庭園の猫艦隊
「……なにあれ。今度は中庭に『水の迷宮』でも作ったっていうの?」
朝、窓の外を見た私は、自分の目を疑った。昨日まで手入れの行き届いたバラ園だった場所が、一夜にしてキラキラと輝く「猫専用・超巨大水上アトラクション施設」に変貌していたのだ。
透明な魔導ガラスで作られたトンネル型コースターが複雑に絡み合い、色とりどりの浮き具が浮かぶプール、さらには肉球に優しい滑り台まで完備されている。
(……レオヴィル。あんた、公爵家の予算を一体なんだと思ってるのよ)
呆れ果てる私を余所に、屋敷の猫たちは既に「新天地」を見つけた冒険家のように大はしゃぎしていた。
「わぁ〜!! この透明な筒の中を通ると、空を飛んでるみたいだぁ〜!」
モグが巨大な体を揺らしながらウォータースライダーを滑り落ち、水飛沫を上げている。
プリシラは、優雅に水面に浮かぶ蓮の花のような浮き具に乗り、「あら、ステラ。あなたも早くこちらへいらっしゃいな。水温も魔法で完璧に調整されて、とてもポカポカして気持ちいいですわよ」と手招きしている。
だが、私は一歩も動けなかった。
なぜなら、私は前世で金槌だったからだ。
(……無理よ。前世でプールの時間は仮病を使ってやり過ごしてきた私よ。この短い手足でどうやって浮けっていうのよ。私はここで日光浴という名の『高みの見物』を決め込ませてもらうわ)
私は温水プールのサイドにある特製サマーベッドに向かい、既に大の字でいびきをかきながら爆睡する、ドンの横に寝転び、目を閉じた。
すると、コースターを存分に楽しんできたであろうギルが、濡れた体を器用に震わせて水気を飛ばしながら、私の隣に座った。
「……なんだステラ。お前、あんなにお前を喜ばせる気満々だったレオヴィルの善意を無視して、ここで昼寝する気か?」
「……い、いいのよ、ギル。私は今、太陽のエネルギーを細胞に取り込む『光合成』の最中なの。泳ぐなんて野蛮なことは、若い子たちに任せるわ。ねえ、ドン?」
「ぐぅぅぅ! ぐぅぅぅ!」
「ほら、ドンも賛成しているわ」
「……ふーん」
ギルが私の横顔をジロリと覗き込む。銀色の鋭い瞳が、じっと、私の心の奥底を見透かすように細められた。
「……お前、さては泳げないな?」
「(ギクッ!!)」
「図星か。聖獣様ともあろうお方が、水が怖いとはな。笑わせてくれるぜ」
「ち、違うわよ! 怖がってるんじゃなくて、水温による身体への急激な負担を心配して……」
言い訳を必死に紡ごうとした、その時だった。
「ギル! ステラ様! 何を二人で密談しているのですか!? さあ、一緒に泳ぎましょう!!」
純粋無垢な暴力――もとい、ララが凄まじい勢いで突進してきた。
「ちょ、待て、ララ! 俺はもう遊び疲れっ……」
ギルの抗議も虚しく、ララの強力な頭突き(親愛の証)によって、私とギルは無慈悲にプールのど真ん中へと突き飛ばされた。
ドボン!!
「ふぎゃあああ!!(死ぬ! 終わった! 私の猫生、ここで完結!!)」
悪夢のようなトラウマと共に、一酸化二水素の感触が私の全身を包み込む。パニックで手足をバタつかせようとしたが、ふと前世で見た「ラッコ」の映像が脳裏をよぎった。そうだ、抗うから沈むのだ。私は流木そのものになればいい。この軽い体ならいけるはず。
私は絶望の果てに、すべての力を抜いた。
耳を水に浸け、お腹を空に向け、無心で仰向けになる。
(……私はラッコ。私は貝を割る石を持っていないだけのラッコ。……無よ。私はただの浮遊物……)
すると、どうだろう。
ステラ・キャットの驚異的な毛密度のせいか、あるいは蓄えられた「幸福(という名の脂肪)」のせいか、私の体はプカプカと水面に浮かび上がった。
それを見た周囲の猫たちが、一斉に動きを止めた。
「……見て、ステラ様が……」
「なんか面白そうな遊びね。」
何故か、モグも、プリシラも、さらには突き落とされたギルまでもが、私の真似をして仰向けに浮かび始めた。
広大なプールを埋め尽くす、数十匹の仰向け猫達。
「猫団子」ならぬ「猫艦隊」の誕生である。
そこへ、フカフカのタオルを持ってきたリネットが駆けつけてきた。リネットはその異様な光景を目にした瞬間、丁寧に畳まれ、重ねられたタオルの山を落とし、膝をつき祈るように手を合わせた。
「……ああ、なんてことでしょう。水面に浮かぶ、聖獣ステラ様……。重力という名の現世の苦しみから解放され、母なる水にすべてを委ねるそのお姿……」
(……いや、ただ溺れないように必死なだけよ……)
「これこそ、私たち人間が文明の中で失ってしまった『原初の安心感』への回帰そのもの……! ステラ様は今、プカプカと浮かぶことで『悟り(ニルヴァーナ)』の状態をデモンストレーションされているのですね……! 言葉を使わず、ただそこに在ることで『執着を捨てよ』と説いておられる……! ああ、なんて慈悲深い無言の説法なのかしら!!」
リネットの瞳には、熱い涙が浮かんでいた。
(……リネット。久々に妄言を爆発させてくれたわね。ルンバス以来な気がするわ)
私は少し冷静さを取り戻し、水面からリネットをじっと見つめた。
その視線に、リネットはさらに激しく打ち震えているようだった。
「……分かります、分かりますわ、ステラ様! その困惑に満ちた、どこか切なげな瞳……! あなたは、この世界の真理、世界の理をすべて悟ってしまわれた……。けれど、あまりにもお手足が短く、それを羊皮紙に書き残すことができない! その神聖なジレンマに、あなた様は今、苦悩されているのですね!!」
(…………そうよ)
ある意味図星すぎて、私は再び白目を剥いた。
世界の真理なんて、正直どうでもいい。ただ、この状況をどう収拾すればいいのか、その「答え」だけが欲しかった。
「ステラ様、安心してください! その書き残せない智慧は、わたくしが一生をかけて、あなたの『眼差し』から読み取って参りますわ!!」
「にゃん……(頑張ってね)」
私は諦めて、再び空を見上げた。
青い空に、白い雲。そして眩しいほどの太陽。耳元で聞こえる、仲間たちの規則正しい「プカプカ」という水音。
(スローライフって、こういうことなのかもしれないわね……。溺れかけたけど、浮かんでみれば世界の理(スローライフの意味)を知る事ができる……)
私はリネットの謎解釈を聞き流しながら、午後の柔らかな光を浴びながら、水上の浮遊を存分に満喫するのだった。




