肉球タイピング騒動
「……ああ! これはわたくしだけの発見ですわね♪」
ある日の午後。カトリーナは、執務室の机に並べられた未処理の書類の上を、私が無心に「てちてち」と歩く姿を凝視していた。
実を言うと、今の私にとって「積み上げられた書類」は最高の遊び場の一つとなっていた。適度な弾力、足の裏に伝わる紙の乾いた感触、そして何より、歩くたびに書類がカサカサと鳴るのが、猫の身体に深く刻まれた狩猟本能を絶妙に刺激するのだ。
……あー、この厚み、この反発。たまらないわ。前世では、こんなことしたら、頭のおかしい人だったけれど、今はやり放題ね! なんで楽しいのかしら。自分でも分からないわ。
私が意気揚々と「請求書」から「領地報告書」へとステップを踏んでいた、その時。カトリーナの瞳に怪しい光が灯った。
「ステラ……。あなたはただ遊んでいるのではありませんわね? そう、絶対にそうですわ。その足運び、そのリズム……。何か、わたくしたちに伝えたい『叡智』があるのでしょう!?」
(……いえ、ただのマイブームよ。純粋に紙の感触を楽しんでるだけなの。猫の行動に、意味なんて求めてはダメよ)
しかし、一度思い込んだカトリーナは止まらないのは言うまでもない。彼女はその日のうちに、公爵家の御用達である魔導工房へと走り、レオヴィルにさえ内緒で「あるもの」を特注してしまった。
────
数十分後。
私の目の前には、見たこともない奇妙な装置が鎮座していた。
それは、高級な魔導石を削り出して作られた、平べったい板のようなもの。その表面には、人間の文字が一つ一つ刻まれた「ボタン」が整然と並んでいる。
「さあ、ステラ! あなたの魂の叫びを、この魔道具『肉球打鍵器』に打ち込みなさい!」
カトリーナが鼻息荒く迫ってくる。
この魔道具は、上に乗った者の意志を感知し、肉球が触れた文字を羊皮紙に自動的に書き写すという、文字通りの「猫用キーボード」だった。
(……嘘でしょ。なんでこんなもんがあえうのよ! これ、前世で私が命を削って向き合っていた、あの忌まわしきデバイスじゃない!)
目の前の配列を見る。
「あ、い、う、え、お……」
異世界の言語仕様ではあるが、キーボードとしての構造は、社畜時代に叩き込まれたものと酷似している。私の指先、いや猫髭が、かつての「残業の記憶」によってピクピクと痙攣した。
「さあ、ステラ。何か打ってくださるまで、わたくしここを動きませんわ!」
(……勝手にしなさいよ! 私は絶対に打たないわ。これに手を出したら、私のスローライフが『リモートワーク』に変貌しちゃうもの!)
私は抗議の意を込めて、ボードの隅っこに丸まった。しかし、カトリーナは一歩も引かない。それどころか、おやつ(最高級干し肉)をボードの向こう側にチラつかせるという、卑劣な交渉術に出てきた。
(……くっ、背に腹はかえられないわ! 早く打って、終わらせてやる!)
私は覚醒した。
かつて「社内の高速タイピング女王」と呼ばれた私の肉球が、光速で動き出す。
タタタタタタタタッ!!
「……っ!? なんて速さですの! 肉球が……肉球が見えませんわ!!」
私が打ち込んだのは、今の私の全霊の願い。
『テ イ ジ タ イ シ ヤ キ ボ ウ(定時退社希望)』
打ち終えると同時に、魔道具と連動した羊皮紙にスラスラと文字が浮かび上がる。私は猫硬貨御用達の、ドヤ顔でカトリーナを見上げた。
「……ええと、なになに……? 『聖なる……光が……満ちる時』。……ああ!!」
カトリーナは羊皮紙を抱きしめ、天を仰いで涙を流した。
「なんて神秘的な詩ですの……! 『聖なる光が満ちる時』、つまりステラは、世界が幸福に包まれる未来を予言しているのですわ! さすがは聖獣様! あなたの愛の深さに、わたくし、魂が洗われるようですわ!!」
(……ちょっと待って。いつものことながら、どこをどう読んだらそうなるのよ!? 私、確かに『テイジタイシヤ(定時退社)』って打ったわよね!? 誤読にも程があるわ!!)
結局、私の切実な「仕事への拒否感」は、カトリーナの強力な「聖獣フィルター」によって、崇高な宗教詩へと昇華されてしまった。
────
だが、悲劇はそれだけでは終わらなかった。
「カトリーナ! 私を置いて、ステラと秘密の通信をしていたとはどういうことだ!! 許せん!」
秘密にしていたはずなのに、どこからか情報を嗅ぎつけたレオヴィルが、夕食時に血相を変えて飛び込んできた。恐らく工房だろうけど。
「兄様、秘密にしていたわけではありませんわ! ステラが、世界に光を導く予言をくださったのです!」
「何だと!? ステラが言葉を! すぐに私にも、ステラの『神託』を受けさせてくれ!!」
レオヴィルは、私が昼寝をしていたソファの前に、強引に『肉球打鍵器』をセットした。
「さあ、ステラ! 私に、私への愛の言葉を打ち込んでくれ! どんなに長くても構わない。なんなら君との婚姻についての条約文でもいいんだぞ!」
(……この兄妹、本当に勘弁して。……いいわよ、もうヤケクソよ)
私は再びボードに飛び乗り、今度はレオヴィルに向けて「本音」を叩きつけた。
『ア イ ガ オ モ イ ス ギ ル(愛が重すぎる)』
『ネ コ ス イ ハ イ チ ニ チ サ ン カ イ マ デ(猫吸いは一日三回まで)』
レオヴィルはおそるおそる、出力された羊皮紙を手に取った。
その顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「……ステラ。君という子は……。まさか、私にこれほど情熱的な愛を伝えてくれるなんて……!」
(……はぁ? 一体何を読んでいるの?)
「『愛が……永久に……続く……』。そして『猫の女王として……共に……頂点へ……』。……ああ! 君は私に、共に王国を築こうと誘っているのだな! 分かった、今すぐ騎士団の増強と、猫専用の王宮建設プランを練り直そう!!」
(……だから! どこにそんな文字が書いてあったのよ!! 完全に自分の脳内願望を投影してるだけじゃない!!)
私は絶望のあまり、キーボードの上に突っ伏した。
どんなに正確に、どんなに速く自分の想いを打ち込んでも、この「重すぎる愛」を抱えた兄妹には届かない。
前世で、上司に送った「休暇申請」が「やる気の表明」として受理されたあの絶望感が蘇る。
「さあステラ、次は私の健康管理についてのアドバイスを!」
「兄様、次はわたくしのドレスのコーディネートについてですわ!」
再び、私の前には果てしない「入力業務(残業)」の山が積み上げられていく。
私は「にゃーん!!(辞めてやる! 私は猫なんだからね!!)」と叫び、ボードを蹴り飛ばし、部屋から全速力の時速50kmで逃げ出した。
廊下を疾速しながら、私は心に誓った。
あんな魔道具、二度と触るものか。
やっぱり猫は、喉を鳴らして、甘えて、適当にお昼寝しながら、尻尾で相槌ちを打って、それとなく聞き流しているのが一番幸せなのだ。
窓の外では、もう月が静かに私を見守っていた。
明日は絶対に、絶対に「有給休暇」を強行突破してやる。
私は肉球の心地よい疲れ(タイピング疲れ)を感じながら、平穏なウルルと一緒に、深い眠りの底へと沈んでいくのだった。




