聖獣の休日
「……何、あの旗の数。聞いてないわよ」
翌朝、バルコニーから街を眺めた私は、絶句した。
公爵邸の門前から続く大通りには、いつの間にやら『モフり聖天教』の紋章が刻まれた旗がずらりと並んでいる。
最初は数十人だったはずの騎士団も、今や数百人の大集団へと膨れ上がり、私がお姿を見せるやいなや、「おおぉ……! 今朝の毛並みも、まさに神の造形……!」と、一斉に唱和して祈りを捧げ始めた。
門の外には、屋敷に入れない一般市民までもが鈴なりになり、うっとりと恍惚の表情で私を凝視している。
(……怖い。不特定多数から『可愛い』じゃなくて『尊い』っていう眼差しを向けられるの、精神的にくるわ……。もはや群がってくれた方が、まだ人間味があって安心できるレベルよ!)
私が白目を剥いて固まっていると、背後からカトリーナが楽しそうに声をかけてきた。
「ステラ、そんなに街が気になりますの? ふふ、仕方ありませんわね。今日はお買い物へ行きましょう」
(えっ、この状況で外に出るの!? 命の危険を感じるんだけど!?)
しかし、逃げる間もなく私は「お出かけ用ケープ」を着せられ、カトリーナと共に馬車へと押し込まれた。
驚いたことに、馬車が門を出ると、モフり聖天教の騎士たちが「聖なる路」と言わんばかりに整然と道を作り、市民たちも決して馬車を止めようとはしない。
ただ、窓越しに私と目が合うたびに、人々がその場に膝をつき、胸の前で肉球のポーズを作って祈るのだ。
(宗教の浸透率、えぐすぎない!? この国の教育カリキュラム、どうなってるのよ!)
賑わう王都の街並みは、公爵邸を遥かに凌ぐ活気だった。王都のメインストリートを眩しく照らし出す石畳の道。蹄鉄が石畳を叩く規則正しい音としても伝わってくるほど丁寧にメンテナンスが行き届いている。レンガ造りの美しい建物に焼き立てのパンの香ばしい匂い。それと混じり合うのは、串焼き肉の脂が滴るスパイシーな香り。猫の鼻には全て来る。露店商たちの野太い呼び声と、朝食を求める市民たちの笑い声が重なり合い、巨大なうねりとなって押し寄せてくる。だが、その感動はすぐに別の衝撃に塗り替えられた。
「……あ、私の銅像。あっちにも、こっちにも」
広場の中心、噴水の脇、挙句の果てには路地の角まで。
いたるところに『ステラ・キャット像』が建立されており、人々が花を供え、祈りを捧げ、熱心に磨き上げている。
それを当然の光景として受け流すカトリーナを見て、私のメンタルにはパキパキと明確なヒビが入っていく音がした。
メンタルをなんとか保って辿り着いたのは国一番の猫用品メーカー。以前、屋敷で披露された例の『ニャンダルフ・マジカル・ケア』の総本山だった。
建物自体が巨大な猫の形をしており、入り口の装飾からして猫型の宝石が散りばめられている。
そして案内されたのはVIPルーム。VIPルームでは一般市民には到底手の届かない禁断?の品々が並んでいた。
「こちらは最新の猫用香水コーナーとなります。パパイヤやココナッツなどの天然エキスなど配合しております。」
明らかに高そうな入れ物に入れられている。
「ステラ、どれが好みかしら?」
「にゃあ……」
(驚いてまともな言葉が出ない……)
「こちらには『ソフトクロー』……爪を傷つけないネイルキャップに、肉球の乾燥を防ぐための深海魚由来のバームもございます」
(……ネイルキャップ!? 猫に!? それにヘアマニキュアに猫用ウィッグ!? 正気なの!? 私がおかしいだけ?)
カトリーナは、ピンク色のふわふわしたウィッグを私に乗せて「あら、お似合いですわ!」とはしゃいでいる。
私は鏡に映る自分の姿を見つめながら(……いや、猫なのよ、私。地毛が一番なのよ)とツッコミを入れ続けていた。
結局、猫用品には心惹かれなかったが、カトリーナは「ステラに必要なものですわ!」と、店にある在庫を根こそぎ買う勢いで注文していた。店員たちが泡を食って馬車まで荷物を運んでいる光景は、もはや一つの演劇のようだった。
楽しいけど、凄まじく心を使い果たした気分……。あら?
「……ねえ、次はあそこに行きたいわ。カトリーナ(にゃあーん)」
帰路の途中、私の目に留まったのは、派手な看板もない、落ち着いた佇まいの人間用のファッション店だった。
カトリーナは、私が人間用の服に興味を示したことに少し驚いたようだったが、すぐに表情を和らげた。
「……ステラも、女の子ですものね。分かりましたわ」
護衛たちが一時的に店を貸し切りにし、静寂の戻った店内で、私たちはゆっくりと服を眺めた。
そこにあるのは、猫用のようなキラキラした過剰な装飾ではなく、人間の女性が「日常」を彩るための、柔らかい色合いのドレスやスカーフだった。
(あぁ……懐かしい。前世の私には、こんな風にゆっくり買い物をする時間も、似合う服を探す心の余裕もなかったな……)
私は一着の、淡いブルーのワンピースの前で足を止めた。
カトリーナがその服を手に取り、私の体に当ててみる。
「ステラ。もしあなたが人間だったら、きっとこの色が一番似合っていたでしょうね」
カトリーナの言葉に、私は胸の奥がキュンと切なくなった。
彼女と一緒に鏡を見つめる。一匹の猫と、一人の公爵令嬢。
その時カトリーナは、私を「聖なる獣」としてではなく、一人の「女の子」として扱ってくれているような気がした。
「……にゃうん(ありがとう、カトリーナ)」
結局、猫用品を爆買いした時よりも、この静かな店内で彼女と一緒にあーだこーだと服を選んでいた時間の方が、私にとっては遥かに価値のある「スローライフ」だった。
帰りの馬車の中、大量の猫グッズに囲まれながら、私はカトリーナの膝の上で丸くなった。
外では相変わらず「聖天教」の信者たちが拝んでいるけれど。
この膝の上の温もりだけは、今の私にとって本物の真実だと思えた。




