなのね」
(……はいはい、毒づきたいだけね。直接噛んだら歯が折れるわよ! でも、ただ諦める私じゃないわ!)
私はそっと、前足をドラゴンボーンに置いた。そして、聖獣としての「魔力」を一点に集中させる。爪先から微細な振動と摩擦熱を発生させ、骨の表面を少しずつ「炙り」始めた。
するとどうだろう。極限まで圧縮されていたドラゴンの髄の香りが、熱によって解き放たれ、部屋中に芳醇な、そして抗いがたい「旨味の香り」が充満した。
「クゥーン……!」
アランダ夫人の命令を無視し、ガルムが鼻をヒクヒクさせて私の足元に擦り寄ってきた。
「ねえ、ステラ! それ、すごくいい匂いだよ! ひと口……ひと口ちょうだい!」
(……作戦成功。素材をそのまま食らうのは野蛮。香りを引き出し、周囲を魅了するのが『一流のプロ』よ)
アランダ夫人は、厳しく躾けたはずのガルムが、私の「おこぼれ」を求めて尻尾を振る姿を見て、再び顔を真っ青にさせていた。
────
深夜。私はいつもの日課である、レオヴィルとカトリーナの書類チェック(という名のアドバイス)をするため、誰もいないはずの執務室へ忍び込んだ。
だが、そこには先客がいた。アランダ夫人だ。彼女は眼鏡をかけ、猛烈なスピードで書類を捌いていた。
「……またあなたなのね、ステラ。犬は主人のために『番』をし、猫はただ寝ているだけでいいのよ。ここは戦場、遊び場ではないわ。今すぐ出て行きなさい」
アランダ夫人は効率重視の冷徹な手捌きで、次々と書類を仕分けていく。だが、その中で彼女は、レオヴィルが大切に温めていた「猫耳騎士団・予算増額案」を、「不要不急の支出」としてゴミ箱へ叩き込もうとした。
(……ちょっと待ちなさい! それはレオヴィルの『夢』が詰まった、唯一のモチベーションなのよ!)
私は音もなく跳び上がると、ゴミ箱の蓋の上にドッカリと居座った。そして、投げ込まれそうになった書類を肉球でガシッ! と押さえつけた。
「退きなさい、ステラ。これは無駄な書類よ」
(無駄じゃないわ。それよりもアランダ夫人、あなたのその『効率的な計算』、三ページ目の流通税の繰越金が抜けてるわよ!)
私は爪を立て、書類の一箇所をカリカリと引っ掻いた。そこはアランダ夫人が見逃していた、昨年度の還付金の記載漏れだった。
アランダ夫人は眉を潜め、私が示した箇所を凝視した。
「……!? まさか、ここを指摘しているの? ……計算が、合わなくなる……。待って、もう一度見直しを……」
アランダ夫人の指先が止まる。彼女は私の顔と、書類の数字を交互に何度も見比べ、その額に冷や汗を浮かべた。
「……この猫。まさか、数字が読めるというの? ……効率ではなく、さらにその先の『利益』を見通している……? ま、まさか。ねぇ……」
深夜の執務室に、アランダ夫人の戦慄が走る。
私はフンと鼻を鳴らし、保留スタンプのように書類を肉球でグッと押さえたまま、勝利の目を向けた。
アランダ夫人、あなたは確かに「番犬」として優秀かもしれないけれど。
猫(社畜上がり)の「チェック機能」を舐めないでほしいわね。
───
翌朝、アランダ夫人は少しやつれた顔で朝食の席についていた。
レオヴィルが「母上、どうされましたか?」と心配する中、彼女は無言で私を見つめ、そっと私の方へ「最高級の小魚」を差し出してきた。
「……少し、この聖獣の力を過小評価していたようね」
(……あら、ようやく認められたかしら?)
だが、平和は長くない。これは一時停戦。和平案など、いとも容易く破られる。
アランダ夫人の指輪のロゴが、朝日に照らされ妖しく光る。
「犬派」の逆襲は、まだ序の口に過ぎないのかもしれない。
しかし私の猫髭は、昨日の勝利で優雅に引くついていた。




