非常事態と白き沈黙
ガタゴトと、規則正しい振動が体に伝わってくる。
鼻先をくすぐる、使い込まれた革製品と高級な香水の匂い。そして耳に届くのは、軽快な蹄鉄の音と車輪の回転音……。
(……あら? 私、自分のベッドで二日酔い気味に寝てたはずよね?)
重い瞼をこじ開けると、視界に飛び込んできたのは、公爵家の紋章が刺繍された豪華な馬車の内装だった。
どうやら昨夜の、使い慣れない聖獣パワーによる「ポーション調合」と、その後のレオヴィルの猛攻に疲れ果て、爆睡している間に運び出されたらしい。
「起きたのね、ステラ」
正面に座るカトリーナの声は、いつになく低く、鋭かった。
彼女は窓の外をじっと見つめていたが、その表情には隠しきれない焦燥と不安が張り付いている。
「フェリクス陛下から緊急の呼び出しがありましたわ。王宮で『国家の根幹に関わる異常事態』が起きたと。……兄様は既に先に向かっています。予断を許さない状況ですわ」
(……国家の根幹? ついに来たのね。猫愛をこじらせすぎて、ついに予算が底をついたか、あるいは隣国から『お前らいい加減にしろ』って宣戦布告でもされたのかしら)
カトリーナの強張った横顔を見て、私は覚悟を決めた。
この国に来て、たくさんの騒動に巻き込まれたけれど、私はこの場所が好きだ。
暑苦しいけれど真っ直ぐなレオヴィル、ワガママに見えるけど、人知れず孤独を抱えるカトリーナ。リネットやセドリック、モフリ聖天教の人々。なにより猫ハウスで待っている猫の仲間たち……。
(もし、私にできることがあるのなら。元社畜の危機管理能力と、この聖獣の体を使って、この国を救ってみせるわ!)
私は心の中で強く誓い、カトリーナの膝の上でキリリと表情を引き締めた。
────
王宮に到着すると、空気は一変した。
衛兵たちは血走った目で右往左往し、使用人たちは何かを囁き合いながら慌てふためいている。
この、嫌な予感しかしない静寂と喧騒の混ざり合った雰囲気。
(……知っているわ、この空気。前世で、大規模な『人員整理』が発表される直前の、あの地獄のようなオフィスの空気と同じだわ……)
案内された奥の広間には、フェリクス王と王妃が心配そうに立っていた。
二人とも、幾晩も徹夜したかのように目の下にクマを作り、悲痛な面持ちで天を仰いでいる。
(くるわね……。敵軍の襲来? それとも経済崩壊?)
私は固唾を呑んで、王の言葉を待った。
「……おお、ステラ。よく来てくれた。……予は、予はもうどうすればいいか分からぬのだ……!」
フェリクス王が、絞り出すような声で言った。
「予たちの愛しのアルテリスが……ついに、機嫌を損ねてしまったのだ! 以前も一晩ほど黙り込むことはあったが、今回はもう二日……二日も予たちと目を合わせず、何も口にせぬのだ!!」
「………………」
私の決意が、音を立てて崩れ去った。きっとペットの事よね? 娘さんなら、私を呼ばないはず。
眉間にシワが寄り、目がみるみるうちに細くなっていく。いわゆる「解せぬ」の極致、完全な変顔である。
「陛下、それは御病気ではございませんか!?」
カトリーナが必死に問いかける。
「もちろん、国中の医師に調べさせた! だがどこにも異常はないのだ。浄化の魔法も試したが効果はない。……もはや、聖獣であるステラの『心を通わせる力』に頼るしかないのだ! 予は真実を知りたい」
「陛下……私が懸念しているのは、その『グランガトス(偉大な猫)』が、我が家のステラを傷つけないかということですわ。あれはあまりに巨大……」
「心配ない。グランガトスはとても温厚な生き物だ。ただ……今はその、絶望的に機嫌が悪いだけで……」
カトリーナが、もはや「虚無」を通り越して「般若」のような変顔になっている私を、ひょいと両脇から抱え上げた。そして、腕をピンと伸ばして王夫妻に私の顔を見せつける。私の手足は力が入らず、垂れ下がっている。
「見てください陛下! ステラが恐怖のあまり、こんな形相に!!」
「あら……! なんと、おいたわしい。聖獣様が、これほどまでのストレスを感じておられるなんて……」
王妃が、私の「いい加減にしろよ」という魂の叫びが凝縮された顔を見て、本気で引いている。
(違うわよ。恐怖じゃないわよ。呆れてるのよ!!)
だが、ここで引き下がるわけにもいかない。
私はカトリーナの腕を華麗にすり抜けると、床に着地し、鼻をクンクンと鳴らした。
(……分かったわよ。猫のカウンセラーなら任せなさい。元人間として、そして猫の自称リーダーとして、その『アルテリス』とかいう、ワガママお嬢様の悩みを聞いてあげようじゃない)
私は背後で「ステラ! 無理をなさらないで!」と叫ぶカトリーナの声を無視し、尻尾をピンと立てて、その「猫」がいるという最深部の部屋へと向かった。
後頭部に、王、王妃、カトリーナの三人の、祈るような視線が突き刺さるのを感じる。
────
重厚な扉を開け、私はその部屋に足を踏み入れた。
そこには、広い室内の中央に、まるで彫像のように鎮座する「影」があった。
スフィンクス座りで横を向き、微動だにしないその姿。
……デカい。
白く、しなやかな毛並み。太い手足。そして、こちらを射抜くような鋭い金色の瞳。
(……これ、猫っていうか……白い虎じゃない)
カトリーナが心配するのも無理はない。もし機嫌を損ねて一噛みされれば、今の私の体など一口サイズのおやつだ。
「アルテリス」と呼ばれたその巨体は、ゆっくりと首を巡らせ、新参者の私をじろりと見下ろした。
「……こ、こんにちは。お悩みを伺いに来たわよ、お嬢様」
私は、本能的な恐怖を社畜時代の「ポーカーフェイス」で押し殺し、一歩、また一歩と、白き巨体へと近づいていった。
果たして、この「王宮の主(猫)」を納得させる回答を、私は持ち合わせているのだろうか。




