鏡の魔法使いと最強の棒切れ
「……ふにゃあ。極楽、極楽」
昨日の「魔石の猫砂」に対する私の評価は、一晩で百八十度覆っていた。
最初は「お尻が痛い」と毒づいていたが、実際に使ってみると、私の聖獣としての魔力と反発し合い、絶妙な反重力クッションを形成。沈み込むようなフィット感は、前世で奮発して買った高級マットレスを凌駕していた。
(現金なものね、私……。でもいいのよ、今は猫なんだから。快適なのが一番だわ)
社畜時代には望むべくもなかった、排気ガスのない澄んだ空気。窓から差し込む柔らかな光。私はのんびりと屋敷の廊下を闊歩し、午前のお散歩を楽しんでいた。
すると、屋敷端の角を曲がった先にある大きな姿見の前で、何やら熱心な話し声が聞こえてきた。
「……にゃ。はじめまして。僕はモグ。君、美味しそうな毛色をしてるね。好きな食べ物は何?」
(……え、何? 客猫?)
覗き込むと、そこには鏡に映った自分自身の鼻先に、今にもくっつきそうな距離で話しかけているモグの姿があった。
「ねえ、聞いてる? 君、僕とそっくりだね。双子かな? ……あ、今、君も口を動かしたね! 僕と気が合いそうだなぁ」
(モグ……。それ、あなたよ。鏡に映った、あなた自身なのよ……)
あまりのシュールさに私が声をかけようとしたその時、背後からギルが「チッ」と舌打ちをして現れた。
「おいモグ、そいつは何者だ。擬態の魔物か?……ほう、不敵な面構えをしてやがる。俺をじっと見つめるとはいい度胸だ」
(ギル、あんたまで!?)
「ギル! この子、僕と同じ質問を同時に返してくるんだよ! すごい魔法使いかもしれない!」
「ふん、いかにも怪しい奴だ。おいステラ、お前もぼーっとしてないで加勢しろ。この鏡の中に潜んでる不審者を追い出すぞ!」
(不審者はあんたたちの頭の中よ……!)
私が「それはただの鏡っていう、光を反射する板なのよ」と必死に説明しても、野生の塊である彼らには一ミリも通じない。
結局、二匹が鏡をペシペシ叩いたり、裏側に回り込んで「消えた!? 転移魔法か!」と騒いでいるのを、私は遠い目で眺めるしかなかった。
後日、使用人たちの間で「聖獣様が鏡の前で、深遠なる真理を追求するかのような深い瞑想(実際は呆れて思考停止しているだけ)をされていた」と、畏怖の念を込めた噂が広まることになるのだが……それはまた別の話である。
ガシャン! という音と共に、ついに鏡が倒れて表面が見えなくなった。
「ふぅ……。手強い敵だったが、俺たちの連携プレーには勝てなかったようだな」
「やったねギル! これでゆっくりお庭でお昼寝できるよぉ」
(……連携も何も、自爆しただけじゃない。まあ、平和になったならいいけど)
人間としての知性を保つのも一苦労だわ、と私がため息をついた時。
カサカサ……と、本能の奥底を直接掻き乱すような「音」が聞こえてきた。
「あら、みんな。仲良く遊んでいるのね? 昨日の猫じゃらし、少し音が大きすぎたから、私が魔法で調整してみたのよ」
リネットが手にしていたのは、昨日のあの『ドラゴン猫じゃらし』だった。
本来なら火薬のような爆発音がするはずの代物だが、リネットの魔改造により、今は「獲物の鳥が羽ばたくような、極めて繊細で複雑な振動音」へと変化している。
(……ふん。私は元人間よ。あんな棒切れの先に羽がついたおもちゃに、今更……)
シュッ! パシッ!
「…………っ!?」
リネットの指先から繰り出される動きは、まさに神業だった。
放物線を描き、物陰に隠れ、そして不規則に跳ねる。
最高級のドラゴンの髭が放つ微かな魔力は、私の視神経をダイレクトにジャックした。
隣を見ると、ギルの瞳孔が限界まで開き、目が真っ黒なビー玉のようになっている。
「……クソっ、あんな安っぽい、子供騙しの動きに……。俺様が……騙される……はずが……」
ギルの腰が、小刻みに左右に振れ始める。いわゆる「お尻フリフリ」だ。
「わあぁぁ! 楽しそう! 我慢できないよぉ!」
耐えきれなくなったモグが、巨大な毛玉となって突っ込んでいく。
それが引き金だった。
「にゃああああああ!(待て、それは私の獲物よ!!)」
「どけモグ! それを仕留めるのは俺だ!!」
気づけば、私はギルと競り合うようにして、宙を舞う羽を目掛けて全力ジャンプを繰り返していた。
元人間のプライド? 聖獣の威厳? 知るかそんなもん! 今、私の目の前で不規則に動く「アレ」を捕まえること以上に、この世に重要なことなど存在しない!
「うふふ、みんな元気ねぇ」
微笑むリネットの前で、三匹の猫(うち一匹は最高位の聖獣)が、一本の棒切れに翻弄され、畳の上でのたうち回る。
数十分後。
舌を出してハァハァと肩で息をしながら、私はギルと並んで床に伸びていた。
「……あんな動き、二度と見せるなよ」
「…………それはこちらのセリフよ」
鏡の騒動でバカにしていたはずの私たちが、今や同じように「棒切れの敗北者」として転がっている。
異世界のスローライフは、どうしてこうも、猫としての本能に敗北し続ける日々ばかりなのだろうか。
私は、リネットが満足げに片付けた猫じゃらしを、未だに瞳孔を開きっぱなしで追いかけながら、深い敗北の余韻に浸るしなかった。




